夜の谺(双子ver)
夕日は、冬空に透き通るように冷たく燃え広がっていた。
ヴァイライラは小さく首を振ると、目の前のツェラシェルの姿をうかがう。小高い丘の上にたたずんだ兄は、木の幹に背をあずけて平野を見下ろしたまま、いっこうに動こうとはしなかった。
「兄さん。一言だけでも、ゼネテス様に挨拶しておいた方がいいと思うんだけど」
ヴァイライラが声をかけたが、ツェラシェルは唇の端に微かにつりあげ、ひらひらと手を振っただけだった。
「面倒だな。お前らに任せる」
「えー。じゃあ私も行かない! ここにいる」
ヴィアリアリがツェラシェルの腕にしがみついた。甘えるようなその仕草に、ツェラシェルの顔に苦笑が浮かび、ヴァイライラはため息をつく。
「もうヴィアまで。分かったわ。私が一人で行ってきます」
「え、え、え。ちょっとヴァイってば!」
止める間もなく丘を下っていく姉の背を焦って見つめて、ヴィアリアリが、しがみついた腕の主の顔を、そろそろと見上げた。
ヴィアリアリのそんな表情を、ツェラシェルは笑みで受け止め、わざとらしくヴァイライラの向かった方角に、目を向けて言う。
「さすがヴァイだな。いっつも頼りになる」
「……う~」
「もうすぐ日も暮れるし、早く仕事を済ませようと思ってくれたのかな。いっそ、ここでの仕事は、全部ヴァイに任せてみるか」
すでにヴァイライラの姿は、麓へ続く木立の中へと消えている。これでヴァイが戻ってきたら、兄は手放しでヴァイを褒めるだろう。ヴィアリアリの目の前で。
ぱっとツェラシェルの腕から手を離して、ヴィアリアリが叫んだ。
「もう狡いんだから! 待ってヴァイ、私も行く!」
慌てて姉を追いかける妹の背を、笑いながら見送って、ツェラシェルは視線を険しくした。
再び眼下へと視線を向ける。白い天幕の群れが、ぽつぽつと間隔を開けて並んでいた。
ロストールを出て東に数キロの国境付近、竜骨の砂漠の南の街道を逸れたところに広がる平野部に、ゼネテスは陣を張っていた。
大々的なものではない。斥候が敵陣を視察するために張っているような、申し訳程度の小規模な陣だ。
――だが恐ろしいことに、これが正真正銘の本陣、主戦力だったりするのだ。
夕日に照らされている天幕の群れは、微かな茜の色に染まり、どこか寂しげに、心許なく映った。
*
「別に一緒に来なくても良かったのに」
「そうしたら、またヴァイばっかり褒められるじゃない!」
「……ヴィアは気楽でいいわね」
自分の後を追ってきた妹と、丘を下る道を肩を並べて歩きながら、ヴァイライラは、もう一度ため息をついた。
それでなくても、今度の任務は気が重いのだ――人間関係の面で。
ヴァイライラの不安を裏付けるように、ヴィアが不満顔をこちらに向けた。
「ヴァイが真面目すぎるんじゃない。ヴァイは、ゼネテスって平気なの?」
「……ゼネテス『様』よ」
「あんな人に様づけする必要なんてないじゃない」
ヴィアは言ったが、これは兄の言葉だ。
『あんな奴に様付けなんて、ごめんだな』
兄の敵は自分の敵。妹は単純にそう思えるらしいが、姉はまた少し違った。
相手は自分が仕えるエリス王妃の甥だし、そういう身内贔屓の目を抜いて考えても、悪い人間ではないと思うのだ。能力的にも人格的にも。
むしろ反対の方向において、希有な人物だと思っている。
孤児としてさすらい、呼ばれる名すら持たなかった自分たちに名をくれたのは彼だった。冒険者として出回っている彼は、王宮にもファーロスの屋敷にもほと んど寄りつくことはなかったが、ごくごく稀に顔を出すと双子の様子を気遣ってくれた……ように思う。あまりはっきりとは覚えていないのだが。
それほど大昔の話ではないが、最近というわけでもないせいか、どうも記憶が定かではなかった。
拾われたのは、兄と自分と妹と三人一緒だった。
悪い扱いどころか、これ以上は望めない待遇で迎えてくれた。養い親としてすべての面倒を見てくれたエリスには、どれほど感謝してもしたりなく、せめてもの恩返しとして、自分と妹はエリスの宝石として仕えることにしたのだ。それはとても自然な成り行きのように思えた。
そうだ。自分たちは密偵として、エリスに仕える道を選んだが。
――どうして兄は、違う道を選んだのだったか。
その頃は兄も、ゼネテスと同様に姿を見かけることが稀だった。私的な用があったのか、双子たちより5つ6つほど年上の兄はすでにエリスに仕事でも命じられていたのか、長いこと留守にしていたように思う。
ただ、戻ってきたときには、兄はゼネテスをひどく嫌っていた。
ゼネテスの控える総司令部の天幕は、周囲よりわずかに大きい程度で、これといった過剰な装飾は施されていなかった。
威厳も豪華さも誇示しない。ロストールの貴族らしからぬゼネテスだからこそ、前回の戦は勝ち抜けたが、今回もそれが通じるかどうかは微妙なところだ。
密偵として身になじんでいる目立たぬ足取りで、双子はいくつも張られた天幕の間をすり抜けながら、目指す一つへと近づいていく。入室を乞う前に、目当ての人物が窮屈そうに軽く長身をかがめて、入り口から姿を現した。
「ゼネテス様」
双子の姿に、ゼネテスが驚きの表情を浮かべた。
「お前さんたち、何でここに? 叔母貴に何かあったのか?」
ゼネテスにしては珍しく、切羽詰まったような響きに、ヴァイライラは気づかれぬ程度に目を見張った。
「そうではありません。陛下から、今回の戦において、一時的にあなた様の配下として働くよう命じられました」
「……叔母貴が?」
ゼネテスの目に複雑な色が浮かんだ。
「気遣いはありがたいが、お前さん方の仕事は、戦場での立ち回りじゃなくて、叔母貴の周囲を守ることだろう。俺のことはいいから、王宮に戻って、叔母貴や国王や姫さんたちを頼む」
ヴィアリアリはゼネテスの前に立ってから、きゅっと不機嫌な顔つきで口を結んだままだったが、早く帰れ、と言わんばかりの口調で片づけられ、カチンときたようだ。
まずい、とヴァイライラは制止しようとしたが、それよりも先にヴィアリアリが言い放った。
「エリス様の命令があったから、私たちは来ただけです。それさえなかったら、ここにはいません!」
失礼しましたと言い捨てて、くるりと兄の元へと駆け戻っていく。
だからこの人は嫌いなのよ!
背中に書かれた台詞は、ヴァイライラだけではなく、ゼネテスにも読めたようだ。
あー、とゼネテスが右手を額に当て、ヴァイライラが頭を下げた。
「大変失礼をいたしました。ゼネテス様」
「いや、いいって。今のは俺が悪かった」
大きく息を吐いて、ゼネテスはヴァイライラを見やった。
「不愉快な思いさせちまったな。来てるのは、お前さんたちだけかい?」
「……いえ。兄も一緒です」
ヴァイライラの答えに、ゼネテスは苦笑した。
「本当に悪いな。お前さんが一番大変だろう」
見透かされているようでヴァイライラは気まずくなったが、ゼネテスは懐かしい姿を追うような目を、ヴィアリアリの戻っていった方角に向けた。
そんなゼネテスの姿につられて、ヴァイライラは口を開いていた。
「ゼネテス様。重ね重ねの失礼を承知でおたずねします。……兄と何があったのですか?」
「さあな。俺もそれを知りたいんだが」
はぐらかすような、心底不思議がっているような、曖昧な響きがヴァイライラに返された。
*
この平野以外にも陣は敷かれている。
だがそれは見かけ倒しのニセモノだ。義勇軍と傭兵の一団で作り上げた空の陣。虚構を装わなければならない時点で、すでに負け戦の道を走っている。
この国の貴族どもはボンクラぞろいと思っていたが、この状況下で参戦拒否とは、あきれた神経だな。
さばさばとツェラシェルは考え、皮肉な笑みを浮かべたつもりだったが、あまり、うまくいかなかった。
エリスに呼び出され、ゼネテスの元へ行ってこいと命令を受けたとき、もちろん拒絶した。だがエリスは薄く笑って言った。
「ゼネテスを窮地に追い込んだのは、この私だからな」
自嘲気味にツェラシェルを見て続ける。
「……あの坊やは、国を潰す気まではなかろうと思っていたが、見通しが甘かったようだ」
新月の夜の一件。それを知っているのはごくわずかだ。
目の前の王妃と、自分と、それから。
「お言葉ですが、失敗したのは、余計な邪魔が入ったからです」
――あんなダルケニス、とっとと正体暴いて追い払っておけば、ファーロスは腑抜けぞろいの貴族連中を完全掌握して、今度の大戦に臨めたのだ。
その筋書きをぶち壊したのは、他でもないゼネテスだ。
エリスだって当然知っているはずだが、彼女はそれについては触れなかった。
苛立たしげにツェラシェルは歯がみする。
人道的な正しさで言えば、確かにゼネテスは褒められるのだろう。だが、ゼネテスのこういう偽善めいたところが一番許せなかった。
適当な顔で適当に正しいことを言って、肝心のところで、誰一人救えない。
「人というのは、疑心暗鬼にとらわれると、ばかげた妄想に振り回される生き物でな」
エリスが口を開き、淡々とした口調で続ける。
「たちの悪い噂が、いくつか戦場に流れているようだ。ゼネテスは事の次第によっては、ディンガルに降伏を申し出るのではないかとな。講和の代償として差し出すのは己の首だろう」
チッ、とツェラシェルは舌打ちした。下手に甘いあの男なら、命を救うためだとか何とか言って、やりかねない気もする。もっともカルラが、それを受け入れるかどうかは謎だが、あの青い鎧の小娘も、相当な変わり者だそうだ。案外ゼネテスと気が合うのかもしれない。
「あるいは、将軍の首を持って行くなり、部隊の情報を漏らすなりすれば、ディンガル軍はそれに対して相応の報酬をもって迎えるそうだ。元いた陣営に関わりなく優遇する」
「……馬鹿な貴族が聞いたら、涎を垂らして乗りそうな話だな」
独白を漏らしたツェラシェルに、フフ、とエリスは笑った。
「リベルダムのアンティノの件は知られておろう。同じ餌に引っかかるほど愚か者の集まりではないと思いたいが、追いつめられると、三手先より目先の利に傾く心性を、否定はできんな。
だからお前には、戦場で、この流言が悪い方へ向かわぬよう監視をして欲しいのだ」
手助けではなく監視を、と。
この言葉は自分を動かすための方便にすぎない。しかしエリスは、この世界でただ一人、ツェラシェルが逆らうことのできない、恩義ある雇用主だった。
そんな彼女に、お前も共犯だと暗黙に告げられ、責を取れという代わりの命令をこんな言い方で下されれば、これ以上、見苦しく逃げ回ることもできなかった。
――だから今、自分は仕方なく、ここにいる。
「もう帰ろう、兄さん!」
戻ってきたヴィアリアリは、兄に飛びつくようにして駆け寄ると、勢い込んで言った。
面白がってツェラシェルは妹を見る。
「何かあったか?」
「あの人やっぱり最低だよ! せっかく来たのに、私たちの仕事は戦場にはないって。とっとと王宮に帰って王様たちを頼むって」
とたんにツェラシェルは、妹に気づかれないよう顔をしかめる。
……本当にあいつは、こちらの腹が立つ出方ばかりする。
「ヴァイはどうした?」
「あ、おいて来ちゃった。だってあんなところに長くいたくなかったんだもん」
「じゃあ、まだ帰るわけにはいかないな」
なだめるように告げると、渋々とヴィアリアリがツェラシェルから離れた。
すでに残照は失せ、夕日の後を追うように三日月が架かっている。
ヴァイライラが戻って来たのは、その月がまた少し低くなった頃だった。
「遅いよヴァイ!」
「ヴィアが一人で勝手に帰ってしまったから、色々遅くなったのよ」
遠回しに非難され、ヴィアリアリがむくれた顔をする。ツェラシェルが薄い笑みで妹を迎えて、尋ねる。
「ゼネテスは何だって」
「特に何も。労いの言葉をかけてくださっただけです」
ヴァイライラは言いよどむように、兄からわずかに目をそらして続ける。
「ゼネテス様ですが、いつになく余裕のない様子が目につきました。こちらの状況は、見た以上に悪いようです」
戻ってくる道すがら、ヴァイライラは噂のいくつかを耳に挟んだのかもしれない。
「……へえ、そうかい」
素っ気なくツェラシェルは言葉を返して、空を見上げる。
濃紺の夜が寄せる空の隅に、細く光る月の影。
「ひとまず今日は、もう帰るには遅い時間か」
木の根に腰掛けていたヴィアリアリが、不満そうに眉をしかめ、姉と兄の顔をうかがうように見あげて言った。
「やっぱり兄さん、ヴァイばっかり贔屓してる!」
2007-01-22