ささやかな春
長い黒髪に雪がついたように、花弁が絡んでいた。
ロイは指を伸ばし、その花をそっと手に取った。
「……春なんだな」
「え?」
手のひらにのせた白い花を見せると、シェスターが表情をほころばせた。
「散歩の途中で、村の女の子とあったのよ。花の冠を作って、私にくれたの」
落ち着いた口調で答えて、シェスターは白い外套を脱いだ。
服の裾が、ひらりと揺れる。花びらが揺れるような、白い羽が開くような、軽やかな動きだった。
彼女自身の印象は、どちらかといえば硬質な部類に入る。まっすぐ落ちる黒髪と、線の形がよく分かる彫像めいた横顔は、どことなく、近づきがたささえ感じさせるのに。
硬さと柔らかさをあわせもった彼女の姿は、冬から春にうつりかわる、冷たく澄んだ朝の光が、よく似合う。
「どうしたの、ロイ?」
「いや、何でもない。その花の冠は? 被って帰ってくれば良かったのに」
見とれていたことを誤魔化すようにロイが告げると、ぱちぱちと瞬きしてから、シェスターはぎこちなく笑った。どうやら笑うところらしいと遅れて気づいたようだ。
ロイの冗談が下手なせいもあったし、こうした不意の言葉に対する応答にシェスターが慣れていないせいもあったが、たまに二人の会話は、どっちがまずいというわけでもなく、少々ずれたものとなる。
そんな二人の姿を、村人たちは初々しいと思って見ていた。妹はシェスターが少しだけロイより上手の証拠だと考えていた。弟は二人の先行きに若干の不安を覚えるらしかった。
だが当人たちは真面目だったし、その部分も含めて相手を理解している……つもりだった。
「花の冠を被って帰ってくるなんて、女神レイティアみたいね」
「レイティアは、秋を司る神だろう?」
不思議な言葉を聞いて、ロイは問い返した。
レイティアは豊かな恵みと実りを約束する豊穣の女神で、たいていは麦の穂を携えた姿か、秋の実がなっている森を逍遙する姿で描かれる。
ああ、とシェスターは言葉を補った。
「子供向けのおとぎ話の中にあるのよ。女神レイティアが、最初に大地に降りた年のことよ。秋の収穫を終えて、冬の眠りについた彼女が目覚めると春が来るのだけれど、その春の祝いに、精霊たちが彼女に花の冠を贈ったの」
レイティアは二代目の地の女神だった。
ティラが闇に封じられた後やってきた女神で、闇と人間との大戦によって精霊たちが死滅した地に降り、精霊を生み出す役目を引き継いだ。
花の冠は、そんなレイティアに対する、精霊たちの新たな忠誠と祝福の証だという。
――目の前の彼女に通じるような話に、ロイは言葉を返し損ねた。
シェスターは特に意図を含ませていたわけではなかったようだ。ロイの様子には気づかず、表情を整えて言った。
「私が持っているよりも……とても綺麗で丁寧なものだったから、墓所に捧げさせてもらったの。あそこはあまり花が咲かなくて、少しさびしい場所だから」
「そう」
伏し目がちで語る、シェスターの癖。
だがロイが相づちを打つと、すぐに顔を上げて、淡い微笑を浮かべなおした。
去年よりもずっと柔らかくなった眼差しを見て、ロイは心から良かったと思った。
彼女自身のためにも、彼女を側に置きたいと思った自分自身のためにも。
彼女をミイスに連れてきたのは、一年前の、ちょうど今の時期くらいのことだった。
正直言って、それが正しかったのかどうか――シェスターのために良いことだったのかどうか――表で見せているほどに、ロイの自信はなかった。
朝の一人散歩。それはシェスターがミイスに来た頃からの習慣だったが、最初のそれは、普通の散歩とは少し意味が違っていた。
楽しむためのものではなく、確かめるためのもの。
焼き払われた木々の跡、真っ黒な焦土の、その様子を知るための。
燃えて灰となるのは一瞬でも、そこに新しい緑が育つには、数十年かかる。
冷たく焦げ付いた土を、できるだけ早く蘇らせる方法を、シェスターは必死になって模索していた。自分の持つ魔法の知識、研究所での経験、それ以外の多くの出来事と学んだことを、このミイスで役立てる事はできないかと。
もしかしたら時々ぶり返す重い罪悪感と焼け付くような後悔に、黙って眠っていることができなかったのかもしれない。黒い瞳に全てを飲み込んだまま、ひっそりと朝の森へ出かけていく張りつめた背中は、見ていると痛いほどで。
それが自分に課された罰だとも償いだとも、彼女は言わなかった。
ロイも、もう良いから、とシェスターを止めることはしなかった。
焼き払われた土地の無惨な跡を目にして、シェスターの心が痛まないはずはない。それは分かっていたし、ロイも覚悟していたことだった。それらをふまえたその上で、彼女をこの場所に連れてきたのだ。
自分の側に居て欲しかった。それが大きな理由だったが……それだけでもなかった。すべては終わった事として、何事もなかったような顔をして違う場所で生きていくことは、とてもできないだろうと思ったからだ。
あのままシェスターの手を離したら、彼女は身を裂かれるような後悔を一生背負い、それを軽減させる機会も得られないまま、生き続けなくてはならない。
いや、それでも、生き続けてくれれば良いのだが――。
『自分なんてもういらないと泣きながら言ったわ。だから私が身体をもらったの』
アーギルシャイアに乗っ取られる要因となったシェスターの苦悩。もう一歩踏み込んで言ってしまえば、アーギルシャイアと引き合うことになった、シェスターの暗い傷。
与えられる救いや許しだけでは、どうしても消えないものがある。
一度表に出ることを許してしまった自分の影は、自分の意志と力を磨くことでしか、なだめることもつなぎとめることもできないのだ。
だから、散歩に出かけるシェスターを、ロイは黙って見守っていた。
季節は春に変わろうとしていても、あの頃の彼女は一人、冬に取り残されているようだった。
そんなシェスターの姿を見ていることは、側に居るロイにとっても、耐えることに似ていた。
けれど今、二度目の春が来て。
「戻ってきたばかりで悪いが、シェスター、もう一度、出かける気はないか?」
「構わないけれど、どうしたの?」
「外に出かけたくなったんだ。君と一緒に」
いつになく浮かれた様子のロイを、シェスターは怪訝そうに見つめる。
「……春なんだと思って」
そっと腕を伸ばし、シェスターを引き寄せて、秘密を打ち明けるようにロイは言った。
「いつか君と、緑の森を歩きたいと思っていたんだよ」
君が、少しずつ手をかけて蘇らせた、このミイスの森を。
シェスターが、ロイの腕の中で、また伏し目がちになる。ふるえたまつげに一瞬泣いているのかと思ったが、顔あげて、今度ははっきりとした笑顔を浮かべて言った。
「私もよ。私も、あなたと一緒に、あなたの故郷を歩きたかったわ」
2008-02-20