語られなかった話
まだ夜も明けきらぬ時刻、急報がございます、との言葉を受けて、ダディアスが神殿の大扉の前の石広場に駆けつけると、よく知る顔が待っていた。
白髪こそ目立つものの、歳を感じさせない独特の迫力を持つ大巫女と、旅装姿も解かぬまま、狼狽えた顔で大巫女に従っている若い巫女。それから困ったような顔で立っている、槍を携えた壮年の兵士だ。
だがその中に、初めて見る顔があった。
古くからミイスの神官家に仕え、助産婦としてロイもとりあげた大巫女の太い腕の中には、白い布に包まれた、生後間もない嬰児が静かに目を閉じていたのだ。
思わずダディアスは、裏返った声をあげてしまった。
「もう生まれたのか!?」
臨月に入っていた妻が、自分が寝ている間に陣痛を向かえ、早々と二人目を出産してしまったか!
自分が居たところで何の助けにもならぬだろうが、二人目のわが子の誕生の場には、私も立ち会いたかった。
眠気も吹っ飛び、瞬時にそんなことを考えたダディアスだったが、嬰児を抱えた大巫女が冷静に告げた。
「落ち着いてください、ダディアス様。御奥様のご出産は、まだでございます。昨夜だって、ダディアス様のお隣で、お寝みになられていたではありませんか」
自分より10歳ほど年嵩の大巫女の指摘に、先ほどまで自分の隣で眠っていた妻の姿を確かめるように、ダディアスは社殿奥の住居部の方を振り返った。そこで ようやく、時系列の秩序が戻る。春先に生まれる予定のわが子のことを毎日思い描いていたせいで、いざ目の前に赤子を出されて混乱したらしい。
早朝の早とちりから解放され、ダディアスは目の前の赤子に目を戻した。
「そ、そうであった。では、この赤子はいったい……?」
「申し訳ありません、ダディアスさま!」
ダディアスの問いかけに、若巫女が身を縮こまらせて頭を下げる。
そんな若巫女を一瞥し、赤子を抱き直して、大巫女は大きく息を吐き出した。
「拾ったのだそうです」
「拾っただと?」
もうすぐ出産を控えた妻の出産準備のため、若巫女と僧兵は、近くの集落へと、必要なものを買い足しにでかけていた。その帰り道、ミイスへと戻る森の中で、二人は、白い布に包まれたこの赤子を見つけたのだという。
もともと隠れ里であるミイスへと至る道を知るものは、数少ない。存在を知らなければ、ただひたすら緑が続くばかりの未開の森だ。鬱蒼とした木々の生い茂る森の中を、当てもなく歩く者など、皆無に近い。
道とは呼べないような道をたどり、なおかつ結界を越えなければ、この秘密の隠れ里にはたどり着けないのだ。
だから森の中で、村外の人間と出会うことは希だった。
ましてや赤子となれば、尚更だ。
「近くを探してみたのですが、両親の姿はおろか、人っ子一人見つけられず……」
「昨夜は嵐でございました。雨の降りしきる中、とても、あのまま捨て置くわけにはまいりませんでした」
兵士の言葉に覆い被せるように、震えるようなか細い声で若い巫女が言った。
突如やってきた春の嵐で、ただでさえ見通しの悪い森は、荒れた海を思わせる葉擦れの大きなざわめきと、大粒の雨に打たれた木の根と泥が入り交じる足場の悪さで、帰路を急ぐ足を阻んでいた。
そんな中、忽然と現れた幼子。ミイスの村へ入る結界の、その目印ともされている大木の、大きく裂けたうろの中に、まるで納めるようにして置かれていたのだという。張り出した木の枝と厚い幹は、天然の揺籃となって、風雨から赤子を守っていたそうだ。
あの悪天候と人通りの少なさを思えば、この二人に見つけられたことは奇跡に近いとさえ思えた。
兵士が少し唇を曲げ、言葉を選ぶように続ける。
「見つけたのは、村の結界付近の、森の奥深くです。そもそも人がうろつくような場所ではありません。この子は、親とはぐれたというよりは、故意にあの場所へ置き去りにされていたように思います」
捨て子らしいと聞いて、ダディアスがわずかに眉根を寄せる。
ダディアスの心を読んだように、大巫女が言葉を続ける。
「産着もしっかりしておりますし、話を聞いたところに寄れば、場所を選んで置かれていたとのこと。よんどころない事情で、育てられないと手放したか、あるいは……」
「近頃ロストールで大規模な内乱がありましたな。東方ロセンへの侵略戦争もあったばかりです。多くの村が、略奪の被害にあったと聞き及んでおります。家を焼け出された夫婦もおりましょうし、意に染まぬ形で赤子を授かった娘もおりましょう」
大巫女の言葉を引き取り、言いにくいことを含んだ口調で、壮年の兵士が続ける。それから、そっと「いかがいたしましょうか?」とダディアスを窺うようにして尋ねた。
若巫女が息を詰めて、ダディアスの顔を見上げる。
思案するようにダディアスは赤子を見やったが、ふと子供が静かすぎることに気がついた。最初は眠っているのかと思ったが、そうではないようだ。
「何やらずいぶんと弱っているように、見えるが」
「雨露をしのぐ場所に置かれていたとはいえ、あの嵐の中、一晩中戸外に居たのです。どうやら風邪を引いているようです」
「それはいかんな。すぐさま手当をしてやらねば」
「……よろしいのですか?」
おずおずと、若巫女が問いかける。
やむなく連れて帰ってきたしまったとはいえ、ここはただの村ではない。古くからの秘密を守り抜くよう定められた場所なのだ。簡単に子どもを拾って育てるというわけにもいかない。
ダディアスは軽く微笑み、言った。
「このような幼子を、神に仕える者として、放っておくわけにはいかんだろう。今後のことは、ひとまず後で考えれば良い」
「ほら、あなたが連れてきた子供でしょう。ちゃんと面倒みなさい。ひとまず温かくして寝かせるように。ただ御奥様はもうすぐご出産を控えた身。決して騒ぎだてせぬように」
早口で大巫女は告げると、ぼんやりと立っていた若巫女に赤子を手渡し、しっかりと腕に抱きかかえさせる。
戸惑っていた若巫女が、腕の中の子どもに意識を向け、弾かれたように社殿の方へと向かっていく。そんな若巫女を放っておけないと思ったのか、僧兵も共にさがっていった。
まるで夫婦のように、並んで立ち去った二人の姿を見送りながら、大巫女は固い口調でダディアスに告げた。
「あの子どもですが……そう長くは、生きられぬかも、しれません」
意味を確かめるように、ダディアスは大巫女を振り返ったが、巫女は力なく首を横に振った。
「生まれて間もないところに、春先の冷たい雨風です。思った以上に衰弱しておりました。おそらく泣く力も残ってないのでしょう。何か滋養のあるものを食べさせてやれればよいのですが、まだ歯も生えてない赤子です。こればかりは、天の定めるところとしか」
「……そうか」
先ほどまで黙っていたのは、おそらく赤子を拾った年若の巫女を気遣ってのことだったのだろう。あるいは自分の無力さを感じて、それを表に出さぬよう、気丈に振る舞ったか。
ダディアスは無言になり、それから首を振った。
何かの縁でこの村に来た赤子と、これから間もなく生まれようとする我が子のことが重なった。
時期が時期なだけに、他人事とは思えないのだろう。やってきた赤子に一番関心と愛情を寄せたのは、まもなく二人目の母となろうとする妻だった。
新しい赤子のために用意しておいた、ロイのお古の揺りかごを仮の宿として、赤子は眠っている。その無心な寝顔を眺め、妻が言った。
「かわいらしい子ですわね。何とか、元気になってくれると良いのですけど」
「そうだな」
若干ぐったりとした様子ではあったが、今のところ赤子は良くも悪くもなく、静かに過ごしていた。
昨夜は熱もあったのだが、それも引いて落ち着いたようだ。小さな汗ばんだ額を、そっと指先でぬぐってやりながら、妻が囁くように告げる。
「私たちの子ならば、男でも女でもどちらでも構わないと思っておりますが、このような綺麗な肌と髪の色をした子どもを見てしまうと、次は女の子が良いと思ってしまいます。
このような可愛い妹ができたならば、ロイも喜ぶかもしれませんわね」
夢見るような口調の中に、わずかな不安と翳りが覗くのは、おそらく妻も周囲の心配に感づいているからだろう。
ミイスの村の外より、妻を娶って早くも二十年余り、第一子のロイを授かってから、すでに十年近くの歳月が過ぎている。
もとより病で伏せがちな妻が、今回の高齢の出産に耐えられるかどうか、実はかなり危ぶまれていた。
授かった命ならばこの手で育てたいと妻は言った。
ダディアスも同感だったが、それでも命と命が引き替えになってしまうような事態だけは避けたいと思っていた。
まだ八つのロイも何か感じるものがあるのだろう。最近は、ずいぶんと熱心にノトゥーン神に祈りを捧げている姿を見かける。
「この子の行き先は……決まって、おりますの?」
「まだ悩んでいる。お前も知っての通り、ここは神器を守る村、闇の手の者が現れたならば、武器を取って抗うことを定められた村だ。
ここで育てるよりは、余所の村で子を求める家族に託した方が良いように思うが、この赤子を見つけた若い巫女が、もし引き取り手がないならば、自分が育てたいと思っているようでな。
大巫女はまだそれだけの力量がないと渋っているが、同じく共にこの子を連れ帰った僧兵が、自分が手伝ってやっても良いと申してお る。
……しかし、どうも成り行きを見ると、私は里親を捜す前に、婚礼の式を執り行うことになりそうな予感もするな」
「まあ」
ロイに継がれた深い森を思わせる緑の目をほころばせ、妻は笑った。
それから腹部に手を当て、穏やかな声音で告げた。
「幸せな出来事が、このまま続いてくれると、良いのですけれど」
その翌日、予定より早い陣痛に見舞われ、妻は出産に臨んだが――願いは叶わなかった。
残念ながら、生まれるはずの子供は死産だった。
そして、それから十六年。
* * *
朝の白い光が、天窓から静かに差し込んでいる。
竜王の咆吼が、まだこの塔を震わせている気がする。耳奥の残響を振り払うように、ダディアスはノトゥーン神のシンボルを象ったモザイク床に膝をつき、今一度父なる神に祈りを捧げた。
――何事もなく、杞憂で終わるように。
再び村外れの森へと出かけた二人の子どもたち、ロイとルシカの無事を祈ってのことだったが、それだけではない、どこかもう少し大きな予兆に対しての、祈りでもあった。
何か大きな物事が、動こうとしているのかもしれない。
胸がさざめくような怖れと、それでいて、どこか予測もしていたような奇妙な予感は、十六年前のあの夜にも、感じていた気がする。
あの夜、生まれ落ちることなく星へと還った小さな亡骸を抱いて、妻は泣いていた。
その泣き声に呼応するように、あの赤子が、隣室で火がついたような大声で泣き出したのだ。泣く力すらないほど衰弱し、長くは生きられないかもしれない、と言わしめた赤子が、まるで産声をあげるかのように。
――妻と自分が、その赤子を我が子として引き取り、ミイスの村長の第二子、ロイの妹として育てることにしたのは、自然な成り行きだったと思う。
決して、生まれて来ることができなかった実子の代わり、というわけではなかった。
のち妻が、そして大巫女が、かすかに胸に残る痛みとかみしめるような実感とともに、話してくれたことがある。
この子の中には、生まれてくるはずだった魂の半分、生きられなかった可能性の半分が、宿っているのかもしれないと。それだけでは消えようとしていた幼い命が、互いに生きるすべを求めて混じり合い、その結果、新たな可能性を生じさせたのかもしれない。
幼かった赤子は、嘘のように丈夫に育ち、よく笑い、喋り、好奇心と多少の気まぐれさ、素直な感性と聡明さを持ち合わせた娘へと成長して、今では立派にこのミイスの里の神官一族を勤めている。
実を言えばダディアスは、ついさっきまで、そんなことなど忘れて、自分の娘をまだ未熟な小さな妹のように思っていたのだが。
『父上。ルシカも神器の守護者の一員として、腕を振るっても良い頃に存じます。私も共に参るのです。どうぞご安心を』
兄であり、このミイスの里の跡取りでもあるロイに言われ、改めて見れば、娘は修行の旅として村の外へと出て行くほどに成長していた。過保護にしすぎては、かえって力や知識を培う機会を奪うことにもなろう。
竜王の咆吼が響くような、昨今の情勢だからこそ、力あるものが側にいる間に、実戦を積むことも必要となってくるのだ。
――あれも、言うようになったな。
旅の最中で見つけたという日光という名の聖剣を腰に下げたロイの姿を思い返し、ダディアスは微笑んだ。
自分よりもよほど、しっかりと、守護者の自覚を持っているようだ。もとから手のかからない息子だったが、修行の旅に出て、また少し磨かれたようだ。
ダディアスは思案するように顎に手をやった。
そろそろ、ロイに大神官の座を譲っても良い頃かもしれぬ。
戻ってきたら、心の準備をさせるためにも、それとなく打診をしてみるか。いやその前に、ロイは再び外へ、ルシカの修行の旅について、出るのが先か。
そこまで考えたとき、神殿の扉が開き、たった今、ロイと出て行ったはずのルシカが姿を現した。
「どうしたのじゃルシカ。町の外へ出かけたのではなかったのか。それとも、やはり心細くなったか?」
「ううん違うの。お兄ちゃん、来なかった?
忘れ物をしたから、取りに戻る。先に村の入り口へ行っていてくれって言われたんだけど、なかなか来ないから」
「ここには戻ってきておらぬが」
「そう。あたしがついて行くからって、余分に薬を取りに戻ったのかなあ」
小さく呟いたルシカだったが、そこで、ふと生真面目な顔になり、ダディアスの方へ向き直った。
「……お父さん。あたし、本当に、行っても良いの?」
『いかん、まだルシカは未熟じゃ。危険すぎる!』
さきほど、ついダディアスが言ってしまった言葉を気にしているらしい。
自分のこういうところが、ルシカにも、ロイにも心配をかけるのだろう。ダディアスは苦笑し言った。
「あれは私がいらぬ心配をしすぎたのだ。
心配はいらぬだろう。ロイがついているのだからな。フフ、私も親バカなことだ。
おお、そうじゃせっかく戻ってきたのだ。これを渡しておこう。冒険者は万事に備えることが肝心だからな」
そう告げるとダディアスは、祭壇の引き出しから、天窓の光を浴びて仄かな艶を浮かべている小さな真珠を取り出し、ルシカの手のひらにのせた。
復活の真珠と呼ばれる、冒険者の間でも貴重な道具だ。
最近の度重なる魔物や獣への対策としての用意でもあったが、闇の気配が濃くなっているように感じられる昨今の情勢へのそこはかとない危機感が、こうした品を手元に置かせるようになったのかもしれない。
それからもう一つ、赤い護符を手に取り、渡す。
「これはロイに渡してくれ。万一の時のためのお守りだ」
塔の石壁に反響して、どこか自分の声が、がらんと突きぬけるように聞こえた。
空へと伸びるこの石造りの塔の最上階には、闇の神器の一つ『忘却の仮面』が封印されている。
そのことを意識したせいか、ふと不安と弱気がない交ぜになり、言葉が漏れた。
「私にもし何かあったら、渡せなくなってしまうからな。
私はよい子供たちに恵まれたものだ。万一、今ここで私が死んでも神器のことは安心して任せられる」
「……お父さん?」
不吉な言葉に、ルシカがきゅっと眉根を寄せる。
白く整った――どことなく森の妖精を思わせる小さな顔が、ダディアスにまっすぐ向けられる。父の態度の不審さと、その心情にあるものを、見透かそうとするかのように。
青い瞳に浮かんだ心配の色を見て、慌ててダディアスは否定した。
「万一の話だ。そのような顔をするでない。我が子よ。
先ほどの地震のせいで、私もあらぬことを考えたのだろう。歳を取るとどうも弱気になっていかんな。
良いから気にせずに行ってくるが良い。しかしじゃ……。なるべく早く、帰ってくるのじゃぞ」
いつもの父らしい、心配性で過保護な台詞に、ようやくルシカの顔にも笑みが戻る。
「じゃあ、行ってきます」
そういって扉に手をかけたルシカに、ダディアスは声をかける。
「……ルシカよ。
いや、なんでもない。お前もロイと同じように、神器の守護者となるべく修行の旅に出る年になったのだな。
強くなるのだぞ」
「? うん」
不審そうな顔をしながらも、振り切るように外へと出て行った娘の後ろ姿を見送りながら、ダディアスはふっとため息をつき、塔の天井を仰ぎ見た。
何かを決意するように手を組み合わせ、先に天へと召されていった妻に尋ねるかのように、心で話しかける。
さきほど、言いかけて飲み込んだ言葉。
……ルシカよ。
戻ってきたら、話そうと思っていることがあるのだ。
ロイと同じように、神器の守護者となるべく修行の旅に出る年になったのだな。
ならば、そろそろ話して聞かせても、良い頃合いかもしれぬ。
十六年前。嵐の過ぎた夜明けに、風に運ばれてきたように、忽然とこの村にやってきた幼子のこと。
冷たい冬が終わり、雪どける春先にやってきた、まるで黎明を司るかのような不思議な子ども。
誰よりも大切な娘の生い立ちにまつわる話を。
2012-11-26
月光姉弟が双子のような近しさを持つのに対して、日光兄妹=ミイスの一家は、血はつながっていないけど、だからこそ別の部分でつながっている家族というイメージです。