黒い蝶・後編
別に心配をして追いかけたわけではなかった。
追いつめられたこの女がどういう行動に出るか、それを見てみたかっただけだ。
「鍵ぐらいかけとけよ、不用心だぜ?」
部屋の戸口でケウィンが声をかけると、シェスターがびくりとして振り返った。その手に細身のナイフが握られているのを見て、いっそケウィンは笑いたくなった。発想も手段も典型的だ。
断りもなくケウィンはシェスターの部屋に足を踏み入れ、机の上の黒い蝶に目をやり、手紙の束に目をとめる。
「あんた、弟がいるんだってな。そいつからの手紙か?」
「関係ないでしょう!」
「協力しなければ弟を殺すとでも脅されたか?」
答えるかわりに、シェスターがケウィンを睨む。
いつになく攻撃的な目つきと、その目に滲んでいる涙のあとを見て、ケウィンは鳥かごに手を伸ばした。
……本当に、この女は。
驚いたシェスターが、制止の声をかけようとするのが分かったが、構わず掛けがねを外した。
銀のかごの中で、紙切れが舞うように飛んでいた黒い蝶が、開かれた小さな出入り口から、外へ泳ぎ出る。
呆然としているシェスターの目の前を、ひらひらと横切った。
「虫なんて長くは飼えないぜ。こんな狭苦しいところに閉じこめてないで、逃がしてやれよ。さもなきゃ、処分しちまえ」
言葉の響きから察するものがあったのかシェスターが後ずさったが、ケウィンは腕を伸ばして、シェスターの右腕をつかむと、くるりと捻りあげる。
シェスターが顔をしかめ、その手から乾いた音を立ててナイフが落ちた。
そのままケウィンは、力任せに彼女を引き寄せ、側にあった寝台の上に押し倒す。突然の出来事に、シェスターが満足に反応できないでいるうちに、身体を仰向かせ、押さえつける。
恐怖で見開かれている黒い瞳が、自分が針を突き立てた実験動物を思い出させた。
かみつくように、白い首筋に唇を寄せて吸い上げる。きめの細かいなめらかな感触は、女特有の鼻先をくすぐるような甘い香りがした。
「いや……!」
「死ぬつもりだったんなら、どんなことでもできるんじゃないか?」
低く囁いたケウィンの声に、シェスターは首を振った。
ケウィンの手をふりほどこうと腕に力が込められるのが分かったが、必死であるはずの抵抗は、あきれるほどに無力なものだった。ケウィンはそんな細腕を簡単に束ねて、動きを封じる。
覚悟さえ決めてしまえば、ずいぶんと楽に、利口になれるものを。
悪意にも汚れにも、怯えてうつむいて、目をそらす。
――あんたは優秀で賢いかもしれないが、愚かな女だよ。シェスター。
手探りで服の留め具を外して、手を忍び込ませる。肌の上をすべり、柔らかな膨らみをさぐる。指先に伝わってくる感触と、耳をさえずる拒絶の声に、ケウィンが笑う。
その先を楽しもうと思ったところで、扉の開く音がした。
「おい」
コーラルドの声だった。
本当に気の利かない愚鈍な男だと舌打ちをしかけたが、彼がここに来た理由の半分は自分と一緒だと気づき、ケウィンは身を起こして、コーラルドに声をかけた。
「お前もまぜてやるよ――戸を閉めろ」
*
いきなりの出来事に混乱して動けなくなっていたが、耳に入ってきたその言葉は、さすがにシェスターにとって限界を超えるものだった。
渾身の力を込めて、自分の身体の上のケウィンを突き飛ばす。ケウィンが体勢を崩し、仕方なく寝台から起きあがる。すかさずシェスターも身を起こして、はだけた服の胸元をかき合わせ、割れた声で叫んだ。
「出て行って! 二人ともよ!」
必死で叫んだが、語尾が震えた。それを耳ざとく聞きつけたケウィンが笑い声をあげた。
「それであんたは、俺たちが出て行った後に、手首を切るのか」
ケウィンの言葉に、コーラルドが息を詰めて、痛いような視線を送ってくる。
「それとも一晩寝たら、気が落ち着いて、またいつも通りの研究熱心で優秀な女に戻るのか?」
いたぶるようなケウィンの言葉に、ふつりとシェスターの中で何かが切れた。
「もうたくさんよ! 私たちのやっていることは、許される事じゃないわ!」
「あんた、賢いのか馬鹿なのか分からないな。今更何を言っている?」
「……私は降りるわ」
思い定めた目でシェスターは告げた。
そう。もう、たくさんだ。
自ら命を絶つことを思いとどまったにしろ、降りるという行為が、ほとんど死を意味することは変わらない。それも自分だけじゃなく、弟にまで手が及ぶ。
だが、自分からの手紙の返事が途絶えれば、セラは怪しむだろう。冒険者としての経験もずいぶん積んでいるようだし、ずっと一人でいたあの子にしては珍しく、今は腕の立つ相棒が側にいるという。
たぶんセラはセラで、切り抜けるはずだ。
……本当なら、とっくの昔に、こうしておけば良かったのだ。
ケウィンはそんなシェスターの決意を笑い飛ばしたが、コーラルドは笑わなかった。
強ばった顔をして立っていたが、シェスターの言葉に、はじかれたように叫び返してきた。
「冗談じゃない。あと一歩で完成だと言うのに! ここまで来て、どうして君はそういうことを言える!? たとえ最強の生物を作ることが出来たとしても、その化け物が言うことをきかないのでは何にもならない。それを何とかするのが君の役目だろう!」
予想もしていなかった方向からの反撃に、シェスターの思考が止まる。
今この状況で、どうしてそんな話が出てくるのか分からなかった。
何かにとり憑かれたような目で、コーラルドは続けた。
「この研究のために、どれだけの人手と時間がつぎ込まれていると思っている? 人材も設備も目標も、これ以上は望めない環境だ。今この機会を逃したら、二 度と巡ってこない。まだこの世にはない、誰も見たことない、最高のもの。そういうものを突き詰め、極める楽しさは、君だって分かっているはずだ。……そう でなければ、どうしてこういうことができる!」
コーラルドの手には紙の束が握られていた。
シェスターが解き明かし、その結果、彼が必死になってその不備を埋める羽目となった研究成果。
学問は好きだった。
好奇心と探求心が、何も知らなかった自分の中に知識を呼び込み、形を整えさせ、次々と違うものへと道をつなげる。
新しいものの見方を覚え、一段上の階段をのぼっていく感覚。自分の力で何かを吸収して、おぼろながらも確かな何かが、身の内に残っていく充足感。
たとえ目に見える形ではっきりと現れなくても、理屈ではなく、自己の存在を感じ取ることができた。
積み上げられたものは、洗練されていく。
不備が目につけば、手を入れたくなる。より高次の完成を求めて、上へ上へ駆け上っていきたくなる。研究とは内面的な作業だが、内側に向けていたはずのその目は、いつしか向上心と自己顕示を宿し始めて、外へと向く。
疵のない完成された作品。まだ、誰も見たことのない、最高の生き物を――。
知らずにのぞきこんで踏みこんでいた心の淵。内向的な人間であれば特に、それを何らかの形で表にあらわしたいという願いはどこかに持っている。
それが光であれ、闇であれ、意識したものであれ、無意識のものであれ。
月の神が飼っているグフトクという生き物は、昼の光では見えない闇の中の生き物だ。
シェスターは、見えてしまったものを否定するように、首を横に振っていた。
そんな彼女にケウィンの乾いた笑い声が浴びせられた。
「だからあんたは、愚かな女だっていうんだよ」
ケウィンは、まだ分かるのだ。彼を好きになれなかった理由は、言動の鋭さからそれとなく性質がわかったからだ。
対照的に、おとなしそうにみえたコーラルドには、これまで同僚という以上の関心を払ってこなかった。
だが、背筋を走っていった冷たい感触が、本当に警戒すべきなのはどういう人間かを、自分自身への自覚も滲ませ、シェスターに教えていた。
……出て行って、と。
もう一度口に出す前に、コーラルドが一歩部屋の中に足を踏み入れる。
怖じ気づいて弱みを見せたら、今度こそ逃れられないと分かっていながら、本能的な恐怖に突き動かされて、シェスターは後ずさってしまった。
部屋の片隅で、ひらりと蝶が舞っているのが視界に入った。
薄い羽でひらひらと舞う儚い生き物。うつむいて、静かに、おとなしく息をしている。
人の目を引きつけるのは美しさよりも、その脆さだ。捕まえられ、形だけ留めて射止められるか、閉じこめられて力尽きるまで踊らされ、最後には背中の羽をむしり取られるか――。
シェスターが見せた隙を逃さず、ケウィンは部屋の扉を閉め、鍵をかけた。
逃げていった蝶のかわりのように、寝台の傍らで、鍵を外され空になった鳥かごが、囚人を待つ檻として空虚に残っていた。
* * *
姉さん、と呼ぶ懐かしい声を、もうずいぶんと聞いていない。
自分をかばって守ってくれる存在は今では遠い。自分が、その手を離したのだ。
いつまでもあの子に守られているわけにはいかない。半分は申し訳ないという気持ちがあった。けれど心の半分では、あの子のそういう過剰な保護意識が重たかった。あの子はいつまでも私に理想の姿を求め続け、手元に置きたがる。
自分という存在を確かめたくなって、鳥かごから抜け出した。自分を深く見つめてみたくて、学問の道へと進んだ。自分の力を試してみたくて、次への居場所へと進んでみた。
その結果が、ここだ。
泳いでいるつもりで、潮に流され着いた場所。
「や……めて……」
懇願すれば、かえって煽ることになると分かっていながら、慈悲を乞うすべしか知らなかった。
言葉の端に、自分ではどうしようもない甘さが滲むのを感じ取って、シェスターの目から涙がこぼれた。悔しさなのか絶望なのか、もう分からなかった。
ケウィンは笑いながら嬲るように。コーラルドは物も言わず夢中で。自分の心など全く無視して、何度も繰り返される苦痛と快楽の波。一つ寄せるたびに、色んなものがかき乱されて、なぎ払われていく。
とぎれそうになる意識が知らず懐かしい背を求めた。
たすけて、と呼びかけそうになって、そういう自分に嫌気がさした。そんな自分の弱さが、いつもいつも嫌いだった。
そこに暗い影が重なる。こんな風に自分を留め置いたあの子も、弱いものを笑いながら摘み取る汚れた手も、同じか、それ以上に!
届かない悲鳴のかわりに、色の付いた声が喉の奥から勝手にあがる。
心も身体も否定され、自分がどんどん壊されていく気がした。
*
シェスターはこちらに背を向け、寝台に腰掛けたまま、服も纏わずぼんやりとしている。
白い背のまぶしさが目を打って、コーラルドは目をそらした。
最初こそ必死で抵抗の声を上げていたシェスターも、諦めたのか、途中からおとなしくなった。それを気にかける余裕などなかったが、終わってみれば、自己嫌悪にも似た後味の悪さだけが残った。
以前から、密かに気にしていた女性だった。けれどそれは単純な、憧れに、近いものだった。望まれるだけの成果を着実にあげる才能と、それは自分とは無縁ですと言わんばかりの態度さえとらなければ、もっと――。
いや、どうだろうか。
シェスターは気づいているだろうか。
怯えるような頼りない風情で、すがる誰かを待っているその姿は、見方によっては、媚にも似るということを。
形こそ違っても、いつかは、似たことにはなっていたのかもしれない。
シェスターが身をかがめて、床に落ちた服を手に取った。
立ちあがり、振り向きもせずに、するりと長い腕を袖に通す。白い肩と細い背中が衣に包まれる。服の形を整えると、首の後ろに手を差し入れ、長い髪を無造作に後ろに払った。首をひと振りして、髪を背に流す。
その動作が、妙にさっぱりとした、清々しいもののように映った。
せいせいした。そんな気配を漂わせて。
「……? おい……」
違和感を覚えたのは、ケウィンも同じだったようだ。こちらはさっさと身支度を調えて、けろりとした顔をしていたが、いぶかしげな声を、窓辺に立っているシェスターの背にかけた。
シェスターが振り返った。
ケウィンは瞬きし、コーラルドは息を止めた。
シェスターの唇の端には、きゅっとつり上がった黒い笑みが浮かんでいた。
腕を組み、蔑むと言うよりは――からかうような、見下した視線をこちらに向けている。
一瞬気が触れたのかと思ったが、それにしては目つきがしっかりしていた。
伏せられていた目は、刺さるような強い光を宿して自分たちを射抜き、あまり動くことの少なかった静かな眉は、意志の強さを滲ませ、優美に細く流れている。死人のように強ばっていた白い頬は、表情の変化に応じて、うっすら輝くような色を放っていた。
すうっとシェスターの腕が上がる。
買い物で品定めをしているときの、浮き立つような迷いの仕草で、二人の間を揺れ動いた。
そして指先をケウィンに定めた。
赤い唇が楽しそうに動いて、ゲイルの呪文を唱える。とたんにコーラルドの隣で、血飛沫と悲鳴が上がった。顔を風の刃で切られたケウィンが、床をのたうち回る。
シェスターはもう一撃を、今度は足に向かって放った。あがった絶叫を心地よさそうに受け止めて、シェスターが笑った。
「ウフフ、簡単には殺さないわ。じわじわと少しずつ切り刻んで、殺してあげる」
シェスターの目がこちらを向く。
漆黒の瞳の奥に、暗紅色の炎がちらちらと蛇の舌のように揺れていた。
信じられない変貌に、思わず怯えを浮かべたコーラルドを見て、シェスターがこらえきれなくなったように高く響く笑い声をあげた。
「あなたたち、ずいぶん楽しい思いをしたじゃないの。今度は私の番でしょう? 恐怖にゆがんだ顔を見せて、苦痛に踊り狂って、絶望で死を乞い願う声を聞かせて。最後の最後まで、じっくりと、私を楽しませて」
艶めかしく耳をなぜていく声に、冷や汗が出た。かつて彼が、シェスターに対して夢想していたような、けれど絶対に彼女にはありえない、とろけるような声音だった。
「この子がね。泣きながら、あなたたちを殺してって言ってるの」
命乞いのつもりか、謝罪のつもりか、コーラルドの口からあえぎ声が漏れた。
「……シェ、シェスター……」
「違うわ」
そう告げ、彼女はファイアの呪文を唱えて、コーラルドの悲鳴までも焼いた。
*
久しぶりで加減が分からなかった。もっと時間をかけて楽しもうと思っていたのだが、思ったよりも、対象が弱かった。こんなに他愛なく、簡単なものだったかしら?
静まった部屋で、一人彼女は寝台に腰掛けている。
「最強の生き物を作る……面白そうじゃないの」
紙の束の内容は、彼女には分からなくても、この器には分かる。さっそく楽しいオモチャを見つけて、彼女の唇がほころぶ。
儚く弱い者を刈り取る者たちが、刈り取られる側になる。
床に転がっている物体を見る。案外もろくて、簡単に刈られてしまうかもしれないが、数は多い。自分一人であちこち燃やすのも楽しいが、高見の見物と洒落込むのも悪くない。
それからふと自分の胸元に目を落とす。
虐げられ、泣き叫ぶ、そういう声には、古くから馴染みがあった。この器は色んな事柄を悲観していたようだ。自分という存在までもいらないと、最後の悲鳴で訴えた。
――だったらこの身体、私がもらうわ。もっと有意義に、楽しく使ってあげる――
こころなど魔人である彼女には分からない。ただ、目に見えない何かが混じり合い、とけ込んで消えていくこの感覚は、身体を乗り移るたびに味わっている。今回の器は、予想以上に馴染みの良い品だった。
彼女は立ち上がり、空の鳥かごに目をやる。
エンシャントの古市で見つけた魔法の蝶。その近くに妖術宰相ゾフォルの隠れ家があると知っての買い物だったのか、ただの偶然だったのか。
弱い生き物を手に入れて、自分たちの都合で役立てようとして、その蝶を見て似たような境遇の女が哀れんで、けれどやはり自分の慰めのために、閉じこめる。
ぱちんと銀のかごの扉をしめる。血まみれの床をさっさと踏んで横切って、戸の鍵を開けて外へと出て行く。
殻を脱ぎ捨てた彼女は美しく、ひらりとかごを抜け出して飛んでいく。
2007-03-23