守護者の傷
子供は七歳までは神の子だから。
神官である父は、そう言っていた。
だから、などと言うつもりはなかったが、現在六歳の妹はよく不思議なことを言った。
……くろいかげがくるよ。
……ひが、たくさん、もえてるよ。
その幼い頭で、何が理解できているとも思えなかった。それなのに神殿の奥深く――神器の安置所近くにまで来ると、かならず泣いた。
何か気持ち悪い感じがすると。これはとても怖いものだから嫌だと。
それを守るのが私たちの役目なんだよ。わるいやつらがやってきても、お兄ちゃんとお父さんで追い返すし、この宝物だってかくしてあるから平気だよ。
いくら言い聞かせても無駄だった。
つないでいた彼の手を強く引っ張って、くりかえしていた。
……どうしてこんなものを守っていかなきゃならないの?
……いつかきっと、とてもわるいことがおこるよ。
妹のことは可愛いとも思っているし、大切にもしているが、神殿に来るたびにこう言ってぐずる妹は、正直言って、うっとうしくてかなわないとも思っていた。
将来この神器を守る役目を背負うことになっている少年には、なんだか妹の言葉は、理由のない非難をしているようにも聞こえたのだ。
闇の神器の封印を守るために、この村はつくられた。
村長は神官を兼ね、神器の守護者たる役割を負う。
神器は12種あるが、ここにあるものは『忘却の仮面』というもので、身につけた者の記憶と引き替えに、神の力を与えるという。いつの日か世界に渾沌が満 ち、破壊神復活の兆しがあらわれるとき、持ち主たる魔人も復活し、この神器を狙いに来ると預言されている。これは、闇の者の手には決して渡してはならぬも の。そのためにこの村はあり、自分たちはその守り手の代表なのだ、と。
少年はそのことを嫌というほど父から聞かされてきたし、妹も同様に、言葉の内容を理解できないうちから、兄の隣に座って一緒に父の教えを受けてきた。
物心ついたときには、それが自分の使命なのだと……生き方や将来というのは、生まれた環境によって、漠然と決まっていくものなのだと、少年は悟っていた。
このときはまだ、その程度の感覚しかなかった。
*
その日は夕暮れ時に、妹がわざわざ自分の元にやってきたこと以外は、特にかわりのない穏やかな一日だった。
「にい様!」
森のはずれで稽古をしていた少年の姿を見つけて、妹が駆け寄ってくる。危うく転びそうになったのを見て、思わず少年は手を差し出した。
結界で守られていると言っても、この場所は村の外れで、その効力が一番弱まるところだ。平和なこの村で、そんな心配は無用のものだろうとの虚しさが微かに胸をよぎったが、あえてそれを追い出し、少年は言った。
「ここはあぶないから、来てはだめだって言ったろう」
「だって、にい様が、どこか行っちゃったかとおもったんだもん」
「……どこにも行かないよ」
溜息混じりに答えて、嬉しそうにまとわりついてきた妹の頭を撫でてやる。
なぜか知らないが、妹は兄の姿が見えないと、どこか遠くに行ってしまったと思うらしい。
たいして広くもないこの村の中では、遠くなんて行きたくても行きようがない。しょっちゅう、にい様は? と口にするこの妹は、相当のお兄ちゃんっ子だと周囲から言われていた。
悪い気分ではないが、少年だってそれなりの年頃だ。妹の面倒ばかりみていられない、と思うことはある。自分はそこまでされるほど妹に親切にしてやった覚えもないし、それほど良い兄でもないと思うのだが。
妹はとにかく兄の側に居ることさえできればいいらしい。その場に座り込んで、さっそく甘えた声をあげた。
「にい様。疲れた。おんぶして」
「……おんぶって……」
「いいから!」
「本当にお前、何しにきたんだ?」
「もう夕方だもん。にい様、時間をわすれてるって、とう様が言ってたから、さがしにきたんだよ」
胸を張る妹に仕方なく背を差し出すと、喜んだような声と共に、軽い体重が彼の背にかかった。どうも最初からこれをねらっていたらしい。
背にしがみついてきた妹が、何かに気づいて声をあげた。
「にい様。背中になんかついてるよ。きらきらしてるー」
妹が小さな手にのせて差し出して見せたのは、なんだかよく分からない、糸につながれた石のかけらだった。
「きれい。にい様、これちょうだい」
「いいよ。やるよ。大切にしろよ」
半ば面倒くさくなって、兄は無造作に答えた。それよりも空模様が気になった。
いつの間にか西の空から、暗灰色の雲が低く流れてきている。夕焼けの赤を呑み込んで、雲が赤黒く毒々しい色に染まり、不穏な気配を漂わせていた。
背に乗っている妹が、無邪気な声で命令する。
「にい様! はやくー!」
「はいはい」
この調子だと夜は荒れそうだと思いながら、少年は妹を担いで、家路を急いだ。
少年の予想通り、その夜、嵐がやってきた。
真っ黒な嵐。吹き荒れる風と雷雨にまぎれて、闇の中ミイスの村を襲ったのは、施文院から放たれた告死天使たちだった。
*
三人の告死天使は、闇の神器を狙い、ミイスの村を襲撃したのだという。
だが事件当初、彼等が何者で、何のためにここにやってきたのか、村の中に知る者はいなかった。
それは全部、告死天使が現れるのとほぼタイミングを等しくして、加勢に駆けつけてきてくれた二人の冒険者に聞いた。豪奢な金の髪を持ち、槍を巧みに扱う屈強な戦士と、彼の義妹だというハーフエルフの魔法使いに。
森の賢者の使いだ、と彼らは言った。間に合って良かった、とも。
彼らは彼らの事情から施文院の動向を探っていたのだが、その最中、ミイス村襲撃計画があることを掴んだのだという。施文院の大神官が、とある理由から闇の神器を集めようとしているのだが、おそらくその一環だろう、と。
二人の冒険者は、告死天使を撃退する手助けをしてくれた。
この言葉は正確ではない。
事実に正しく添って言えば、彼らが、告死天使を撃退したのだ。
金の髪の戦士とハーフエルフの魔法使いについて、少年も戦闘に参加したが、何の役にも立たなかった。
本当にただついて歩いて、戦闘の一部始終を目撃しただけだ。
神業のように繰り出される技も、的確に放たれる魔術の数々も、それらを受けて倒れた告死天使の屍も。一部始終を、まるで記録者として彼らの側についているかのように、目撃しただけ。
金髪の戦士も、ハーフエルフの少女も、少年よりもわずかに年上程度にしか見えなかったが、恐ろしいほど強かった。後にして思えば、告死天使とやりあえる力量を持つ彼らが、只者であるはずがないのだが、そのときの少年には、そんな判断を下せる知識すらなかった。
――結界に守られた隠れ里。
そんなものは言葉の上だけのものでしかなかったことを痛感した。
本当に力のある者の前では、どんな秘密も隠し通せるものではない。
ここは平穏だと信じ切っていたのは、村の中に閉じこもっていた自分たちばかりで、外の世界ではすでに様々な思惑が動いていたのだ。
何もできなかった自分に、少年は強い無力感を覚えたが、そんな彼に追い打ちをかけるような事実が、事件の一番最後に待っていた。
『結界が破られた』
施文院の秘術を駆使すれば、そんなことはたやすいことなのだろうが、それでもどうやって破られたかは、突き止めなければならない。それがわからなければ、もう一度結界を張り直すにしても、どう補強しなくてはならないのか分からないからだ。
その疑問に対して、魔法に詳しいハーフエルフの娘は、渋い顔で告げたのだ。
「結界のほつれ具合から、これは外から強引に破ったものじゃないわ。この村の内部に、何らかの媒介が持ち込まれたことによるものだと思う」
思い当たる節はないかと聞かれて、少年の脳裏に浮かんだのは、夕暮れ時にかわした妹との会話だった。
――背中になんかついてるよ。きらきらしてる――。
血相を変えて少年は妹の寝室へと向かった。
突然の襲撃でどこもかしこも混乱していた。妹のことは巫女の一人に任せてあった。とっくの昔に安全な場所に避難して、保護されていなければならないはずだった。
ここにいないでくれ。
祈りながら扉を開けた少年は、胸の奥にまで染みこむような濃い血の臭いをかいだ。
手燭に浮かび上がったのは、絶対に忘れられない光景だった。
部屋の中央にできた血だまりの中に、大きな影と、その影に守られるようにして倒れ伏している、小さな影があった。
*
妹の方は、なんとか一命を取り留めた。
傷は僅かに急所を外れていたそうだ。殺人機械とまで称される『告死天使』にはあり得ないような失敗だが、側についていた巫女が、それだけ必死になって 守ってくれたおかげだろうと大神官である父は静かに告げた。神の加護も働いたのだろう、この子自身の運の強さもあったのだろう、と。
最悪の事態が起こって当然の状況だった。それが分かっていたからこそ、妹の命が助かった幸運を感謝し、喜び合った。
ただ一人、少年だけは、自分の至らなさを心底悔いた。
「私も、あなたのように、強くなれますか?」
すべてが終わった後、村を立ち去ろうとした金髪の戦士に、少年は尋ねた。
この戦士はその年頃にしては、異質な雰囲気を漂わせていた。戦いの間も余計な口は一切きかず、勇猛だが寡黙で、どこか孤独なようにも見えた。
それは、何か重い物を背負っている者の姿だ。
はっきりと察したわけではなかったが、少年は戦士に対してそんな印象を抱いた。
問われた戦士は、簡潔に答えた。
「信念と意志があれば、なれるだろう」
*
施文院の術者は記憶操作術を使うという。だからなのか、告死天使に襲われた妹は、一命は取り留めたが、記憶の一部を失っていた。
事件のことは何一つ覚えていなかった。無理に思い出させることもないだろうと、兄は妹の大怪我を、遊んでいる最中に木から落ちたと説明した。
記憶を失ったと同時に、不思議なことを言うこともなくなった。神器の安置所を怖れることもなくなった。その中に何が入っているのかも、記憶の空白に紛れてしまった。
兄はそれに関しても詳しい説明をすることを避けた。忘れたのなら忘れたままにしてやりたかった。
父も息子同様、妹に一族の知識を授けることを、それとなく控えるようになった。
一度死にかけた娘だと思えば、再び危険に晒すような真似をしたくなかった。
父は長く生きてきただけあって、預言めいた力を持っていた妹の方が、正しく導けば、おそらくは兄よりも、神器の守護者として相応しい存在になるだろうと 気づいていたけれども。ここで小さな事に巻き込むことを避けても、何らかの運命に巻き込まれるような、そういうものを秘めた娘だと、心のどこかで感じ取っ ていたけれども。
けれど守護者の自覚と責務を背負おうとする息子の姿が、妹のためだというなら、それに付き合ってやろうと決めていた。
少年はあの事件以来、見違えるように大人びた眼差しで、真剣に知識と力を磨くことに専念するようになっていた。
幼かった妹は、兄のそんな姿を見ているうちに、それが当たり前のものだと思うようになった。
妹だけではなく、皆の目にも、いつしかそんな少年の姿が馴染んでいた。
――にい様は、つよくて、やさしい人だよ――
原因を忘れた妹は、それを疑うことなく信じている。
妹の信頼は、兄の誇りであり、消せない傷だ。
2006-08-01