記憶 

 鳳凰山探索は、予定外の出来事だった。
 きっかけは、ウルカーンの冒者ギルドのカウンターで、必死に訴えていた男の子の言葉だった。

「鳳凰を見たんだ!」

 鳳凰山は、大陸の東端付近の高地に突き出た火山性の岩山で、中腹付近でもなかなかの標高と見晴らしを誇る、ウルカーンの人々には馴染み深い山だった。
  最近では魔物が徘徊するようになり、人の訪れも減ってはいるが、怖い物知らずの子供たちは、こっそり大人の目を盗んで半ば度胸試しのつもりで山の麓に遊びに行くことも多いという。鳳凰を見たとギルドに報告にきた少年も、そうしたやんちゃ坊主のひとりだったが、意気揚々と報告に来た彼を迎えたのは、ギルドの マスターの半信半疑の声と説教じみた言葉だった。

「鳳凰山に鳳凰がいるなんてなあ。あそこらを飛んでる大きな鳥でも見間違えたんじゃないのか?」
「見間違いじゃないったら」
「わかったわかった。確かにあそこは神聖な山だしな。鳳凰だって、もしかしたらいるかもしれないな」
「本当にいたんだよ! 今すぐに行けばまだいるかも」
「おい、それは駄目だ。子供だけで山へ向かうなって言ってあるだろ。大怪我してからじゃ遅いんだぞ。もう一度確かめに行こうなんて、馬鹿なことは考えるなよ」
「そんなあ。だって……」

 ギルドのマスターに適当にあしらわれ、少年はしょんぼりとうなだれたが、ギルドのカウンター前に立っていたルシカが、今のやりとりの一部始終を聞いていたのに気づくと、くるりと顔の向きを変えて、訴える相手を変えた。

「ねえお姉さん、冒険者だよね! ぼくのかわりに鳳凰山に行って、鳳凰はいるって確かめてきてよ! ちゃんと依頼料も払うから。ぼくのお小遣い、今月分全部あげる。だから……」
「おいおい」
 マスターが声をかけたが、こうした子供の一途で熱心な依頼は、ルシカには覚えがあった。以前、ロストールのスラムで女の子の人形を取り返してくるよう頼まれたときのことだ。
 ルシカはちょっと考え、それから少年をのぞき込むようにして、問いかける。
「いいの? 今月って、まだ始まったばかりだよ。お小遣い、なくなっちゃうんだよ」
「うん。だって本当にいたんだ!」

 少年がきっぱりと言い切って、それからギルドのマスターをにらむ。
 そんな目でにらむなよ、とマスターは渋い顔をしたが、ルシカはその少年の頑な横顔に、自分の子供の頃を思い出し、唇をゆるめた。
 この子は悔しいのだ。子供だからと、端から相手にもされず、話もきいてもらえないことが。
『どうして、あたしには何も教えてくれないの?』
 昔、ミイスの神器について尋ねたとき、兄も父も、お前はまだ幼いから、修行の旅から帰ってきたら、と言葉を濁した。そして、そのままになった。
  苦い思い出がよみがえったが、だからこそルシカは少年を安心させるように言った。

「わかった。じゃあ、あたしたちが鳳凰山に行ってくるよ」
「おい、そんな安請け合いしていいのかい? あんた最近忙しいんじゃないのか。それに今だって、話を聞きたくて来たんだろ。噂じゃあんた捜し人がいるって……」

 兄なら。
 この場でこの少年の訴えを聞いたら、今のルシカと同じように、この子のために確かめに行くんじゃないか、そんな気がした。
 そこにあの仮面の男が重なる。少年が見たという鳳凰。もしかしたら今回も同じ出来事なのかもしれない。
 困ったようにカウンターに身を乗り出しているギルドのマスターに、ルシカは軽く笑いかけた。

「大丈夫。あたしも鳳凰山に行って確かめたいことがあるんだ」
 それから少年を見下ろして言った。
「じゃあ三日後に、このギルドに来て。そのときに結果を報告する。どうかな?」
 少年が息を吸って、それから嬉しそうに大きく頷いた。
「うん、待ってる!」

 そのままルシカは宿に戻り、急遽鳳凰山に向かうことになった旨を告げた。案の定、フェティは大騒ぎをし、ナッジは少年とルシカのやりとりに小さな笑みを浮かべた。
 そしていつもなら、こうした小間使い的な依頼には必ず一声文句を発するセラは、思案するように口元を引き締め、簡潔に言った。

「気になることがある。付き合ってやってもいいぞ」

 ルシカが顔をあげると、セラはそんなルシカを一瞥し、誰かの姿を探すように、ふっと視線を窓の外に転じたのだった。


* * *


 ごつごつとした岩が剥き出しになっている。
 迫りくる岩壁や足下に転がっている岩石は、かつての火山活動のなごりだ。鳳凰山は、今なお活動盛んな炎竜山ほどの熱気はなく、比較すれば登りやすいと言えるのだが、この地形の地熱と気流の関係か、時折巨鳥の羽ばたきにも似た、巻き上げるような風が吹く。
 その風に足を取られないよう注意しながら、ルシカ一行は山道を進んでいった。 町の人にも馴染みのある山なだけに、中腹までは楽に登れるのだが、そこから先は少々険しい。ルシカが先頭に立って登り、セラ、フェティ、ナッジと順に続く。
 ルシカは頂を仰ぐ。うっすらと薄雲がかかっており、道の先は蒼白くかすんでいた。

 ――今度は、いるだろうか。
 遭遇を期待しているのは、鳳凰と呼ばれる生き物のことだけではなかった。
 こうした謎の生き物の噂を聞きつけて、現れるかもしれない人物。
 あの仮面の騎士に、せめてもう一度だけでいい、出てきて欲しかった。

 初めて会ったのは紺碧の洞窟だった。その後二度ほど、怪物退治の噂を聞いて、現場に駆けつけるたびに、彼に遭遇した。
 彼は『サイフォス』と名乗った。
 けれど、本当はそんな名前ではないはずだ。あの声を聞けば。あの短剣を見れば。あの見知った剣筋を前にすれば。
 その一方で、ざわざわと嫌な予感もしていた。
 サイフォスの受け答えや態度は、まるっきり他人に対するものだった。あたしたちにも、初めて会った相手のように接してきた。
 その態度は嘘や芝居のようには思えなかった。本当に、あたしたちのことを忘れ去ってしまっているようだった。

『あなたは誰?』

 そう尋ねたい気持ちに駆られたが、問いかけは口に出せなかった。
 尋ねたところで答えは分かっている。私はサイフォスです、と聞き覚えのある声で答えるだけだろう。
 本当にそんな名なのか、と重ねて尋ねたセラに、それ以外に何があるのですかと、不思議そうに問い返した。
 それ以外の事実などないと言わんばかりに。
 こちらの言葉やあたしたちの顔は、あの冷たい仮面の前に、跳ね返されてしまうようだった。

 だから三度目に会ったとき、セラは彼の正体を、強引に確かめる手段に出た。
 たとえ顔が隠されていても、こちらのことをまるで覚えていないようでも。交わした絆は、その手元に残っている。
 ――月光に反応する武器はただ一つ。その剣を持つ男も、ただ一人。



 麓近くは広かった山道が、登るにつれて徐々に細くなっていく。
 足下に注意しながら歩を進め、ようやく足場が安定した道に出ると、セラが少し足取りを速め、隣に並んだ。

「……悪かったな」
 謝罪というよりは、会話の糸口として出された言葉のようにも聞こえた。
「何が?」
「月光をかざして、確かめたことだ」
 山を吹く風に、砂埃が舞い上がった。セラの長い髪も風に舞い、ルシカが見上げた横顔を隠した。声だけが落ちてくる。
「お前は、あんな風に、あいつの正体を知りたくなかったのではないか?」

 ざわりとルシカの心が騒いだ。
 その件に関しては、あれ以来一度も互いの口に出さなかった。
 フェティが後ろで、何でこんなひどい石ころだらけの道を高貴なアタクシが登らなくてはならないのよ何なのよこの鬱陶しい風は!と元気に騒いでいる。しんがりをつとめるナッジが、まあまあ落ち着いてとフェティを宥めているのが切れ切れに届いた。
 騒がしいフェティの声にかき消されて、こちらの話し声は聞こえていないだろう。
 ルシカは隣のセラに、囁くように答えた。

「……いずれ、確かめなくちゃいけないことだったよ」
「だが、あんな風に暴き立てるような真似をしたのは早計だった」
 形の良い白い顎を前方に向けて、セラが黒い瞳を険しくする。
「そのせいで、おそらくあいつは姿を消したのだろう」

 そう。あれから、あの仮面の騎士の姿を見ていない。
 あの後も何件かティラの娘退治の依頼を請け負ったが、その場にサイフォスが現れることはなかった。
 たまたまなのか、それとも避けられているのか。
 後者だろうとルシカも思っていた。きっと次に会えば、お互いに探り合いなど悠長な事態ではなくなる。『あなたは誰?』ではなく『どうして』という追究になっていく。

「セラは、サイフォス――兄は、現れないと思う?」
 兄、と口にした途端、胸が鋭く痛んだ。
 セラも足を止め、ルシカの言葉に含まれた意味を感じとっただろうが、そこには触れず、ああ、と低く答えた。
「あいつは月光の共鳴を受け、逃げるようにしてあの場を去った。それ以来見ていない。少なくとも今は、俺たちの前に出るのは危険だと思っているのだろう」
「だったら、どうしてセラはこの依頼を気になると言ったの?」

 思わず問いかけると、セラは無言でルシカを見つめた。
 漆黒の瞳がまっすぐルシカに据えられた。時には厳しいと感じることのある瞳が、今は感情を読ませない硬い色のまま、そこにあった。そこには叱る色も憐れむ光もなかったが、それでも長い間隣にいれば、考えていること、どうしてそういう行動に出るかは漠然と察せられる。
 ――あたしが、望んだからだ。
 また現れないだろうか、と怪物退治の依頼の片隅で、そう願ってしまう自分がいる。

 実を言えば、サイフォスに会うとどうしても心穏やかではいられない。
 慣れ親しんだ穏やかな態度で、「あなたなど知らない」と否定されれば、かえって苛立ちややるせなさが募る。それでもようやく見つけ出した存在だ。会う場所が限られるなら、そこに足を運ばずにはいられなかった。
 その仮面の下の目が、ルシカを妹だと認めることはなくても。
 サイフォスは、まるで兄の影法師のようだった。こちらのどんな想いも、あの冷たい仮面に吸い込まれて、陽の光の当たる場所まで届かない。
 だからセラが月光をかざしたときには、ルシカは内心で少し安堵したのだ。いつまでも疑惑を抱き、振り向いてくれるのを待つのは辛い。だったら光を浴びせてしまった方がいい。
 改めて思えば、ずいぶん身勝手な話だ。それを行ったのが、自分ではなかったことも含めて。

 その後、サイフォスは現れなくなった。
 セラはそれで察したのだ。サイフォスは逃げたのだと。ティラの娘退治にはもう現れる気がない――少なくとも、自分たちの前に姿を現す気はないのだろうと。
 それでもルシカはつい、怪物の噂を聞けば、足が向いてしまう。
 セラはルシカの兄に会いたいという気持ちを酌んだのだろう。ルシカのやることに文句や軽い小言を言いながらも、仕方ないと思えば黙って最後まで付き合ってくれる人だった。
 ルシカの様子に、『悪かった』と口にしたが、それはセラのせいではないのに。

「気になることがあると言ったのは、嘘でない」

 言葉を止めていたルシカに、声がかかった。
 その声はいつもと変わりないように聞こえた。しかしその後に続いた声には、微かな身を震わすような熱が籠もっていた。

「オルファウスが言っていただろう。あの魔人は、究極の生き物を造るための材料を求めている。そのためティラの娘を狩りにやってくるかもしれない、と」

 跳ね上がったルシカの視線から目をそらすと、セラはさっさと歩き出した。足を速め、今度はルシカの前に出て、ルシカに変わって、先頭に立って歩きだす。ルシカやフェティ、女性がいることを意識してのことなのか、その足取りは決して速すぎるものではなかった。
 ルシカもその背を追うようにして、歩き出した。
 あの魔人。故郷を焼き払った相手――アーギルシャイア。
 知らず剣の柄にかけた手に力が入った。大きく息を吐き、肩の力を抜くように心がける。緊張したままでは、いざというとき、身動きがとれなくなる。
 そうだ。つい仮面の騎士の事に気をとられていたが、元々そういう話だったのだ。

 忘れていたわけではない。ただ、あえて意識をそらしている部分はあった。
 あの魔人のこと、故郷の最後のことはできるだけ思い出さないようにしていた。薄情かもしれないと自分でも思うが、意識して閉め出せるようになったのは、それなりの前進だと思う。
 旅に出たばかりのころは、その記憶が強すぎるのか、ふとした何気ない時に瞬間に勝手に思い出される光景に、身体が強張ることがあった。炎の魔法を使うことも苦手だった。魔法自体は使えるのだが、火を見ると集中力が乱されるのか、他の術に比べるとコントロールが鈍るのだ。

 そんな理由もあり、旅に出た当初のルシカは、ウルカーン地方の依頼はなるべく避けていた。
 火の神殿を祀る地だけに、周囲には炎竜山をはじめ、多くの火にまつわる探索地がある。足がすくむ、とまではいかないが、燃えさかる炎を間近に見れば、やはり平静でいられないようで、剣も魔法もいつもよりキレが悪い。用件を済ませたら、早々に退散する、という習慣がついていた。
 時が経ち、冒険者として名が売れ始め、いつまでもこのままでいてはいけない、と思ったころに、束縛の腕輪を探すという依頼を受けた。
 本腰を入れてウルカーン地方を巡り歩いたのは、このころだった。そのおかげか、今では苦手意識はだいぶ薄れている。
 そのときの闇の神器は、今ルシカの手にある。
 ケリュネイアがそうして欲しいと言ったのだ。どちらにしろ闇の神器は、今のところルシカしか持ち歩けない。普通の者が持つと、その闇の力に侵されるのだそうだ。

 ――――?
 何か、思い出しかけた。いや何かが引っかかると言うべきか。

 闇の神器は、強い闇の作用を持ち、普通の者はその闇の余波を受けてしまう。だからこそミイスでも、神器は厳重に管理されていた。いくつもの聖なる封印を施し、その影響が出ないようにしていたのだ。
 しかしその封印は、あの魔人が襲撃してきたときに破られた……はずだ。

『私は私が管理するはずの大切なものをもらいに来たの。
 神殿で尋ねてみたけど、誰も教えてくれないの。だからみんな殺しちゃった』

 思い出せばやはり辛いが、その意識の裏で瞬くものがあった。
 ミイスにあったはずの闇の神器。ルシカが一度も見ることが叶わないまま、アーギルシャイアに奪われた神器は、結局どういうものだったのだろう。
 村では、ただ神器としか呼ばれていなかった。村人たちもその存在は話の中だけでしか知らなかったはずだ。
『ルシカ様もロイ様もこのミイスの村の大神官ダディアス様も、神器の守護者と呼ばれるご一族。闇の神器という危険な宝物を破壊神の騎士と呼ばれる魔人どもから守るのがお役目なのです』
『お前たち神官家ってさ、このミイスにある神器を守ってるんだよな。……ところで神器ってなんなんだ?』
 村の衛兵を務める爺や、幼なじみはそう言っていた。神器という存在は知っていても、その実体は知らない。具体的にどういうものかを詳しく知っていたのは、多分父と兄だけ。巫女たちも、詳しくは知らなかったはずだ。

『私もこの神殿の神器がどのようなものかは存じません』

 あの日の朝ことが、ふと巻き戻されて、耳に蘇った。
 村はずれの広場に向かう途中の石畳に佇んでいた巫女が言った。地震があり、竜王の咆吼が響き、いよいよ闇の動きが活発するのかと案じていたその話の流れで神器の事が話題に出たときに、先代の大巫女も兼ねていたルシカの母から聞いたことがある、と。

『隠れて伝わる伝承では、記憶を失うかわりに、すさまじい力を手に入れられるとか――』

 ――記憶を失う代わりに。

 ざわりとルシカの背筋が総毛だった。
 蝶の群れが羽ばたくように、脳内をいろんな映像が踊っては消えた。故郷の光景が、あのときの出来事が、そして仮面の騎士の姿が脳裏を駆けめぐった。
 故郷の塔が、石造りの橋が、街の広場が唐突に浮かんで消えた。ひらりとそこに炎の影が踊る。一息にミイスの村を飲み干す炎。いつもは薄暗いミイスの大神殿がうっすらと赤く照らし出される。
 破られた結界。笑い声をあげたあの魔人。黒髪の魔人の目的はミイスに隠されていた品を取り戻すこと。

『私は私が管理するはずのものを取り戻しに来たの』
 そして呼び出された怪物。その怪物を前に、兄は覚悟を決めて、手の中の聖剣を握りしめる。
『怪物は必ず私が倒す。大丈夫、私が嘘を言ったことがあったか』
 必ず倒すと言った。何があっても。どんな手段を用いても……!

 兄が身を翻して神殿の塔の階段を駆け登っていく。螺旋の石段の最上階にあるのは、封印の施された櫃。その箱に手をかけて開けると、その箱に入っていたのはミイスに伝わるという闇の神器。
 身につけたものに力を与える。その代わりに記憶を奪う品。
 兄が、サイフォスが振り返った。彼が身につけているのは文様の入った仮面。ミイスのモザイク床のような。無機質で冷たい、どこか禍々しい気配すらするあの仮面――禍々しい。自分が密かに畏怖していた品。

 機能停止したデスギガースの前でセラが言う。
『ロイほどの手練れでも倒すのが難しい。だがこいつは間違いなく機能停止している』
 手にした月光が鈍い光を放つ。けれど応える光はない――ここにロイは居ない。
『日光はアーギルシャイアには持ち去れない』
 持ち去れるとしたら、それは兄自身。あるいは兄であって兄でない人物。

 魔人が笑いながら身を翻す。その後ろに仮面の男が付き従う。
 彼の手の中にあるのは聖なる輝きをもった短剣。仮面の男が無表情で言う。
『私はあの方の忠実なる仮面の僕。あの方は私をサイフォスとお呼びくださいます』

 守護者の使命を全うするために、自ら記憶と引き替えに闇の神器の力を借りた。
 そしてあの女は言った。私はこの神器の管理人。
 ――記憶を失ったのは闇の神器の力のせい。
 ――そしてすべてをなくした兄をサイフォスとしたのは。

 船酔いに似た感覚を覚え、ルシカは顔を覆った。本当にめまいを起こしていたのかもしれない。ぐいっと強く腕を引かれて顔を覆っていた手をはずせば、セラがルシカを半ば抱えるようにして、声を荒げていた。
「おい」
 セラにすがりつくようにして、ルシカはそろそろと顔を上げた。セラの腕の間から前方を振り仰げば、染みるほどの青空が目に入った。雲が風によって吹き払われ、山頂へと伸びる一本道が綺麗に見渡せる。その道の先には禍々しく翻る炎の翼を持った鳳が見えた。
 それだけだ。求める人物の姿も、あの魔人の姿もなかった。

「あの日、兄の身に何があったのか、分かったわ」

 あたしはそれに、もっと早く気づくべきだった。
 最初から答えは全部自分の記憶の中にあったのに。


* * *

 
 ギルドのドアを開けると、カウンターの前に立っていた少年が弾かれたように振り返って、ルシカの元に駆け寄ってきた。
「お姉さん! 無事だったんだね」
 期待と緊張に満ちた瞳をあげ、ルシカの様子をうかがいながら、おそるおそると言った調子で問いかけた。
「どう? 鳳凰はいた……?」
 かけている期待とは反対に、問いかける声が細いのは、もしかしたら駄目だったかもしれないという想像が働くからだろう。ここからは鳳凰山を仰ぎ見ることができるだけだ。この三日間少年は頂上にいるであろう鳳凰の存在を思い描いて、ルシカたちの帰りを待っていたはずだ。
 ルシカは少年を見て、ゆっくりと答えた。
「うん。きみは正しかった。ちゃんと鳳凰はいたよ」

 それからルシカは少し背筋を伸ばして、ひとつひとつ丁寧に少年に説明していく。あれは確かに炎のような長い優雅な翼を持っていて、あり得ないほど大きな鳥だった。外見も話で伝わっている鳳凰によく似ていた。でも神聖な生き物ではなくて、闇の力を持つ怪物だったということを。
 少し迷ったのだ。
 自分の見ていたものが、信じていたものが、見間違うほどよく似ているけれど、違うものだったと告げるかどうか。
 鳳凰だと信じていた子に、化け物だったと言うのは酷なような気もしたし、ふと考えてしまったのだ。
 もしかしたら元々鳳凰と信じられていたものそれ自体が、このティラの娘のことだったのではないか。炎の翼を持つ怪鳥を見た者が、伝説の鳳凰だ思いこんで、鳳凰山という名前を山につけたのではないか。だとしたらあれは鳳凰ではないとも言えない。
 真実は、どちらになるのだろう。

 少年は生真面目な瞳でルシカの話を聞いていたが、話を聞き終わると、一つ頷いて言った。
「そっか。悪い鳳凰だったんだね……。お姉さん、ありがとう。これ報酬少ないけれど、受け取って」
 悪い鳳凰、か。少年の言葉に少しルシカは切ない思いを抱いた。どうしてかは、自分でも分かっていた。
 少年が渡してくれた硬貨は、手のひらに握りしめていたからか肌の温もりがあった。少年は気がすんだのか、そのまま勢いよく走ってギルドを後にしようとしたが、出入り口でルシカの方を振り返って、心配そうに言った。
「お姉さん、もしかして、その悪い鳳凰をやっつけるとき、怪我をした?」
「え?」
「なんか元気なさそうに見える」
 子供は鋭い。ルシカは慌てて笑顔を作る。そんなことないよ、ただ山を登ったからちょっと疲れちゃった、と言うと、ようやく少年も笑顔を浮かべて、ありがとう、と元気よく手を振って出て行った。

「お前さんは、優しいな」
 そんな一部始終を見ていたのか、ギルドのマスターがルシカの背に声をかける。
 ルシカは苦笑してマスターの方を振り返った。
「その褒美と言っちゃなんだが、お前さんの力になれるような話でもあればいいんだが。探しているのは家族だったっけか。あいにくそれらしい人物の心当たりは……」
  マスターが続けかけた言葉を、ルシカは遮った。
「ありがとう。でも、そちらはもういいんです――片づきました」
 ルシカの言葉に、マスターは目を見張った。
「へえ、見つかったのかい。おめでとう」
「お祝いには早いかな。まだ、探さなくてはならない相手がいるんです。
 もし仮面をつけた男が現れたという話があったら、教えてください」

 どんな悪い話でも構いません。もしかしたら、黒髪の女と一緒にいるかもしれません。
 そう続けて、目を伏せる。
 悪い鳳凰だったんだね……という少年の言葉が、ルシカの胸に鳴っていた。