願わくば 

 折からの雨が、周囲を柔らかな物音で包んでいる。
 落ち着いた眼差しを窓の外に向けていたオルファウスは、視線を室内に引き戻した。

 居間には珍しい客人が訪れていた。オルファウスの妹であるルティの娘、ラミュである。エルフに生まれながら、森を飛び出し、人間やドワーフたちと交友を結び、世界を巡り歩いて、エルフの世界にあらたな価値観を引き込んだ彼女は、「冒険エルフの祖」と若エルフたちから賞賛されている一方、頑なに伝統を守り続ける古老たちには「あれは母ルティよりも、伯父のパルシェンに似た変わり者」と非難されることもあった。もっとも伯父と姪の二人は、そんな皮肉など一向に気にしてはいなかった。世界は広く大きく混沌としていて、一種族の小さな安寧にかかずらっている場合ではないことを肌で実感しているからだ。そんな似たもの同士の二人が話しているのは、世界に兆す不穏な気配についてのことだった。

「なかなか予測のつかない事態でしてねえ」

 留守番役であるはずのオルファウスの娘ケリュネイアは今は居ない。最近は、闇の神器を探し求めて出歩いていることが多いという。だからこそラミュが、こうしてオルファウスに会いに賢者の森の猫屋敷を訪れることができたのだが。

「その話は、本当なの?」

 ウルグの降臨が間近に迫っているかもしれない――オルファウスは、そう告げたのだ。その降臨先として狙われているのは、彼の養子ネメアの肉体だという。 だからこそネメアは覇王となって――もう一人オルファウスの養子ケリュネイアも兄とは形は違えど――闇の神器を求めているのだと。エルフの古老保守派の間で、密やかに囁かれている世界破滅の噂。伯父パルシェンなら何か知っているかもしれないと、真偽を確かめに来たラミュは、英雄ネメアに課せられた予言のことを聞いてため息をついた。オルファウスは淡々とした口調で応えた。

「流言(るげん)にすぎないと、一笑に付することができないのは確かですね。ネメア自身はそうさせない心づもりでいますが、竜王の咆吼も響きました。世界が大きく動いてることは間違いないでしょう」

 宵闇は、静かな雨音の向こうで、確実に迫ってきている。
 自嘲気味にラミュは呟いた。

「『由々しき事態にエルフの長たるパルシェンは何をしているのか。いやむしろ彼がこの要因を拾いあげたのだ。どう責をとるつもりなのか』――保守派の古老たちなら、こう言いそうね。悠久の時を生きて、半ば外界に無関心でいたクセに、いざ不安材料の種があると、あれこれ騒ぎ立てるんだから。でもそれだけ。 何もしない傍観者ほど、たちの悪いものはないわね」

 憂いと憤りを半々に交えた呟きは、かつて自分が旅に出た当時のことを思い返しているせいかも知れなかった。
 ――何かが起こりつつある。その真偽を見極めたいの。
 太古からの掟を破って森を出ようとしたエルフの娘に、周囲は猛反対をした。なぜそんなことをするのだと。それに対してラミュはこたえた。世界に兆す不吉の予兆と、世界に満ちているであろう大きな可能性。その両方を知りたいのだと。

 美貌でも名の知られた母ルティは、エルフの伝統を覆す革新的な娘の行動と気持ちを理解できなかった。同胞たちの間で孤立しつつあったラミュの、ただ一人の味方となってくれたのが、伯父であるパルシェンだった。それ以来、伯父と姪は密約を結んでいる。お互い所属する世界――外界とエルフ界での現状や動向の情報交換をしているのだ。

「伯父様はどうなさるおつもりなの? 獅子帝ネメアの今のやり方に賛同しているわけではないでしょう? 何か策は講じてあって?」

 根回しをするに違いないと最初から思っているラミュの言葉に、オルファウスは苦笑した。

「我の強い子ですからねえ。私の意見なんて聞きはしませんよ」

 私にできることは見守るくらいです。そう言ったオルファウスに、ラミュはらしくないと首をひねる。
 苦心しているのかしら。表には見せないだけで。
 場合が場合なだけに慎重を期しているのかもしれない。下手に動いたら竜王に目をつけられかねない。
 世界のバランスを保つ守護者たる存在である竜王。だが守護という言葉の裏に、どうしてもラミュは、エルフの森の古老たちと同じ匂いを感じてしまう。

 頑なな価値観――世界を大きく揺り動かす存在を危険視し、排除しようとする働き。

 意に沿わないものは、その考えを、存在そのものを否定されてしまう。もしかしたらそれは世界の『業』に近いものなのかもしれない。未知なるものへ転じる可能性は、閉塞に包まれた世界に救済の光をかかげる一方で、もたらされる変化の波はとてもつもなく大きく、世界を根底から作りかえる恐ろしいものでもあるからだ。
 似たような構図はどこにでもあるものだ。
 救いと破滅は、おそらく表裏一体なのだ。だからこそ竜王のような管理者的な存在がいるのだろう。だが。

 悔しさがこみ上げて、我知らずラミュは唇を噛んだ。守ることと維持することは決して同義ではないはずだ。竜王の価値観の元に、なかったことにされてしまう可能性がどれほどあることか。不思議な懐かしさと訝しさの混ざり合った混沌とした思いが胸を揺さぶり、ラミュは内心で首をかしげた。
 違和感に近い何か。『なかったことにされた可能性』を、自分は遠い昔にどこかで知っているような気がした。

 大いなる恐れと期待と希望を抱いて、世界を巡ったことがあった。その体験は自分も大きく変えた。そしてエルフの世界に、わずかながら変化をもたらすことができたのだ。それは自分がエルフの森を出て『あの人』と出会ったから――。




「無限のソウルの持ち主が、ここを訪れました」

 さらりとオルファウスの告げた言葉にラミュは我に返る。
 思い出しかけたはずの何かは、再び意識の奥に引っ込んでしまった。あの人、なんて。いったい自分は誰のことを思い浮かべようとしたのだろう?
 ラミュはオルファウスを見据えて告げた。

「もしかしてそれが伯父様の切り札なの?」
「いいえ。『無限のソウル』は、誰のものにもならない、自由で手の届かない魂ですから。利用なんてできませんよ」
「じゃあ伯父様は……何を?」
「無限のソウルの持つ可能性が、あの子にも届くといいなと、願っているだけです」

 オルファウスの呟いた言葉は、深い哀惜と、仄かな希望の両方を備えていた。
 ラミュは見知らぬ他人を目の当たりにしたような不思議な気分になって伯父を見た。自分の知っている伯父は、もっとしたたかな、参謀家めいた人物だったと思っていた。だが伯父は伯父で、ここでの生活を営むうちに、また新たな価値観、新たな生き方を見いだしたのかもしれない。

 この人はいつもそうだった。異端の中にありながら、変化し続け、それでいて柔軟にそれを飲み込もうとしている。
 だからこそのクィーダロアなのだ。

 オルファウスは、ラミュに言い聞かせるというよりは、独り言のように呟いた。

「無限の可能性に触れることで、ネメアやケリュネイアの中に、別の可能性が生まれて育つことを、そしてそれが世界を救うすべになってくれることを、期待しているんです。
 たった一人の無限のソウルに期待するのではなく、無限のソウルに出会い、違った可能性や生き方を見つけ、それが他の者たちにも伝わり変化をうながす。そうやって変わっていく、可能性の連鎖に私は希望をかけているんですよ」

 大いなるソウルよ自由な旅を  願わくば世界に救いを

 オルファウスの言葉に、わずかにラミュは瞬きをする。
 なぜか目の端に涙がにじんだ。訳も分からぬまま、ラミュはオルファウスがいれてくれた紅茶を一口すすった。
 たった一人の無限のソウルにではなく――。

 たとえその輝きが消えても。残してくれた可能性の種は、今もこうして続いている。
 誰に告げるでもなく、けれどもし願いがたゆたうという次元の狭間があるのなら、この声が届くといい。
 あなたに会えて、あなたと旅ができて良かった、と。
 誰に届けるべき声なのか、ラミュ自身にもわからなかったけれど。

  • 願わくば

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