蝶の目覚め
星も凍りついている冬の夜だった。
精一杯の薪で部屋を暖め、家にある毛布をすべて重ねて、弟の身体を包み込む。冷たいシェスターの手とは対照的に、弟の額は燃えるように熱い。
先ロストール王フェロヒアのディンガル侵攻の動乱の中で、両親を亡くし、住んでいた村も失った。二人が救難民の仮集落に身をよせて、一年がたとうとしていた。
生活を切りつめるだけ切りつめて、食べていくだけで精一杯の日々。弟は歳をごまかして働いていた。それはシェスターにしても同じ事だったが、弟にそんな必要はないと言ってやれないことが辛かった。
朝から夜まで働き通しの弟をシェスターは心配していたが、それが当たってしまった。
風邪をひいて調子が悪かったのに、それを押し隠して働いていたらしい。倒れたという知らせと共に家に担ぎ込まれてきたときには、弟は高熱のあまり意識もない状態だった。
「強情な坊主だよ。一緒に働いてた俺たちにも気づかせなかったんだからな」
そんな言葉はシェスターには慰めにならなかった。共に暮らしていながら、何も気づかなかった自分を責めた。
いつもそうだった。ぐずぐずと何も出来ない自分を守ろうとして、弟は無理を重ねる。
自分が、もっとしっかりしていたら――。
「ごめんね。セラ」
目を開けてくれるように祈りながら、シェスターは涙でかすれた声で弟に謝った。
*
「つまらない記憶だこと」
器として利用させてもらっている宿主の記憶をなぞりながら、アーギルシャイアはひとりごちる。
しかし、こういう女だからこそ、この上なく馴染みやすく、扱いやすい精神をしていたのは事実だ。
大陸一の最高教育機関と称されるエンシャント・魔道アカデミー。そこを主席で卒業した、申し分ない頭脳と魔術の才能の持ち主。どうせ乗り移るなら、才能のある人間がいいと思うのは当たり前のことだ。
特に魔術の才能はアーギルシャイアにとって必要不可欠だった。力がなくては殺戮の楽しみを味わうこともできないし、目的だって達成できない。
もう一人、目をつけていた人材がいたが、そちらにはすでにマゴスが宿っていた。
世間は狭いと思ったが、こちらの身体も悪くなかった。いや扱いやすさで言えば、こちらの方が上だった。
マゴスの方は宿主の意志が強くて、肝心のマゴスは表に現れることができないでいたようだが、こちらはその問題を見事にクリアしていた。
もって生まれた繊細で脆弱な気質。そして殺戮兵器の開発を命じられ、絶望に裂けていた心。
なんといっても心地よかったのは、乗り移ったときに味わった解放感だ。
これほど適合する身体を見つけたのは、久しぶりだった。
……お前は、自分が嫌いだったものね。
ごめんねと泣いた涙の味は、心に染みこむ傷となる。この先ずっと弟に抱き続ける負い目を育てる。そして自分でも気づかないよう、精神の奥深くに閉じこめて、もう一つの思いも同時に育てる。
――守り続けると言って自分を手放そうとしない、うっとうしい保護者気取りの自信過剰な坊やへの憎しみも。
「フフ。あなたはそれほど悪くないわよ、シェスター」
鏡の向こうで微笑んでいるのは、確かに悪くない美女の姿だ。
控えめで地味な容姿などあの弟の役にしか立たない。磨けばこれだけ光る素材なのだ。その気になれば男など簡単に落とせる器量と魅力に溢れている。
それを無意識に隠していたのは、セラがそういう自分の姿をのぞんでいないから。
――もういいでしょう? やりたいことをやって、楽しいことを始めましょう?
闇に堕ちやすい気質の人間を、魔人は器として好む。その点ではアーギルシャイアも同様だったが、それだけでは彼女は満足できなかった。
高い魔力を秘めていること、美しい容姿をしていること、強く抑圧された心をもっていること。
それこそ快楽を追求する、原動力となる。
「さあ、手始めに私の持ち物を取り返しに行きましょうか」
浮き立つ心を抑えきれず、アーギルシャイアは呟く。
まずは自分に忠実な部下を手に入れよう。できれば若く美しい男がいい。
忘却の仮面の在処は分かっている。ミイスという小さな村だそうだ。
これもこの女の記憶に眠っていた。探す手間が省けたことに、アーギルシャイアは大いに満足する。
何もかもがうまく回っている。
本当にお前は最高の素材よ、シェスター。こんな素材を育ててくれた弟に感謝するわ。お礼に、その弟の苦しみと命を捧げてあげる。
そうすればきっと、この子はもっと綺麗に、鮮やかに、美しくなる。
闇の中で目覚めた蝶は、欲に忠実な生き生きとした瞳で、豊かな肢体を惜しげもなくさらして、艶やかに舞い始める。
窮屈な蛹の自分はもういらない。
わたしはもう子供じゃない。あなたがいつまでもと願う、暖かくて優しくて脆くて言うことをきく『都合の良い』姉ではいられない。
2006-06-04
- 蝶の目覚め
- 誤算の恋