(3)
ベル閣下と帽子とあいつ
『ベル閣下が帽子を欲しがっています』
青竜将軍カルラのついたそんな他愛のない嘘が、バイアシオンを席巻していた。
そしてそんな嘘に巻き込まれた不運な男と、生まれたばかりの天使のような記憶喪失の娘が一人。
大いなる魂の物語と、人類の革新はここから始まる……。かもしれない。
「父さん……何を、やっているの?」
「ああこれですか。頼まれごとです。ベルゼーヴァ・ベルラインへの贈り物についての相談を受けましてね。私も一肌脱ごうと思ったわけです」
「贈り物って、お菓子でも作るの?」
「いいえ。作るのは帽子です」
オルファウスの答えに、ケリュネイアは怪訝な顔をした。
なんなれば、オルファウスが立っているその場所は、猫屋敷の奥――いつもの転送室や私室ではなく、調理場だった。ついでに言えば、何の意味があるのか不明だが、養父は金髪を三角巾で覆い、割烹着姿でかいがいしく立ち動いていた。
鍋が火を噴き、蓋が踊り、中からぶくぶくぶくぶくと泡が立った。
その鍋から……奇声が聞こえるのは、気のせいだろうか。
なんとなく不穏な気配を感じて、ケリュネイアはその場に立ちつくす。オルファウスはケリュネイアの疑問を読み取ったのか、振り返らぬまま語った。
「ディンガル帝国の宰相の、あの髪型は中々すごいんですよ。
あれは魔力で維持されているものです。彼は元々魔力の強い人物ですが、出生の経緯が、その力を希有なもの、魔人に近いものにまで押し上げたようですね。もっとも彼自身、その力をコントロールできているわけではないようで、身体からあふれ出る魔力の一部が、ああして髪を逆立てるほどの勢いでほとばしっているのです。
それでも昔はハリネズミのように髪が四方につき立っていましたが、今は天を指し示す一本だけ。……それだけ彼の力が統制されてきた証でしょう。彼は彼で、ずいぶん多くの苦労をし、それを乗り越えてきたようですね」
いつもと変わらぬ口調で、淡々とオルファウスは語った。
どんなに真剣なことも重大なことも、オルファウスの口ぶりだと、まるでたいしたことのないように聞こえる。
――鍋はぐつぐつ煮えている。
ふとケリュネイアは、その鍋の中から、大きな湯気が、いや何か透明などろりとした塊がうごいたような気がした。
「……父さん。どうしてそれが、お鍋をかき回すことにつながるの?」
「今話したように、彼の髪型を構成しているのは、彼の身体からあふれている魔力の一部です。普通の帽子では、あの鋭利な棘で破かれてしまいますから、ちょっと特殊な加工が必要なんですよ。強い魔力に負けず、あの髪型も崩さず、髪型に沿って変形する、変幻自在の魔法の帽子――」
どろり、と鍋の中から透明な液体が立ち上る、いや、蠢いた。その一部が鎌首のように持ち上がった。
見覚えのあるその姿に、思わずケリュネイアは鳥肌が立ち、むき出しの両腕を抱え込んだ。ネモがしっぽを振りながらケリュネイアの足下にやってくる。
思わずケリュネイアはネモを詰問していた。
「何で止めなかったのよ……お仲間でしょう?」
「よく見ろ、あれは偽物だ。ま。偽物だろうが本物だろうが害なことには変わりねえがな」
諦めたような、どこかやけっぱちの口調でネモが言った。
☆
「――というわけで、オルファウスさんから届いたのがこの……」
アンジェラが言い終わる前に、ベルゼーヴァは腰のダブルブレードを抜きはなっていた。
危険物とは、このことだったか!
転送機から空間転移で運ばれてきたアメーバ状のそれは、ぺたっと一瞬床にたたき落とされ平たくなったものの、すぐにその一部をうにょんと持ち上げ、奇声を放った。
「ギーヒッヒッ! ギヒッ、ギヒヒ、ククク」
「どうですか? すごいですよね、自在に動くし、動くときに音も出すんですよ、この帽子」
「……帽子ではないだろう! どこからどう見ても危険極まりない闇の属性の生き物だ」
ベルゼーヴァ自身はその実態をちらりと見たことしかなかったのだが、これはあの、ザギヴ・ディンガルが幼少期の折りに遭遇したという、彼女の家を襲った魔人ではないだろうか。
ザギヴは気丈に振る舞ってはいるが、その出来事は彼女に大きなトラウマを与えたようだ。
それを凡人の弱さだとベルゼーヴァは思っていたが、今目の前で、この奇声を発するグロテスクな造形を見てしまうと、不本意ながらザギヴに共感してしまった。
かのベルゼーヴァでさえ、これほど醜い生き物を見たことがなかった。どこからどう見ても嫌悪を感じさせる、醜悪な生物。
何のつもりでネメア様の養父殿はこの生き物を自分に送りつけてきたのか。
するとオルファウスから説明を受けていたアンジェラが、問答無用でユニオンスペルを唱えだしたベルゼーヴァを、慌てて遮った。
「違います、闇属性なんて危険な生き物じゃありません! 水属性の温厚で陽気な……魔道具なんだそうです」
「魔道具だと!?」
度肝を抜かれてベルゼーヴァは足下を見つめたが、やはりそのアメーバは執務室の床で、苦悶するように蠢いている。
よく見ればそれは確かに、魔人と呼ぶには、ずいぶん小さく弱そうに見えた。大きさとしてはハンカチを広げたよりも大きいくらいだろうか。平たくなったり顔を突き出したり、伸びたり縮んだりするのでわかりにくいが。
「……何故道具が動いて、あまつさえ奇声を発したりするのだ?」
「さあ? それはオルファウスさんに聞かないとよく分からないんですけど。
何でも『変幻自在に形が変わり、魔力にも強い帽子』を作る際、水を使おうと思いついて、それで似た属性を持つ生物を参考にしたからみたいです。あ、その生き物の名を取って、この道具の名は、ミニ・マゴスと……」
「やはり有害な魔の生き物ではないか!!」
再び剣を構えなおしたベルゼーヴァをなだめるように、アンジェラは小首をかしげてその場にしゃがみこみ、やおらミニマゴスを指でつついた。
「何をしているのだ君は……!」
「ギヒッ、ギヒヒッ」
「ほら。なかなか、可愛くないですか?」
「ならばこの帽子は君に進呈しよう。君がかぶればいいだろう?」
冷たくベルゼーヴァは言った。
できればこの得体の知れない道具だか生き物だかは、さっさと持ち帰って、二度と私の前に姿を現さないでほしい。
「でも、せっかくベルゼーヴァ様のためにオルファウスさんが作ってくれたものですし、慣れたら気にならないと思いますよ。
それにこの帽子を頭に乗っけたベルゼーヴァ様は、とても強そうに見えると思います。革新の道を歩くのに、ふさわしい姿ではないでしょうか。このミニマゴスもベルゼーヴァ様の髪型に最初はとまどうかもしれませんが、徐々に懐いて、棲みついてくれるんじゃないかと……」
「その言葉が出ると言うことは、君も道具ではなく、生き物と見なしているではないか。
そもそもこれは帽子を持ってくるという話であったはずだ。私はペットを飼う気などない」
「わかりました……。じゃあ、もう一度、ベルゼーヴァ様のために帽子を探してきます」
「訂正しよう。私は帽子などは必要としていない。だから探してこなくてもいい」
「あれ? そうなんですか?」
きょとんとこちらを見つめるアンジェラに、ベルゼーヴァは深く深くため息をついた。
この無限のソウルを用いての人類革新の道は、彼の予想以上に困難で、果てしなく遠い。
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