黒髪の才女
「あ、あの……ザギヴ先輩」
魔道アカデミーの廊下でおずおずと背後から声をかけられ、シェスターは振り返った。
ローブに身を包んだ金髪の女学生は、自分が人違いをしていると分からなかったようだ。シェスターの戸惑った表情が自分に対する不信感だと思ったのか、彼女は早口で続ける。
「先ほど教授が探しておられました。何でも渡したい書類があるとか」
「ごめんなさい。人違いをしていると思うわ」
シェスターが告げると女学生は目を見開いて、まじまじとシェスターを見つめた。それから、あ、と何かに思い当たった顔になり、慌てて頭を下げると、ぱたぱたとシェスターの脇を走り抜けていった。
そんなに似ているのだろうか。
彼女の後ろ姿を見送りながら、シェスターは心の中で呟く。
人違いをされるのはこれが初めてではなかった。自分の影が薄いせいか、たびたび一学年上の女学生ザギヴと間違えられることがあった。
――ザギヴ・ケルク・ディンガル。
その名が意味することは明白で、その存在はシェスターも知っている。学院内の噂の有名人だ。
『噂の』とつくのは大体ザギヴは一人で行動することが多く、みな遠巻きでしか彼女のことを知らないからだった。
シェスターも言葉を交わしたことはなかった。遠目から一度、学内でその姿を見たことがあるくらいだ。向こうは気がついていなかったろう。学年が一つ違うし、専攻している分野も違うようで、講義が一緒になることはなかった。
黒髪の美女で、入学時から成績はトップクラス。今年の首席卒と目されている。授業態度は真面目で勉強熱心。
ただし、人付き合いは良くない。
自分にも他人にも厳しい性格のようで、人当たりがきついところがある。そのため美人ながら人を惹きつける華やかさよりは、人を遠ざけるような険しさが先立つ――。
親しい友人がいなければ、人は印象だけで語られる。
そしてシェスターはザギヴと特徴が重なりやすいらしく、いつの間にか『一学年下にザギヴに似た女学生がいる』という位置づけになっていた。
それが恐れ多いということは、シェスター自身がよく知っている。シェスターにとって、ザギヴは何の接点もない、仰ぎ見るだけの遠い存在だ。自分は、身内といえば弟が一人いるだけの一学生に過ぎず、誇れるような出自でもなければ、身分はもちろんのこと将来望まれている像もまるで違う。
心の中でつい弁解してしまうのは、他人の注目を集めるようなことが苦手だったからだ。できるだけ目立たず、ひっそりと暮らしていたい。そういう内向的な部分が、極度の人見知りとなり『学問にしか興味のない変わり者』と影で囁かれる理由でもあるのだろう。
――それが弟を心配させ、必要以上に弟が過保護になる原因であることもよく分かっていた。
学院を卒業して、自分で生計を立てられるようになれば、自分に自信がつき、こうした性格も態度も、何か変わるのだろうか。
あと一年と少しで卒業なのだ。
残された時間の少なさを思いながら、シェスターは胸元に持っていた呪文書を抱え直し、別棟のアカデミー図書館へと向かった。
* * *
広いホールの形をした図書館は、窓の間を縫って本棚が壁一面を埋め尽くしている。
部屋の手前には机が並べられ、奥ではボルダン族の背丈ほどの本棚が、向かい合わせに何列か整然と立ち並んでいた。間をローブ姿の学生が行き交っている。
さすがに図書館だけあって、話し声はほとんどない。落ち着いた静寂に、シェスターは一息つき、歩みを緩めた。
『君がさらにその知識を深めたいというのなら、アカデミー図書館地下の特別閲覧室をのぞいてみるといい』
『特別閲覧室?』
『太古からアカデミーに継がれてきた古文書や、逆にまだ一般書架に並ぶことはない最新の研究書の草稿などが収められている場所だ。君なら入ることも可能だろう』
シェスターが師事している魔道生物研究者である老教授から、特別閲覧室の存在を教えられたのは先月のことだった。一般の学生は立ち入ることはできないが、成績上位優秀者や魔道研究に携わる研究生には、特別に入室が許可されるという。
何かを深く知りたいと思う者なら、一度は目を通しておきたい書物の数々が並び、利用者が限られるゆえに人気がなく、周囲を気にせず思索に没頭できる。ある意味、とても贅沢で守られた空間だった。
以来、シェスターは何度か足を運ぶようになっていた。
一般書架の間を通り抜け、突き当たりの壁の隅に口を開けている螺旋階段を下りる。とんとんとんと自分の足音と共に螺旋階段の底へとたどり着くと、閲覧室の古びた鋳鉄の扉に触れた。
地下の特別閲覧室には、結界が張られている。
過去の偉人達の残した研究書や古の呪術書、禁呪について記された書物は、財産であると同時に重要な機密でもある。また中には書物、それ自体が魔力を帯びているものさえある。
『特別な資格がないと入室できない』というのは、言い換えれば『この結界を解呪するだけの能力がなければ入ることができない』ということでもあった。
解錠の呪文をかけようとして、シェスターはすでに扉が一度開けられていることに気がついた。つい今さっき、誰かが解呪をしたばかりのようだ。術の余韻がある。
出直そうか考えたが、別に一人だけという入室制限があるわけではない。利用者が限定される部屋なので、これまで先客がいるという状況がなかったのだ。
一番最新の許可者が自分であることを考えると、中に居るのはシェスター以前に許可を得ている者となる。
誰だろうかと思いながら、そっと扉を開ける。
――長い黒髪。
思わずどきりとして、シェスターは立ち止まってしまった。
書見台の前に立っている長い黒髪の女性が振り返った。入り口で立ちつくしているシェスターに目をとめる。その目線が扉に向けられているのを見て、慌ててシェスターは後ろ手で扉を閉めていた。
ぱたん、と部屋に静寂が満ちる。
自己紹介をされたわけでもないのに、ザギヴだと、すぐ分かった。
そして改めて感じる――自分とは全く似ていない。
纏っている気配が違っていた。凛と伸びた背筋といい、こちらに向けた目線の強さといい、学生の身であるはずなのに一種の風格や威圧を感じさせた。
軍人のようだと思い、そこでザギヴが既にディンガル政府の官僚として内定を受けていることに思い当たる。
ようだ、ではなく、この人は実際に軍官になるのだ。
本当に身分も立場も違う人なのだ、という思いに捕らわれ、シェスターは教授に向けるように、自然に頭を下げていた。
ずっと気になっていた存在と間近に接するのは初めてだったが、親近感も、逆に隔たりも感じなかった。
いや。初対面の人間には、まず警戒心と緊張感を覚える自分が、特に身構えることなく自然の態度でいられたというだけで、やはり何か似た部分はあるのかもしれない。
理屈ではない心の奥底で、予感じみたものを覚える。
相手も同じだったのか、不意にザギヴが口を開いた。
「あなた……もしかして、シェスター?」
シェスターが目を見張る。ザギヴは淡々と続けた。
「あなたのことを聞いたことがあるわ。私に似た後輩がいると。――そして、魔道生物学を専攻しているそうね」
自分がザギヴを知っているのは当然としても、相手が自分のことをそこまで知っているとは思わなかった。
シェスターの驚き顔を、どう受け止めたのか分からない。ザギヴは一瞬迷うような表情を浮かべた。鎧のような硬い表情が崩れると、その下にあったのは、意外と柔らかで神経質そうな女性の顔だった。
そして予想外の問いを投げかけてきた。
「一つ、立ち入ったことを聞いてもいいかしら。何故、魔道生物学を?」
「え?」
「若い学生は国の要職や学術や宗教関連の職につくために、政治や歴史も含め実践魔術を学ぶ傾向がある。あなたは成績優秀な魔道士とも聞いたわ。その気になればディンガル官僚も目指せるでしょうに。まさか妖術師ゾフォルの後継者を目指しているわけではないでしょう?」
「あ、ああ……。そういう条件だったんです」
「条件?」
「私はリベルダムのアンティノ商会の学生支援を受けて学院に入ったので。ゆくゆくは商会の研究所で、魔道生物を素材とした薬や魔道具の開発に携われればと。経済的に自立できれば、弟にも苦労させずに済むので」
「成程。事情があってのことなのね」
何故かザギヴは、少し気抜けしたようだった。だが、最後のシェスターの言葉に表情を引き締めた。
「その話だと、ご両親は既に他界されたのかしら?」
シェスターはザギヴを見つめた。
何気ないザギヴの問いだったが、何故かそれが、刃の先に触れるような際どいものである気がした。
彼女の噂はいくつか聞いている。皇帝に限りなく近い高貴な血筋でありながら、先の邪眼帝バロルの貴族弾圧政策によって没落した名門貴族。その最後の一人。
当時のバロルの弾圧は凄まじいものだったそうだ。ザギヴを始めとする関係者が口を閉ざしたままなので詳細は不明だったが、ザギヴはそのとき、自分以外の家族全員を一気に亡くしたという。
人目を引く美しい容姿ながらも、どこか陰を思わせ、頑なな雰囲気をまとっているのは、過去が影響しているのかもしれなかった。
結局、うまく言葉を探し当てられず、シェスターは頷くだけに留めた。
一瞬自分に向けたザギヴの視線が、柔らかになった気がした。あるいは同情を帯びたような。
ふとシェスターは廊下でかけられた言葉を思い出して、唐突に告げた。
「そういえば教授が、あなたを探しているようです」
どの教授か聞かなかったと気付いたが、ザギヴはすぐに思い当たったようだ。同時にどういう事情でシェスターがそれを知ることになったのかも察したようだった。
ザギヴが頭脳戦とも称されるディンガル帝国のチェス大会の優勝者だったこともシェスターは思い出す。先ほどの会話運びといい、さすが推察能力が高いはずだ。
「そう、ありがとう。不躾なことを聞いたわ。私と間違われて嫌な思いをしたでしょう?」
「いえ、そんなことは」
思いがけず、強い否定の言葉をあげると、ザギヴはひっそりと笑った。そして続けた。
「私はもうすぐ学院を卒業して、ディンガル官僚として務めることになる。あなたとは進路が違うけど、またどこかで会えるといいわね、シェスター。あるいは、あなたの弟にでも」
それが滅多にない彼女の最大限の社交的な言葉だったと気付いたのは、彼女が扉を開けて出て行った後のことだった。
* * *
一人部屋に残されたシェスターは、今の会話が夢だったのではないかとも思った。
だがザギヴが立っていた場所の前の書見台に、一冊の冊子が残されていたままなのに気がつき、誘われるように向かうと紙をめくっていた。
闇の円卓の騎士と神器についての記述を纏めたもののようだった。
神聖王国時代の書物も所蔵されているアカデミー図書館の書物の中では、比較的印字の状態も紙綴りも新しい。まだ研究途中の記述を纏めたものかもしれない。
『魂吸いの指輪。開け放つものであり円卓の騎士筆頭ヴァシュタールが持つとされるが、前の戦いにより管理者の手を離れ、人界へ。人手を多く渡り歩いていたが、強力な魔力を持つため、エルフ族の手で保管されているという説がある』
『貪欲の盾。棲みつくものマゴスの持ち物。現在の所在は不明。マゴスは軟体生物ような外見を持ち、他者に寄生するという形をとる。操りの能力はないが、闇の神器を身につければ闇に蝕まれるように、負の属性を帯びた闇の生物に寄生されることは重篤な人格変化をもたらすと思われる』
各神器の特徴と、それから所有者の魔人の特徴が簡潔に纏められている。
つらつらと視線が記述を追っていた。
『忘却の仮面。心をなくすものアーギルシャイアが管理者。一時は施文院が所蔵し、独自の封印術を用いて秘匿としたとされる。宝物管理を担っていたミイス分派が独立する際、共に流出。現在の所在は不明。
アーギルシャイアは他者の身体を乗っ取り、精神を操る。それゆえ心をなくすものとの異名がついたとされる。またアーギルシャイアが憑く対象は女性が多い』
指先に紙の乾いた感触が宿り、『闇の神器』と『魔人』という言葉が脳裏のどこかに一緒に刻まれる。
――何気ない学院生活での一つの交錯が、のちに大きく影響することを、彼女はまだ知らない。
2018-08-26
また魔道アカデミーでは、ザギヴとシェスターが先輩・後輩の間柄であること。共に黒髪、首席卒、魔人憑き。アーギル関連のイベントがティラの娘関連でもあり、ティラの娘を退治すると、ザギヴから礼を言われること。共有点が多い二人には、根が通じるものがあるのでは? という妄想も膨らんで書いてみました。