【小説】1:種 

twitterのSSメーカーで連載してたテキストです。
実際にはこの文章を元に、取捨・加筆して作成すると思いますが、場面の雰囲気など参考になれば……

1 種

 忘却の仮面が剥がれ落ち、その下から見慣れた顔が覗いている。
 けれどその瞳は固く閉じられ、もう二度と開かれることはない。目の前にあるのは、剣を受けて斃れた兄の亡骸だった。
 そして、その傍らには、セラとよく似た面差しを持ち、故郷を焼いた魔人の顔でもあった女性が、兄の日光を自らの胸に突き立てた姿で事切れていた。

『お願い、少し一人にさせて。ロイの傍にいたいの』

 ようやくアーギルシャイアから身体を解放され、正気に戻ったはずのシェスターは、真っ先にそう口にした。
 青ざめた顔で、彼女は兄の亡骸を見つめていた。

 身体を乗っ取られ、与り知らぬ間に起こっていた一連の出来事が、よほど衝撃だったのだろうと思った。だからほんの一時、彼女の気を休ませるために部屋を離れた。そのわずかな間の出来事だった。

 何があったか察したセラの『姉さん!』という悲鳴に似たひび割れた声が、シエルの耳に焼き付いている。
 床に溢れ流れた真紅の血は、色もまだ真新しい。赤い絨毯を広げたかのように、二人の身体の下で、鮮やかに赤く濡れ広がっていた。

「……俺の旅は終わった」

 洞窟の外へと出たとき、振り返らずセラは言った。手にした忘却の仮面をシエルに手渡すと、そのまま一人で歩き去った。
 こうしてセラもまた、姿を消した。

 気付けば身近な人を次々喪って、手には闇の神器が残されているだけだった。
 こんなもののために自分は旅をしてきたのだろうか。
 取り戻したかったものはこれではないと、やるせない思いで、シエルは手の中の仮面を見つめた。



 魔人アーギルシャイアのしもべとなり、闇に与した兄を許せなかった。
 最初のうちは忘却の仮面のせいで記憶を失い、操られているだけだと思っていた。
 けれど街道で、あの海辺の研究所で、兄と魔人の会話を聞いてしまった。兄は、全て思い出したその上で、聖職者ロイではなく闇の騎士サイフォスの自分を選んだと悟ったとき、言いようのない怒りがこみ上げた。

 ミイスを焼かれたことを水に流して、仇であるはずの魔人に絆されて。
 記憶を失い、心も無くしていたなら仕方がない。
 けれど思い出したその上で、自ら心を捧げたならば――許せない。

 だから剣を振るった。明確な殺意はあった。
 目の前にいるのは、もうシエルの知っている兄ではない。そう思ったからシエルは斬れた。それなのに。

『強くなったな。お前と剣を交えることができて、嬉しかった』

 ……遺言の言葉は、昔の兄のままだった。

 セラの姉シェスターも、そうだ。
 魔人アーギルシャイアに身体を乗っ取られていただけだと思っていた。
 だから解き放たれれば、正気に返り、全て元戻りになると信じていた。

 けれど彼女は『兄の傍に居たい』と言って、取り戻したはずの自分自身を投げ捨てて、兄の後を追った。
 おそらく兄を愛していたのだろう。兄が接していたのでは、シェスターではなく、アーギルシャイアだったはずなのに……何故?

 分からなくなった。
 闇に堕ちれば心はない。そう思っていたのに、心はあった。闇の中で別のものさえ生じさせて。

 闇とは何?
 同時に突きつけられる――愛とは何?

 光の下で正しいことをしたはずだった。けれど自分の傍にはもう誰もいない。



 漫然と世界を巡り歩きながら、目的はもうなかった。
 ラドラスは墜ち、リベルダムが陥落したのはつい最近だった。世界が混沌に陥っていく中で、何を信じればいいのか、シエルには分からなくなっていた。

『彼』が目の前に現れたのは、そんな時だった。


* * *



 街道を歩いていたところで、不意に周囲の気配が変わったのが感じられた。

 気付けば前方に一人の男が立っていた。
 古風なローブに身を包み、眼鏡をかけている細身の男。
 けれどただの通りすがりの旅人ではないことは、見た瞬間ざわりと背筋が総毛だったことで分かった。

 熟練の戦士としての勘か、あるいは自分が闇の魔物や気配、神器に多く触れてきたからなのか。
 濃い闇の気配を漂わせながら、彼はまるで長年の知己のように気安い口調で話しかけてきた。

「やあ、俺はシスティーナの伝道師の一人で黒の祈りだ。君が『忘却の仮面』を手に入れたって聞いてね。他にもたくさん闇の神器を持っているだろ? それをもらいに来た」

 そこで言葉を切り、からかうようにこちらを見た。

「ついでに君自身もいただいていくよ。本当は六才以上は、女性であっても容赦はしないっていうのが俺の信条なんだが、肝心のウルグの依代がいないんじゃ、闇の神器だけあっても仕方ないからね」

 考えるより先に手が腰の剣を抜き、手慣れた構えをとっていた。
 目の前の男は危険と本能が教えていた。

 かつてミイスの村の神殿で過ごしていた頃は、こんな動きはできなかったのに。
 戦う方法が、殺す術ばかりが上達していく。嫌気と虚しさが一瞬かすめる。

「抵抗するというなら、こちらも力ずくで行かせてもらおうかな」

 男が細身の剣を抜き、そのまま躍りかかってきた。振り下ろされた剣を、手にした剣で受け止める。
 キィンと高く済んだ鋼の音が空に吸い込まれる。
 男の顔が間近に映る。肌は濃い褐色、色のついた眼鏡の下の瞳は涼しげな笑みを浮かべていた。
 うっすらとした髭の間の薄い唇が、囁くように告げた。

「君にとって闇の神器はそんなに大切かい。大切な人の形見だから? お兄さんを殺して奪い返したのは君自身だろうに」
「!」

 ――何のために、この先も剣を振るうの?
 切り結んでいる剣の刃が、細かく震える。

 予め自分のことを調べられている不快感より、心を見透かされたことへの衝撃が大きかった。男の言葉に動揺したのではなく、その言葉が深いところに突き刺さった時点で、自分が以前の自分と違うと悟る。

 迷ってしまったら、戦い続けることはできない。

 目の前の男の瞳が、ちらちらと面白がるように揺れている。
 システィーナの伝道師。

 ふと聖女システィーナを取り戻すために、破壊神ウルグが闇に下ったことを思い出す。
 元は高潔な神だったが、一途な愛ゆえに自ら闇に身を堕とした神。

 闇とは何? 愛とは何?
 ――それを知るためには、闇を知るより他に方法がない。

 噛み合っている剣の刃を弾いて、その場から身を離し、シエルは構えを解いた。剣を引いて鞘に収める。
 ふっと目の前の男が微笑した。

「いい心がけだね。ご褒美に痛くない方法で連れていくことにしようかな」

 シエルが目を上げるよりも先に、ふわりと周囲に何かが舞った。
 自分の四方に闇が広がり、鼻先にくすんだような乾いたような、甘い花の香りが漂う。

 急速に意識が遠のいていき、自分の思考が闇に吸い込まれていく。
 抗いもせず身を任せていると、崩れ落ちかけた身体を腕で抱き留められたのを感じた。

 狙い澄ましたように闇は、心の隙をついて忍び寄る。
 それきりシエルの意識が闇にとぎれた。