空の彼方
息を大きく吸い込むと、緑の大気の匂いがした。
村の裏手に広がる森の入り口は、村人が訪れることは滅多にないが、ルシカにとっては、馴染みの場所だった。元は改築前の神殿の跡地であった土地なので、森の中にありながら、小さな広場のようにひらけている。
一人で剣の稽古をする場所もここ。
兄ロイに、剣の相手をしてもらうのもここ。
何となく気分が晴れないときに、息抜きにくるのもここ。
父や兄に叱られて、ふてくされて逃げ込むのもここ。
そして。
頭上を見あげる。
ぐるりと周囲を緑の木々に取り囲まれて、青い空が丸くのぞく。
――空を見あげに来るのも、ここだ。
村の中からでも空は見えるが、ここで見あげる空の色は少し違う。
もっと青く、高く、自由な色をした空が、彼方まで続いているような気がする。
ミイスの村は、神器を守るため、周囲を結界で閉ざされている。別に結界が張られていても生活に支障はない。外部からの侵入者をそれと気づかずに遠ざける役割をしているだけだから、中で暮らしている分には、まったく影響はないのだ。
村人たちは、自分たちが結界の中で暮らしていることなど、普段の生活の中では意識もしていないだろう。
けれど、ルシカは何となく気になってしまうのだ。
何が違うとは具体的に言えないのだけれど、周囲の気配の届き方が違う。
なんといえば良いのだろう? 大気に溶け込む存在の気配、動植物の息づかいや、次元の狭間に漂っているといわれる精霊の気配が、結界のせいで遮断されているように感じられるのだ。
綺麗に清められてしまっていて、かえって落ち着かない。たとえて言うなら、潔癖なまでに片づきすぎていて、人の住んでいる気配まで消えてしまっている部屋。
どうも村に居ると、そういう感覚を覚えてしまう。
村から見える空の色は、薄い膜が一枚被さっているようで。
何も被さっていない、もっと自由で濃い大気を感じ取りたくて、ルシカは結界の境界の際にあるこの森に足を運んでは、空を見あげることが癖になっていた。
「ルシカ。さぼっていないで、お前も手伝え」
空を見あげていたルシカは、兄の声で我に返った。
呆れた顔で、ロイがルシカを見つめていた。
兄の腕の中には、すでに様々な種類の薬草が山となっている。一方のルシカは、片手に一束二束ほど。サボっていると言われても仕方がない。
「ああ、ごめんごめん」
そう言ってルシカは周囲を見回す。
どの薬草がどんな症状に効果的か。薬草の見分け方、効能、処方の仕方などの知識は、すべて兄から教わった。
「雨は降りそうにないがなあ」
「え?」
「空を見あげていただろう」
「ああ。何となく」
「村の中は息苦しく感じるか?」
――鋭いなあ。
この兄が、見かけよりもずっと油断のならない性格であることを、ルシカは知っていた。
特に妹のことに関しては鋭い。
昔からルシカは、放っておけば黙ってこっそり森に探検に出かけたり、川に泳ぎに行ったり、獣を追い回して遊んでいたりするような危険な子供だった。もう10年も前になるが、うっかり木登りをして遊んでいて、枝から落ちて死にかけたこともあった。
……以来兄は、この妹は目を離すと何をするか分からない、と思っているのかもしれない。
「そろそろお前も、修行の旅に出ても良い頃だよな」
その言葉に、ルシカの耳が反応した。
見れば、兄は得意そうな笑みを浮かべていた。
「最近ずっと、そのことを考えていただろう?」
「お兄ちゃんがいけないんだよ。面白そうな話ばかりするから!」
「……面白そうって……いや、修行の旅だったはずだけど……」
ぶつぶつと呟いていたが、強く否定できないのは、身にやましいことがあるからに違いない。
ルシカの視線を受けて、ロイは目をそらした。
「父上にそれとなく言ってみることにするよ」
「本当!?」
「……本音を言えば、私も、お前を外に出すのはまだ早いと思うのだよ」
「ごめんね。いつまでも頼りにならない、不出来な妹で」
笑ってルシカは薬草集めに専念したが、自分で言った言葉でかえって落ち込みそうになった。
やっぱり、自分は頼りにはならないと思われているのだろう。
隠れ里ミイスは、闇の神器を守っている、という。
神官の一族は、それを守る義務がある、という。
ルシカが持っているのは、そういうことになっているらしい、という漠然とした知識でしかない。
闇の神器がどういうもので、どういう効力を持つのか、そもそも何のためにそれを守らなくてはならないのか、このミイスの村はどういう経緯で生まれたのか。そういった具体的なことは何も知らされていないのだ。
兄は、ちゃんとした知識を持っている。父に教わったらしい。
たしかに神器の守護者としての役割――村長であり神官の座を継ぐのは、兄であって、自分ではないのだろうが。自分は女で、ロイとも年が離れていて、おまけに性格もこんな風だから、頼りにされていないのだろうが。
「……ルシカ。お前、この村で神官の一族として暮らしていくのは嫌か?」
まずいな、と思った通り、ロイはルシカが何を考えていたのか、敏感に見抜いたようだ。
「違うよ。そうじゃない」
そうじゃなくて、ただ、こういう中途半端な状態が嫌なのだ。
みんなに可愛がられて、それなりに剣の腕も頼りになって、付き合いやすくて親しみやすい神官の一族の末の娘という役を演じることはできるけど。
それだけを期待されているのだとしたら、少し寂しい。
この村での自分の役割が、本当に自分のしなければならないことだという確信を持てない。
何を期待されているのか。どう振る舞えばいいのか。何を感じて、どう生きていけばいいのか。
だから、空の彼方のことを思ってしまうのだ。
あの空の彼方には、どんな世界が広がっているのだろう。どんな事が起こっているのだろう。何が待っているのだろう。
昔から、なぜかそういうことばかり考えてしまった。
それはこの村を嫌っているとか、居心地が悪いとか、理由があるわけではない。
生まれ育ったこの村を、ルシカは好きだった。見知った人々に暖かく守られ、濃い緑の森が柔らかく周囲を包み、ひっそりと静かな穏やかな時間の流れるこの村は、まぎれもなくルシカの故郷であり、懐かしく、安心できる場所だった。
その気持ちと、外の世界を見てみたいという気持ちは、別に相反するものではない。
全く同時に、同じ重みを持って、ルシカの中に存在している。
「お兄ちゃんはどうなの?」
せっかくなので、前から疑問に思っていたことを、ルシカは尋ねてみた。
「あたしは、もしかするとお兄ちゃんは修行の旅に出たけど、それが気に入っちゃって、村には帰ってこないかもしれない……なんて考えたこともあったんだけど」
はぐらかすように、ロイは笑った。
「意外と私は信用がないんだな」
「そうじゃないよ」
「……人には、持って生まれた役割というものがあるよ」
お兄ちゃんの役割はこれなの? どこかこの近くから適当なお嫁さんでももらって、小さなこの村に封じられた宝物を守り通すことが、お兄ちゃんの生き方なの?
さすがにそこまで口にすることはできなくて、ルシカが小さく言った。
「お父さんのことがあるから?」
最近、父の身体の調子が良くない。それほどの高齢というわけでもないが、色々と高度な術の使用や気苦労がたたっているらしく、体力や気力が落ちているように見える。
気弱な言葉をもらすことも多くなったし、それとなくロイに自分の後を譲る準備を始めているようにも見える。
兄もそれを悟ったから、旅を切り上げて、村に帰ってきたのだろうとルシカは思っていた。
ルシカの言葉に、ロイは少し顔をしかめた。
「お前、今日は少し変だぞ。薬草集めはもういいから、そろそろ帰るか」
「……ごめん」
変だと言われて、ルシカもそうかもと思う。
何だか胸がざわざわする。
空の彼方を見あげているときとは、似ているようで微妙に異なる、微かな予感がして。
旅に出てから。
ルシカはこのときの会話を、何度も思い出すことになる。
まだ自分が何者でもなかった頃のこと。
憧れと予感と抱いて、空の彼方を見ていた頃のこと。
2006-06-17
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