蒼穹の頂 (リアルーン・改)
1.王と花
本来であれば罪人は、冷たい監獄で処刑までの日を待つのが習わしだ。
だが皇后イズに至っては例外だった。彼女は現在も皇后として、ディンガル王城の南翼の最上階、エリュマルクが彼女のために作らせた豪奢な皇后の間にいる。
これは表向きエリュマルク帝の慈悲ということになっているが、実際は未練と葛藤からのものだった。エリュマルクが彼女を冷たい監獄ではなく、天空を望む最 上位の部屋に留め置き、今もなお皇后として丁重に扱っているのは、もしイズが死に恐れをなして赦しを乞えば――ネメアではなく、自分を愛すると約束すれば ――助命するという心づもりによるものだった。
だがイズは、処刑日を数日後に控えた今も、生の懇願も罪の認否も口にせず、日々を過ごしている。
皇后の部屋の白い扉は、今もぴたりと閉ざされたままだ。
それは王によって罪人が閉じ込められているというよりも、イズが自分の意志でエリュマルクの全てを拒んでいる証のようにも見えた。
『愚かなことを。真実がどこにあるかは、あなた様が一番よくご存じのはずですのに』
不名誉な罪状を、よりにもよって玉座の前に集う家臣たちの面前でつきつけられたとき、イズは顔色も変えず、眉をひそめ、透明な声でそう言った。
公務の際に、イズはエリュマルクの隣に控えていることが多かったが、その眼差しは、隣の夫ではなく、家臣として一段下に控えているネメアに向けられていた。そこにネメアの姿があれば常に。ディンガルにやってきてから、常に変わることなく。
その時もイズは、隣のエリュマルクに目を向けることさえしなかった。
水晶のような眼差しは、相変わらずネメアに注がれていた。
エリュマルクはその様子に激怒し、皆の前で立ち上がると「イズとネメアが不貞を働いている。これがその証拠だ」と叫んだのだ。突然の出来事に、その場に居た臣下たちは驚いた。叫んだエリュマルク自身も、自分の口から出た言葉に驚いていた。
その中で、イズだけは何の動揺も示さなかった。
ほんの一瞬憐れむような色を目に浮かべ、ただ密やかに「愚かなことを」と告げ、遠くを見るようにして言葉を継ぎ足したのだった。
『心は誰の手にも負えないもの。そんなことは、最初からみなご存じだったでしょう?』
……イズのこの言葉が、物議を醸し、事をこじれさせたのだ。
もしあの場でイズが即座に否定すれば、もう少し簡単に収めることもできたろう。皇帝の一瞬の気の迷い、表沙汰にすることない疑惑として処理することも可能だった。
だがイズは明らかな否定をせず、どちらともとれる言葉を口にした。もちろんネメアはイズとの関係を否定したが、エリュマルクは自分が出した言葉の引っ込みがつかなくなった。
そもそもイズを手に入れた経緯からして、一方的な略奪行為であり、根は既に生じていたのだ。イズの美しさに惹かれ、エリュマルクは、彼女を手元に置きたいと望んだ。その際、彼女の同意は求めなかった。彼女自身の意思や愛を問うことはしなかった。
イズの心など無視して連れてきたのだ。その美しさを、ただ自分の手元に置きたくて。
イズはそこを正しく突いた。最初からあなた自身がご存じのはずです、と。
エリュマルクが求めたのは、彼女の美であって、愛ではなかったのだから。
不貞などとおこがましい。私はあなたに、私の姿形を手元に置くことは許しましたが、心まで許した覚えはありません。
イズの無言の指摘は、エリュマルクが暗に分かっていたはずの事実も痛感させた。
そう、イズがディンガルにやってきたのは、ネメアのためであって、決してエリュマルクのためではなかった。
……あなただって分かっていたはず。だからネメアを向かわせたのでしょう?
イズの透明な水晶の瞳は、彼女の心ではなくエリュマルクの心を映して、告げていた。エリュマルク自身がイズの元に向かったところで、女神が振り向くことはなかっただろう。おそらく女神の座所に行き着くことさえ不可能だ。
だからこそエリュマルクは、希代の英雄ネメアを、告死天使たちの巣窟につかわしたのだ。ネメアでなければ成し遂げられない難問。かの施文院の大神官イズも、ネメアの手ならとるのではないかと望みをかけて。
そして実際に、そうなった。
それを今更断罪するなど……愚かなことを、と。
手に入らないと分かっていて、それでもいいと花を摘んだのだ。
だったら、飾るだけで満足するべきだった。
だが、人の心は欲深く、罪深い。
世にも美しい花が、自分ではなく、他人のために開くことは堪えられない。
だったらいっそ枯れるまで閉じ込めておく、あるいは、その花をちぎって捨ててしまうか。
そして事はこじれたまま――今日に至る。
2.花と英雄
蒼穹から降るのは、鳥の羽音だ。
皇后の間は、ディンガル王城内南翼の最上階にある。陽光の差し込む部屋の南側は、天井まで届くような高窓が数列並んでおり、その窓外には、部屋一つ分はあ るかと思われる広大な石の露台が、中空に張り出すようにして設えられていた。その石造りの庭は、下界からは宙に浮かぶ舞台のようにも見えた。
その石の露台に立ち、イズは頭上を舞い踊る数羽の黒鳥――鴉の群れを見つめていた。
鳥籠など、豪華でも簡素でも、広くても狭くても同じだとは思うが、見晴らしもよく空に近いこの部屋をイズは嫌いではなかった。
特にこの露台は気に入りの場所でもあった。
上空を渡る清冽な風が肺を刺し、目を射るような冷たい青が空に広がる。頭上を舞う鴉たちに話しかけるように、イズは微かに唇の端に笑みを刻んだ。
この部屋はエリュマルクが、イズのために特別に造らせたものだった。
屋内に居ながら屋外を感じられる天空の居室は、親切心というよりは、罪悪感の産物だ。この辺りにエリュマルクという皇帝の小心さが現れ出ていたが、イズはそれを批難する気はなかった。おそらく人とはそういうものなのだろうと許容していた。
施文院から連れてこられたイズは、半ばここに幽閉される形で、ディンガル皇后として過ごしている。
軟禁状態である証拠に、部屋の扉には真鍮の鎖錠が外からつけられており、彼女が自由に外に出ることはできなかった。これは別に今回の一件が原因ではなく、ディンガル帝国に連れてこられた当初からのものだったが、あまりイズは気にならなかった。
この程度の鍵ならば、彼女の魔力を持ってすれば簡単に外せる。
実際、今はある人の訪れのために外してある。
もともと施文院に居たときから、大神官という立場上、そして父の影響もあって、半ば閉じ込められるようにして育てられてきた。
狭い空間で一日を過ごすことは、イズにとっては慣れたことだったし、本当に自由を奪われることは、こういう物理的なことではないと身をもって知っていた。
――レオニック文書。先々の事が書かれた予言書。
自分の自由は、この予言書によってずっと縛られている。これは自分に限らず、世の中の者全てがそうだろう。
だが、自分は少なくとも、自分が縛られているということを、強く知っている。
自分が自由意思で行ったと思ったことさえ、あらかじめ規定された出来事として紙の上に載っていた。それを知ったときの敗北感と閉塞感、そして失望。自由に踊ることも飛ぶことも、実際は大きなタペストリーの一糸に過ぎないと、身をもって味わされた。
だからこそ、あの英雄もあの王も、見方によっては、哀れで、愚かな存在と思った。
彼ら自身は、自分たちのことを知らない。けれど私は、彼らの行く末を知っている。描かれる未来のタペストリーは、運命の女神の手によって、最初から織りあがっているのだ。私も他人も、道はすでに定まっており、行き着く結末も決まっている。
それでも、弟の未来を思えば、やはりイズの心は痛んだ。
……もう少し、抵抗できればよかったのだけれど。
自分の周囲にいるのは、心のない機械人形たちばかりだった。だから愛情や心情など信じていなかった。それは驚くほど脆いもので、簡単に停止できるものだと思っていた。
自分の心は、自分で制御できると思っていた。
もしも私が彼の手をとらなければ。ここに来なければ。
そして今も、彼の事を、待っていなければ。
ばさばさと鳥の羽音が降る。
彼は今日は訪れてくれるだろうか。たぶん来る。私の命の期限を思えば、おそらくは今日か明日のうちにはきっと。
そして私を救おうとするだろう。ここから連れ出して、元の施文院の神殿に戻るように手はずを整えるだろう。もしかしたら、彼自身が再び私の手をとって案内しようとするのかもしれない。来たときと同じように。
そこでイズは笑った。
本当に愚かなこと。そうやってすべてを元に戻そうと取り繕ったところで、もう元に戻ることはないのに。動き出してしまった運命は、動き出してしまった私の心は。
――私はもうあなたと出会う前の私には戻れないし、戻るつもりもない。
イズが空に腕をさしのばすと、一羽の鴉が恭しく頭を垂れるかのように、彼女の白い腕に舞い降りた。
死を告げるとされる黒い鳥は、死を操る施文院の使い魔として、これ以上なくふさわしい存在だった。施文院の大神官は代々彼らを操り、従える術をもってい る。だからイズにとって、この蒼穹の牢獄は何の意味も持たなかった。その気になれば、彼女は鳥を通じて外の世界を知ることができるし、鳥に命じてたとえ牢 獄の中からでも、予言の代行者として世界を動かす事ができる。
賢く黒光りする鴉の目を見て、イズはささやく。
弟に告げて欲しい。
これが私の選んだ道です。どうか悲しまないで、と。
ばさりとその一羽は空に舞い上がると、空に舞っていた数十羽の黒鳥が、仲間の動向をうかがうように一際大きな声で鳴いた。
その声に紛れ、皇后の間の閉じられているはずの白い扉が重くきしんだ音を立て、ゆっくりと開いた。イズは露台から部屋の中を振り返る。開く扉の先、そこに立っている人物に目を据えて。
その唇が笑みを刻む。
「お待ちしておりました」
- 仮面の騎士
- 蒼穹の頂 (リアルーン・改)