誤算の恋 

 忘却の仮面は、ミイスの村にあるという。
 村は結界に閉ざされていたが、人間の神官がかけた術など、魔人である彼女の目には卵の殻より脆く映る。そっと村外れの森に踏み込んで、そこで二つの人影を見つけた。
 片方は青い髪の少女。もう片方は栗色の髪をした青年。
 青年の方がアーギルシャイアの気配に気づいたらしく、目元を険しくしてこちらを向いた。
 ……敏感な男。けれどその凛々しい表情は悪くない。
 そう思ったから、アーギルシャイアは素直に姿を現した。

「ごめんなさい。少しいいかしら?」

 青年の目が一瞬だけ驚いたように止まり、記憶をたぐるように細められる。
 アーギルシャイアの脳裏にも、かすかな記憶が、水底から浮かんでくる泡のように、そっとよみがえった。
(弟の手紙に書かれていた人物。ミイスという村の神官の息子で、名前はたしか、ロイ、と――)
 うつろいながら明滅する記憶は、この器の主の物だ。
 いい加減、アーギルシャイアに全てをゆだねて消えてしまえばいいものを、何の未練か、まだ彼女の中に意識の残影を留めている。それだけ強い精神能力を秘めているのか、それともこの世界に気になってやまない思いを残しているのか。
 長い漆黒の髪の剣士の姿が意識を掠め、アーギルシャイアは瞬時に不快な気分になった。

 生意気でプライドの高い、この器の弟を、アーギルシャイアは好きになれない。
 この手の自信過剰なタイプの男は、やたらと頑迷で精神支配がききにくい上に、苦労して奴隷にしたところで、愛着がわかないのだ。恭順を示す態度にも品がなく、元となった人物が抱えていた安っぽいプライドの残滓がにじみ出ているようで、側に置いても苛立つことが多かった。
 試してみなくても分かる。
 セラは、自分の下僕にするだけの価値もない。
 彼は絶対に好きになれないからこそ、全てを奪いつくして、敗北感と屈辱感にまみれた死を与えてやりたかった。

 ……器の記憶によれば、目の前にいる青年は、その気にくわない弟の親友だという。
 それにしては、あまりに異なる印象に、アーギルシャイアは面白いものを感じる。
 温厚そうで、礼儀正しそうで、正義感が強そうで――いかにも、善人といった風情で。
 こういう男を跪かせて、激しく狂おしい闇に身も心も染めあげてみたい。それが鑑賞に値する美しい男であれば、想像しただけで快感に酔いしれそうだった。

 ロイが口を開いた。アーギルシャイアの印象を裏切らない、実に礼儀正しい言葉遣いで。
「どうなされたのですか? 女の方に、この森は危険ですよ」
「実はさがしものをしているの。とても大事なものなのよ」
「何をさがしておられるのです?」
 そっと近づいて、彼にだけ聞こえるような小さな声で囁く。

「忘却の仮面、よ」

 一瞬空気が張りつめ、目の前の青年の気配が変わった。
「知りませんね」
 素っ気なく、切り捨てるような冷たい声音。
 記憶と気配を読むのに長けたアーギルシャイアは、相手の態度の裏を読むのも得意だ。特に恐怖や嫌悪、憎しみといった負の感情の混じったものは。
 温厚そうな青年が、側に居る妹も気づかぬほどの刹那に閃かせた酷薄な表情。セラに通じるような、冷ややかに鋭く研ぎ澄まされた敵意を感じて、アーギルシャイアが長い睫毛を瞬せる。
 ……ただのお人好しというわけではないようね。

 器の記憶から、この青年がセラの親友・ロイであると知ったとき、一つの思惑がアーギルシャイアの中に浮かんだ。
 ロイを自分の下僕とすること。
 そうすれば、セラはひどく苦しむだろう。そういう計算が働いたのだ。
 だが今、目の前のロイを見て、アーギルシャイアの心境が微妙に変化する。
 計算からだけではなく――単純に、気に入ってしまったのだ。
 決めたわ。あなたを私のものにする。





 機能停止したデスギガースを見て、アーギルシャイアは、残念なような感心したような、複雑な気分になる。
 絶対的な力の差のある怪物を前にすれば、彼は追いつめられて、闇の神器に手を出すだろう。それがどういうことか承知した上で、それでもあの可愛い妹を守るために、村人たちを守るために他に手はないと、仮面を被って鬼神となる道を選ぶだろう。
 他者を思いやる、心優しい人間であれば絶対にそうする。

 事実、アーギルシャイアの思惑通りに事は進んでいった。ただ、肝心のロイを殺してしまっては困るから、デスギガースがやりすぎるようなら、途中で止めようと思っていた。
 それが、いくら闇の神器の力を用いたとはいえ、彼女の最高傑作である戦闘兵器を……倒してしまうなど。
 忘却の仮面は身につけた者の潜在能力を引き出す。強い者が身につければ、それだけ引き出される力も増す。
 ロイという男は、それだけの力を秘めていたということだろうか。それとも、自分の命と引き替えにしても構わないと思うほどの強い意志が、持っている能力以上のものを引き出したということだろうか。
 命も記憶も――自分自身全てを捧げるというなら、最後の願いくらい叶えてやってもいいだろうと?

「強いのね。あなたは」

 足元に倒れている男を見下ろして、アーギルシャイアは言った。
 温厚で純朴そうな外見をしている割に、意外なほどの芯の強さと、思い切りの良さを秘めている。本当に、ありとあらゆる意味で、あの弟とは正反対。
 全てを喪ってもなお手放すことなく、彼の右手に固く握りしめられている、美しい聖剣に目を移す。
 こんな厄介な道具は、できることなら、ここで捨てさせた方がいいのだろうが。
 これがあれば、セラはかならず追ってくるだろう。何も知らずに親友の行方をさがして――その親友が姉と同じ道をたどり、自分に剣を向けると知ったとき、どんな顔をするだろう。
 そんな想像を楽しみつつも、アーギルシャイアはもっと自分を楽しませてくれるであろう新しいオモチャに、期待をこめた熱い眼差しを注ぐ。

 ロイの側らにひざまづき、仮面に手を掛け、そっと外した。
 固く閉じられた瞳は開かれる気配は全くない。全てを覚悟した上で閉じられた瞳は、二度と目覚めることのない死へと通じるような、静かで高潔な雰囲気をたたえている。
 彼は確かに、神に仕える一族の者だったのだ。
 汗ばんだ前髪をかきあげてやり、呟く。

「これであなたはもう、私のもの」

 アーギルシャイアは単純にそれを喜び、そっと彼女の下僕に仮面を被せなおした。
 これは、この先に続く、大誤算の引き金となる。

2006-07-11

アーギルシャイアはセラが大嫌いだと思う。だからちくちくいじめるんだと思う(それはむしろ愛では?) なので最初は単にセラ絡みの「計算」で動いていて欲しい。実際会って側に置いてみたら、ロイがあらゆる意味でセラと対極な人物だったため「誤算」の恋に落ちて欲しい。……妄想だということは自分でもよくわかっています。