ふわりひらひら 

 ふわりと、頭上から舞い降りてくる花びらに、シアは足を止めた。
 明るい陽の光を透かして、頭上の花々は、白い雲のように、淡く、やわらかに光り、群れさざめいている。
 アキュリュースの南の谷間に自生する風桜は、今が盛りのようだ。
 そそりたつ谷壁にかこまれ、時折吹き付ける強風も気にせず、絢爛と咲き誇っている。普段は、実の方の探索で来るので、こうして花が咲いている時期に訪れるのは初めてだった。

(……きれい)

 谷底に向かいながら、背後を振り仰げば、空は遙かに高くなっており、外界の物音は、岩壁に反響して、こもったような鈍い響きを帯びている。世界が丸ごと、どこかに遠ざかってしまったようだ。
 そんな場所で、花びらだけが、白く淡く、谷に吹き込む風に乗って、騒ぐように揺れている。
 谷の底から見上げる、一面の薄紅の舞いは、見上げていると、すーっと吸い込まれそうな心地がして。

(夢みたいな風景だな)

 ぼんやりとそんなことを考えていると、低い声がかかった。
「ぼーっとするな」
 顔を上げれば、セラの険しい表情が目に入った。
 隙なく周囲を伺いつつ、風に煽られる黒髪を無造作にかき上げながら、セラは先ゆく足を止めて、真っ直ぐにこちらを見ている。早くしろ、とその目が言っている気がして、シアは慌てて荷物を抱えなおした。
「す、すみません。セラさん」
 急いで谷底へ続く道を降りようとしたが、急勾配の道はくねくねと曲がった足場の悪い下り坂で、勢いよく出した片足がバランスを崩し、つるりと滑った。
「きゃ、きゃああああ」
「っ、おいっ!」
 ころころ谷底へと転がりかけたシアを見て、慌ててセラが駆け寄ってくる。
 シアはしっかり荷物を抱えたまま、思わず目をつぶってしまったが、意外なほど近いところで、どんっとぶつかる衝撃を受けた。
 いや、衝撃ではなかった。

(……あれ? 痛くない……)

 ぶつかったというよりは、何かに受け止められたような、しっかりとした安定感のある感触だった。
 目を開けると、視界を覆ったのは黒い胸当てで、次に自分を支えている籠手が見えた。

(まさか……)

 そろそろと目を上にあげると、近すぎるところに、セラの白い顔があった。
 硬質な瞳がまっすぐに自分を見下ろしている。一気にシアは、ぼっと身体が熱くなったが、セラは顔色も変えず、素っ気なく尋ねてきた。
「怪我はないか?」
「は、ははははい……」
 慌ててシアはセラの腕の中から離れようとしたが、セラは、腕を伸ばして、もう一度シアの身体を引き寄せて、きつく押さえ込むように抱きしめた。

(ぎゃ、ぎゃああ)

 半ばパニックになったシアが、心の中で悲鳴をあげていると、セラはそれに気付いたのか気付いていないのか、叱咤するような声をかけた。
「静かにしろ」
 そのまま、セラは首をひねって背後を伺う。ようやくシアも、騒ぐのをやめて、神経をとぎすました。

(……何か居る?)

 微かにではあるが、谷を吹き抜ける風の音に混じって、土を踏みしめる獣の足音が聞こえる。折れ曲がった岸壁の向こう側から、そっとこちらに忍び寄るような、遠ざかるような、重たい四つ足の生き物が動く気配がする。
 しばらく、足音は、うろうろしていたが、何か別の物に気を取られたかのように、不意に軽くなり、遠くなってしまった。
 そこで、ようやくセラが腕を離した。
 ほっとシアは息をつく。途端に色んな安堵がいっぺんに押し寄せてきて、その場にしゃがみ込んでしまった。セラはそんなシアを見下ろして、一言言った。

「注意力散漫だ」
「…………はい」

 混乱しつつも、しょんぼりしながら、シアは返事をして、顔を上げたが、つと息を飲み込んだ。
 空高くから降り注ぐ花びらは、セラの黒に偏った容姿に、不思議と良く映えていた。
 風が流れ、艶のある黒髪がさっと流れる。その黒い川に絡むように、溶けない雪の白さで、花弁が静かに舞い落ちていく。
 舞い散る花びらには、木々の枝で花弁を振るわせているときの華やかさと違って、凛とした透明な清らかさがあった。暖かさよりは、冷たさを感じさせる、硬質な潔さ。
 群れさざめいていても、風に乗ってさすらうときは、花弁一枚。
 目の前の人に、どこか似ている。

(……きれいっていうことばが、似合う男の人って、いるんだ……)

 身内のひいき目を別としても、兄のロイの容姿も、かなり整っていた方だと思う。
 だが、今セラを前にして感じるこの感覚は、これまで味わったことないものだった。
 つい目が吸い寄せられる、美しさ。

「おい。聞いてるのか。何をぼーっと見ている」
「あ。いえ、きれいだなあ……って」
 そこまで言って、慌ててシアは口を閉じた。
 明らかに失言だった。再度かーっと耳の根元まで熱くなり、同時に大失敗をおかした心細さも一気に押し寄せてきた。
 セラは片眉をあげ、呆れたような表情を浮かべたが、それから背後を振り仰いで言った。
「そんなに珍しいのか、この花が」

(花だけではないんだけど)

 そう思いつつ、シアも空に目をやり、記憶を手繰る。
 故郷の森は緑の光で包まれていて、それはそれで趣も美しさもあるところだったが、こんな風に花の雪が降ることはなかった。
「風桜って、初めて見ました。こんなに、たくさん咲くんですね。ミイスは、緑の木々ばかりだったし」
「……そうか」
 セラもまた、何か記憶を探るように、唇を結ぶ。
 そこでこちらを見て、言葉を止め、すっと腰を落とした。
 しゃがみこんでいるシアの真正面に向かい合い、顔を合わせると、指を伸ばしてくる。

(……!?)

 セラの白い指が、軽くシアのこめかみの上辺りの髪に触れ、いつにない繊細な丁寧さで、注意深く、髪の一筋を梳いた。
「あ、あの……?」
「ついていた」
 そう言って風桜の花弁を払うと、セラは立ち上がった。
 その瞬間、セラの顔に浮かんだものを見て、思わずシアは、瞬きをした。
 いつもの近づきがたいような頑なさが溶けて、ふっと柔らかに――微笑んだような。
 ひらりと花びらが舞うように。ほんの一瞬、ふわりと浮かんだセラの表情に、シアは息が止まる気がした。セラ自身も、気付いていない表情だったのかもしれないけれど。
 すぐにセラは、いつもの表情に戻り、いつもの調子で言った。
「風気岩を見つけて、早く帰るぞ」
「は、はい……」
 そう言いながら、早くもすたすたと足を進めているセラに返事をして、シアも急いで立ち上がる。
 先を行くセラの背を追いながら、そっと呟くように、今の光景を反芻する。

(ひらりと不意に訪れて、ふわりと心に宿るような――)

 思わず足を止めてしまう、美しさのような。ふとした拍子にかいま見える、潔さのような。わずかな隙間を縫うように浮かび上がる、柔らかさのような。
 ほんの一瞬遭遇して、すぐさま日々の中に溶けて消えてしまう。けれど、そういう瞬間と時間は、確かにある。
 見上げれば、風桜が、花弁を静かに降り散らしている。

いただいたロイ&シェスター、ミイス主&セラのイラストのお礼として、ゆい様にささげたものです。
ふだんあまりかかないものということで、ラブ&ときめきを目指してみました(笑) 穏やかで柔らかな雰囲気を持つミイス主シアちゃんとクールでカッコよく優しいセラ。ゆいさんのところに行くと、セラの格好良さに惚れます。
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