Caretakaer 

  「本当によろしいのですか? せっかく綺麗に伸ばしてきたものを」

 窓から差し込む光を浴びて、青い髪がうっすらと白銀の光を帯びている。
 ルシカの背後に立ち、長く艶やかな髪をいじりながら、年配の巫女はためらいがちに言った。
 緊張してないと言えば嘘になるが、ルシカは椅子に座ったまま、なるべく軽く聞こえるように笑いながら答えた。

「いいの、いいの。お兄ちゃんが居ない間はあたしがしっかりしなきゃいけないんだし」
「だからと言って、別に髪を切る必要など」
「あたしがそうしたいんだもの。長い髪って手入れも大変だし、いい機会だから」

 ルシカの頼み事に渋い顔をすることもあったが、最後には小さくため息をつき、仕方ありませんねと困ったように呟くのが、生まれてすぐに母を亡くしたルシカの世話役をつとめてきたこの巫女の常だった。
 だが腰まで伸ばされた髪にはさみを入れるのは抵抗があるのか、いつも以上にぐずぐずと言葉を重ねる。

「切ってしまってから後悔しても遅いのですよ」
「分かってるよ」
 ルシカはそれきり口を閉じた。
 鏡の向こうから見返してくる青い瞳に負けて、巫女はため息をつくと、櫛を置いて、はさみを構えた。
「ご立派ですね。けれど、何もそう……無理をすることはないのですよ、ルシカ様」

 ――本当に、そうじゃないんだよ。

 内心でルシカは声を上げたが、口にしたところで通じないような気がした。
 自分に対する周囲の反応がいくつか浮かんだ。気負っていると思われるのか、修行の旅に出た兄との別れがやっぱり悲しかったと思われるのか、それとも兄への対抗心と思われるのか。
 どれも間違いではない気もするが、本当のところでは当たっていないようにも思えた。ルシカ自身、どうしてなのか、よく分かっていなかったせいもあったが。

 小さな部屋に、しばらくの間、はさみの動く無機質な音が響いた。
 一度はさみを入れてしまえば、かえって気が楽になったのか、巫女の手は注意深さを保ったまま、止まることなく動き続けた。
 切り終わると、頭が軽くなったように感じられた。青い髪が顎のところで綺麗に切り揃えられている。首がむき出しになって、涼しく感じた。
 ルシカはどことなく落ち着かないような、照れくさいような気分になったが、鏡の中の自分を見る限り、短い髪は、思っていた以上に似合っているように思った。

「ありがとう」
 後ろを振り返り、ルシカが笑顔で礼を述べると、巫女も気弱そうな笑みを浮かべて応じた。





「ルシカ様ーっ……!?」

 村の中央広場に向かう小道を歩いていると、向こうから見覚えのある小さな姿が駆け寄ってきた。
 だが、いつものように明るい声をあげて近づいてきたものの、驚きを真正直に顔に浮かべて、少女はまごまごと言葉に困っている。まだ幼い彼女にとっては、 物心着いたときから、青い髪をひとまとめに括って、背中に流していたルシカの姿が馴染んでいただけに、戸惑いを隠せないようだった。
 ルシカが彼女の背の丈に合わせて腰をかがめ、悪戯を打ち明けるように言った。

「切っちゃった。さっぱりして涼しいよ。似合わない?」
 少女はルシカを見た。それから腰に下げられている剣を見て、思うところがあったのか、精一杯大人らしさを浮かべて厳かに告げた。
「よくお似合いです」





 ルシカの幼なじみの少年は、もっと正直だった。
「勿体ない!!」
 叫んだ途端、隣に立っていた少女が、慌てて少年を肘で小突いた。小突いただけのつもりだったのだろうが、肘鉄が見事に決まって、少年が打たれた腹を押さえてしゃがみ込んだ。
 ルシカは笑いながら、からかうように問いかける。
「男の子みたい?」
「まさか!」

 少女が慌てて否定したが、ちょっと首をかしげてルシカを見た。
 ルシカの小柄な身体は戦士と言うには細すぎるように感じたが、意志の強いはっきりとした眼差しと、俊敏で迷いのない少年じみた仕草を見れば、巫女服が似合うかも疑問だった。服に収まっていられない気がするのだ。
 そんなルシカの傍らには、やはり神官というよりは戦士といった趣の強かった兄の姿があった。
 兄妹の容姿は、あまり似ていなかった。両者とも見目の整った顔立ちをしていたが、髪の色や瞳の色は異なっていたし、眉の形やほお骨の輪郭など、顔の造作でもあまり共通点はないように思えた。
 ただ、こういう部分は顔立ちよりも育ちが影響するのか、笑顔の雰囲気はとても似通ったものがあった。

「頼りにしてます」
 少女が冗談交じりに軽く頭を下げると、ルシカは任せなさい、と笑顔で胸を張った。





 村の畑へと通じる道の向こうから、金髪の女性が腕に野菜の入った籠を抱えて歩いてきたが、ルシカの姿を見た途端、目を丸くした。ルシカは思わず駆け寄って手を差し出そうかと思った。勢いで彼女が籠を落っことしてしまいそうに思えたからだ。
 彼女も気付いたのか、慌てて籠を抱え直し、近づいてきたルシカにためらいがちに尋ねた。

「どうしたのですか、ルシカ様。その髪」
「前から切りたいと思っていたの。でも、お兄ちゃんが居ると、なんだか色々口を挟まれて面倒くさそうだったから、居ない今のうちにね」

 彼女がぱちぱちと目を瞬いた。綺麗な菫色の瞳が、何があったのかしら、と探っているように思えた。
 村で一番の美人と言われているこの『綺麗なお姉さん』が、密かに兄を慕っていることに、ルシカは気付いていた。兄が旅に出たことに対して、ルシカよりも彼女の方が、心中穏やかではないかもしれなかった。

 ――ミイスの村長の中には、修行の旅の最中に、伴侶を見つけて、連れ帰ってきた者もいるという。

 旅立つ兄の背を見送った彼女は、そのことを十分考えていたはずだ。
 どうしようかとルシカは迷ったものの、彼女なら……何かこう、自分の中のもやもやしたものを代弁してくれるのではないかとの期待もあって、つい尋ねてしまった。

「お兄ちゃんが居なくなって、寂しいんじゃない?」
 こっちの台詞であるはずのものを妹の方から尋ねられ、彼女は狼狽えた。
「なな何をおっしゃっているのですか、ルシカ様。ロイ様は、しきたりに従って修行の旅に出られたのでしょう? 寂しいだなんて、そんな……私よりルシカ様の方が」
 真っ赤になって否定しても説得力がない。
 彼女もそれに気付いたのか、肩の力を抜いて、今度は素直に答えた。
「そうですね。ロイ様の姿が、この村にないのは、落ち着かないです。でも仕方のないことでしょう。ロイ様はダディアス様の長男でいらっしゃって、ゆくゆくはこの村を治める立場におられる方ですもの」

 ……そんな答えが聞きたかったわけじゃない。
 彼女の言葉を聞いてそう感じたが、他に何も言えないのだろうとも思った。彼女は村の出入り口の門の方を見ていたが、ルシカに向き直ると綺麗な笑顔を浮かべて見せた。
 やっぱり聞いちゃいけないことだったかなと思いながら、ルシカは言った。

「お兄ちゃん、早く帰ってくると良いね」
「ロイ様なら、色んな物を身につけて、元気に戻ってこられますよ」





 ミイスの長であり大神官という立場だったが、ダディアスは温厚で寛容な性格だった。法衣に身を固めた姿は確かに威厳があったが、気さくな笑顔は慈しみと親しみにあふれていた。
 この村長が、娘に対しては極甘だということを、村で知らない者は居なかった。
 なので、ルシカの世話役だった巫女は、小さくなって謝罪した。

「申し訳ありません! ダディアス様」

 娘の姿を見た瞬間絶句し、口を開く前に「髪を切ったの、似合うでしょ」と先手を打たれ、なし崩しで終わってしまったのだが、心情としては複雑なものがあるだろう。
 巫女の謝罪は、そんな大神官を気遣ってのものだったのだが、眉間を指でおさえつつ、ダディアスは言った。

「謝ることはない。どうせルシカが無理を言ったのだろう。あれは言い出したらきかない性格だ」
「いえ、そんなことは」
 正直に、その通りですとも答えかね、巫女は言葉を濁したが、ダディアスは苦笑を浮かべて、巫女に手を振った。それから独り言のように続けた。

「ロイもルシカも申し分なく育ってくれたが、やはりどこかで無理をさせている部分があるのかもしれぬな。髪を切ったルシカを見たら昔のことを思い出したよ。お前も、そうだったんじゃないのか」
「はい。実は」

 父親の顔になったダディアスに合わせるように、巫女もまた、ため息をついた。


 仲の良すぎるほどの兄妹だけに、数年前の兄妹喧嘩は、内部の者には語りぐさになっていた。逆に言えば、周囲までも覚えているような兄妹喧嘩は、その一度きりだったのだ。

『あたしも神官の一族なんでしょ! この村の秘密を教えて』
 ルシカが一方的に突っかかっている形ではあったが、それも仕方ないと言えば仕方ないものだった。
 だがロイも、この件に関しては呆れるほどに強情だった。基本的には妹の願いは、できる範囲で叶えてやっていたが、神器に関することや村の秘密に関することだけは、「まだ教えるには早い」の一点張りだった。
 兄にせがんでも駄目だと悟った妹は、今度は父に矛先を変えた。だがロイがそこまで頑なになる理由が察せられれば、父としても易々応じるわけにはいかなかった。
 今にして思えば、このとき初めて兄か妹か、どっちの言い分をとるかの選択を迫られた気がする。
 結局言い分が通らなかったルシカは、最後に言った。

『じゃああたしには、いつになったら教えてくれるの!?』
『そうだな。お前が修行の旅に出て戻ってきたら……かな』
 小さな妹は賢く勘が良かった。まだ十歳になったばかりだったが、それが逃げの言葉だと敏感に見抜いていた。
 お兄ちゃんにはその前に教えているくせに、と涙を浮かべた青い目が言っていた。
『どうして、あたしじゃだめなの?』

 泣きながらそう言って、あれほど兄にまとわりついていた妹が、ふてくされて三日間兄と口をきかなかった。
 ちなみに当然と言えば当然だが、口をきいてくれなかったのは、父相手にも同様だった。



「……あの時からルシカ様は、父上、兄上と呼ぶことをやめておしまいになったんですわね」
 子供らしい単純な反抗は、可笑しくもあったし、いじらしくもあった。
 だがそれが、一時に留まらず、結局今まで続いていることに、単純には片づけられないものを感じさせた。納得したのではなく、諦めにも似た気持ちがルシカの中でくすぶり続けているのかもしれなかった。

『お父さん、お兄ちゃん』

 娘の無邪気な姿のその裏にあるものが、一族の者として望まれ本来あるべき姿への遠回しな反抗心だということは、ダディアスもうすうす気付いていた。兄との差別に納得いかなかったのだろう。その態度も分かるだけに胸が痛んだが、それでも教えることはできなかった。
 ルシカ自身は、自分では見えないから気にしていないのだろうが、背中には、かつての事件での傷跡が鮮やかに残っている。小ぶりの短刀によるものだったので傷は大きくはなかったが、深さを伝えるには十分すぎるものだった。
 ――それは、ロイの心にも、同じ深さの傷がついたことを示すものだ。

 贅沢なことを言っていると分かっているが、ロイが良くできた息子であること――言い換えれば、大神官の跡取りして申し分なさすぎる事にも、どことなくダ ディアスは割り切れないものを感じていた。頼りになることは心強いが、それが妹の分まで背負おうとする覚悟で生じたものなら、素直に喜んで良いのか疑問 だった。
 兄妹で並べてみれば、反動のような部分で、釣り合いを取っているのかもしれない。

「子供というのは、難しいものだな」
「ロイ様も、ルシカ様も、とても立派な方々ですよ」
「……だから余計に思うのだよ。どんな境遇に生まれるかを人は選べぬのだから、それがその者の運命だと言ってしまえば、それまでなのだろうがな」
 ダディアスの傍らに立つ巫女は、ただ静かにその言葉を聞いていた。



* * *



 用心のためかもしれないが、兄は手紙をどうやら何通かまとめて郵送しているらしかった。
 それをきちんと日付順に並べて読むのが、ルシカの楽しみだった。旅先のあれこれを事細やかに綴ってある内容は手紙というよりは、旅行記あるいは日記を読んでいる気分になった。
 心配はしていなかったが、兄はとても楽しく元気にやっているようだ。もし何か大変な事があっても、それは記さないで自分の胸に秘めておくような人ではあるのだが。
 楽しみなはずのその手紙だったが、今回は少しばかり憂鬱になってしまった。

『この手紙が着く頃には、誕生日を迎えているかもしれないな』
 そんな言葉と共に贈り物として同封されていたのは、控えめな装飾が品の良い綺麗な髪留めだった。

「…………」
 自分の部屋で手紙を読んでいたルシカは、鏡の前でそっと髪を摘んでみた。指の間をさらさらとすり抜けていく感触に、とても束ねて留めるだけの量はないと分かった。
 髪が伸びたら――伸ばしたら、使えるかもしれないけど。
 この手紙を一番最初に受け取ったのが、自分であって良かった。紙の束の中から、その分の手紙を抜き取ると、ルシカは髪留めと一緒に、誰にも見せないようにそっとしまいこんだ。

 不在は存在を感じさせるというが、ロイが居なくなって感じたのは、自分のことだった。
 比べても仕方ないという悟りは持っていたが、そのせいで、なおさら分からなくなるのだ。
 兄はまるで持って生まれてきたように、神器の守護者に相応しい人だった。
 見せかけだけのものとは思えなかった。態度だけでなく、中身にも強い自覚があった。
 それが努力の結果によるものなのか、元々そういった素養というか性格を持っていたのか分からないが、紛れもなく判っていることは一つある。
 父の後を継ぐのは――兄なのだ。
 それは疑いようのない『決まった未来』だった。
 だったら自分は、ここで、どんな風に過ごしていればいいのだろう。
 兄と同じ事は出来ないし、同じにもなれない。多分、周囲もそう望んでないし、きっと……期待もされていない。

 この小さな秘密を抱えた村の中で、あたしはどんな風になりたいのだろう。
 ――何に、なれるのだろう。

2007-08-30

『守護者の傷』と合わせて読んでもらった方が良いかも(というか合わせて読まないと分かりにくいかも)。……書きながら思いましたが、このミイス主は、兄を初恋の相手ではなく、ライバル視していた妹な気がする。