風の声
広がる蒼天のもと、石造りのエルズの街は白くまぶしく輝き、街を囲む青い海が穏やかな細波をたたえ、遠く彼方まで続いていた。
風に舞い遊ぶ髪を押さえながら、エアは神殿前に立ち、下界を見ていた。自分が治める小さな島を眼下におさめ、ゆっくりと視線をあげ、海の向こうの大地へと向ける。
魔道国家ラドラスから、各巫女たちが離れて、すでに八百年。
エアは四巫女の中で、唯一『知識』だけではなく『記憶』も継承する者として、孤島から大地を眺め続けてきた。
ラドラスが停止した今、古の知識と魔力を色濃く残す自分こそが、巫女の代表として世界を見守らねばなるまい。それが自分の役目だとエアは思っていた。
……それをあの、ズゥの末裔の娘と来たら。
「なんで、まだ見たこともない未来を運命だってあきらめちゃうの? どうして、自分の意志と希望で前に進むことを愚かだって言うの?」
褐色の肌をした、少年のような眼差しを持つ年若の巫女の姿を思い出して、エアは苦笑する。
未来を見通すこの自分に、ラドラスに縛られていた地の巫女が、それを言うのかと。呆れるやら、腹立たしいやら、滑稽やら。
常に先を見通し、誰が誰に何を告げるかさえも視えてしまい、知らず心構えをしてきた自分だというのに、彼女の言葉は予想していなかった。だからこそ深く心に響いたのかもしれない。
彼女の隣に立っていた無限のソウルが一役買っていたことだとわかっているが、他ならぬ地の巫女が無限のソウルを引き連れ、自分にそう告げた。そのことが、重要なのだ。
ラドラスを復活させんとする陰謀の中で、巫女たちの先頭に立ったのは、エアではなく、巫女の自覚もまだ薄い若い少女だったということ。
そして目の前の娘には、自分の記憶にあるズゥの面影は、もうなかった。それだけの時が流れたのだ。自分が幾人もの母を持ちながら、容姿も記憶も昔とほぼ変わらず『更新し続けていた』間にも。
地の巫女は、顔を上げて、天に向って決然と告げた。
「悲しみや絶望を生むためにボクたちはいるんじゃない。八百年、ボクたち巫女の存在がこれのためにあったというのなら、今日で、それを終わりにしよう」
――これが、若さということか。
未来は決まっていないと告げ、古きからのくびきを終わらせる。
その物知らずの恐れのなさが眩しかった。幼いとも思った。
けれど、無限のソウルの力を借り、未来さえ不確定にしたのならば――定まっていない未来を自ら選び取れる、その機会を掴んだのならば――彼女のこれから先の道を妨げてはならぬ。
彼女の若さと、強さと、これまで流れた時の長さを前にして、そのとき思ったのだ。
「あれエア、出迎えてくれたの?」
ひょいと眼前に焦茶の髪が現れた。神殿から街に続く長い石段をのぼりきったエステルが、目を丸くして驚いた声を上げた。
「よくボクが来るのがわかったね」
「わらわを誰と思っておる。天地先年を見通す風の巫女ぞ。壮健そうだな土の巫女よ。相変わらずあちこち出歩いていると見える」
「エヘヘ。さすがエアだね。だったらボクが言うことも分かっているかな……旅立ったよ」
「そうか」
海の向こうの、そのまた向こう。まだ見ぬ大地へと向かう、無限のソウルの後姿が、エアの脳裏にぼんやり浮かぶ。
だがこれは未来を見通す力で視たものではなく、ただの想像だ。その証拠に、見えるのは後姿だけで、向かう先の光景はエアには見えない。
エステルは口をつぐんで、エアと同じように青い海の彼方を見つめている。砂漠の民の装束だという白い外套が風になびく様を見つめていたエアは、その風の中に、かつて自分の傍らにいた大きな存在の声を聞いた。
『風の巫女よ…風になれ』
ここより遥かに遠い、まだ見ぬ空へと舞っていった偉大な竜の姿を、あのときの翔王の嘆息のような言葉を、そして慈愛に満ちた瞳を思い出す。
『お前の母たちが逃れたいと願っていた地獄のくびきから逃れよ。この者ならば、お前を縛る鎖をも軽々と引きちぎるだろう』
最後の力を振り絞るように、悠然と翔王は頭を上げ、翼を一度ひらめかせた。祝福の吐息のような一陣の風が、エアの髪をなびかせ、衣をなびかせ、エルズの神殿を抜け、孤島を抜け、大海へと吹き抜けていった。
『風よ、小さき娘よ…。お前も…自由に、なるのだ…』
――わらわも同じように映っていたのだろうな。
土の巫女を見て、その若さを眩しく感じ、希望へと向わせてやらねばと感じたように。
きっと翔王もエアを見て、同じように感じたのだ。
ふと視界が水に揺れる。戸惑いつつ、予期せぬ出来事が身に起こる嬉しさも感じているエアに、エステルが声をかけた。
「エア、きみ……泣いてる?」
「わらわとて予想できぬこともあるわ」
エアの言葉にエステルは瞬きし、それから何かを悟ったように、もう一度海の向こうを見つめた。
「そうだね。きっとそういうものも、これから先たくさん増えていくよ」
二人の巫女の間を、エルズの風が吹き抜けていった。
2018-06-10
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