遠い思い出
一組の姉弟が居た。戦乱で両親を亡くした二人は、寄り添うように生きていた。
姉は繊細で感受性が強く、おとなしい性格だった。持って生まれた高い魔術の素養と微かな精霊の気配を敏感に感じ取ることのできる能力をもっていた。彼女は教会の神官の下で、祈りや癒やしの術、精霊属性付与など、魔術に関する手伝いをすることで生計を立てていた。
弟は、姉と同様に人と交わることを好まない性格だったが、積極的で攻撃的な一面を秘めていた。姉弟二人で戦乱後の混乱の中を生きぬいていくだけの才覚と 強靱さ、用心深さを持っていた。魔術の才は受け継がなかったが、身体能力に優れており、理不尽な略奪や横暴を防ぐために習った剣の腕は、その年頃にしては ずいぶん実戦慣れしていた。彼は様々な雑用をこなす街中での便利屋的な存在として、日銭を稼いでいた。
戦乱で焼き払われた村の片隅で、茫然と両親の亡骸の側らに座り込んでいる姉の手を握りしめ、少年は姉は自分が守ると心に決めた。
あてのない未来を生きていくための、確かなもの。
少年も人生を保護者なしに生きていくには幼かったので、不安を吹き払うための強くはっきりとした指針――生きていく上での確かな目標と意志と正しさが必要だったのだ。
少年にとっては、それが姉だった。
誰か適切な導き手が側にいれば、彼もそこまで思い詰めることなく、もうすこし選択肢の広い、余裕のある生き方を選べたかもしれなかった。
けれどそのとき、彼の側には、そういう人間はいなかった。
東の海の近くにある商業都市の有力商会が、精霊力を源とした文明利器の開発に乗り出した。
その一環として、素養のある人材に対して、大陸最高の魔術教育機関就学のための経済支援を行うことになった。
その話は、神官の下で働いている姉の耳にも届いた。
「きみにもしその気があるなら応募してみるといい。基礎学力に不安があるというなら、私がその手ほどきをしよう」
神官のその言葉を、ありがたく姉は受け取った。
自分の取り柄といえば魔術くらいしかない。もしかなうなら、それを生かした道に進みたかった。また、書物を紐解き、太古の歴史や叡智に思いを馳せる学問は、もの静かな彼女の質にもよく合っていた。
姉の希望を弟も受け入れた。姉に向いていると思ったし、姉が望むことなら叶えてやりたかった。
いくつかの偶然と幸運が重なって、姉は見事にアンティノ商会の経済支援を受け、魔道アカデミー特待生の入学切符を手に入れた。
エンシャントに向かう船が出る。
船上の姉の姿を見あげて、少年はやり場のない鬱屈を感じていた。
姉の望みなら叶えてやりたい。それは事実だったが、自分の力の及ぶ範囲で、自分の手の中にある状態で、叶えてやりたい。そう思っていたのだ。
けれど姉は自分でやりたいことを見つけ、少年の元を離れていった。魔道アカデミーは寄宿制だ。しばらくの間姉とは別の地に別れて暮らすことになる。
けして口には出さなかったが――なんとなく少年は、自分が捨てられたような、そんな気がしていた。
船上の姉は弟を見て、微かな胸の痛みを覚える。
ごめんなさい、と。
自分のために尽くしてくれ、自分のことを喜んでくれた弟が、内心で不満を抱えていることを、感受性の強い彼女は察していた。察していながら、何も告げずにそのまま逃げた。
弟の気遣いはとてもありがたい。心底、そう思っている。なのに時々それを重たく感じて、息苦しくなってしまう。
確かに自分は無力で何もできないけれど。
だからこそ、このままではいけないと思った。何かできるようになりたかった。
――捨てられたのではなくて「寂しい」と。
ごめんなさいではなくて「ありがとう」と。
素直にそう思い合える関係であったら別離も少し変わったはずだが、この姉弟は閉鎖的な環境で重たく寄り添いすぎた。自立の意味も分からぬうちに保護者を失い、自分たちの狭い価値観の中で、側にある者だけを信じて、すがるようにして生きていた。
それは、手の中の世界がすべてというような偏狭な環境と愛情だ。
姉の方は心の何処かでそれに気づきはじめたが、弟はまだそれに気づくだけのゆとりはなかった。
弟が気づく前に、姉は弟の元を離れた。
住処の維持には意外に手間と金銭がかかる。少年は姉のためになら苦にならなかったことが、自分一人のためだと思った途端、萎えていくのを感じた。
少年にとって故郷はあの戦乱の中で燃えてしまった。姉の居る場所が彼の居場所だった。
姉の居ない場所は彼にとって何の重みもない虚ろなものだった。
彼は冒険者となって、世界を気ままにさすらう道を選んだ。
――居場所も目的ももたない彼は、冒険者となっても一人のままだった。
2006-07-05
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- 守護者の傷