黒い蝶・前編 

 ひらりと、ゆるやかに、踊るように。漆黒の羽が宙を泳ぐ。
 鳥かごの中に居るのは、翼をもつ鳥ではなく、透けるように薄く脆い羽をもった蝶だった。自分の権限で私物化してしまったが、もとは実験材料として、研究所に持ち込まれてきたものだ。

 ……本当は、羽が傷つく前に、逃がしてやる方がいいのでしょうけど。

 そう思いながらも、指は掛けがねを外す前に止まってしまう。
 この小さな生き物は、今の自分の唯一の慰めだった。深い闇の色を溶かし込んだ羽を震わせ、閉じられた世界で、蝶は小さな自由を確かめるように、優雅にゆるやかに宙を舞っている。
 シェスターは自嘲気味に唇をゆがめた。泣き出す直前でかろうじて押しとどめる。
 結局餌だけ変えて、部屋を出て行く。
 感情を殺すようにして、彼女は地下の研究室へと続く階段を、一段一段下っていった。



 会議室も兼ねる大部屋には、他課の研究員も、必要に応じて出入りをしている。
 絶え間なく視界を横切る人影には慣れているはずだが、集中力が切れたときなど、気を抜くと、つい視線が影を追ってしまう。

「目当てはシェスターか?」

 止まった手で感づかれたらしい。ケウィンが声をかけてきた。
 コーラルドは無視したが、耳障りな笑い声があとに続いた。

「怒るなよ。確かにあの女は美人だぜ。あれで性格が暗くなけりゃ、もっといいけどな」

 遠慮のない言葉を続け、ケウィンは自分の手元の実験動物に視線を落とした。手にしている小さな針で、切り開いた生き物の内臓を、注意深くつつき回している。
 やっている作業は陰湿なものだが、端正な目元は憎らしいほど涼しげだった。軽薄で自信過剰な言動とは不釣り合いに、ケウィンは細かく丁寧な仕事をする。研究員としての腕は悪くないのだ。
 コーラルドは、冷静に同僚の能力を評価する。性格と能力は別物だと割り切れなければ、研究員などつとまらない。
 もっとも、この研究所に馬鹿はいない。
 ここには合法非合法を問わず、アンティノ商会が財力に物を言わせて集めた、優秀な人材がそろっていた。
 中でも彼女は、研究の主力を担う一人だった。
 その性格は、自分の隣で楽しそうに実験生物を切り刻んでいる男とは正反対だったが。

 彼女の不幸は、アンティノ商会の経済援助で、魔道アカデミーに進学したことなのだろう。
 アカデミー卒業後は、アンティノ商会の研究所に勤めるという交換条件のからくりが、こういうものだったとは、さすがの才女も気づけなかったらしい。
 毎日青ざめた顔で研究に向かっている彼女を、気の毒だとは思ったが、その一方で、強ばった顔つきと震える指先が、方向は違えど、一つの魅力として映ることも確かだった。
 華やかな光よりも、翳りの方が似合う女は存在する。
 整った顔立ちといい、研究服に身を包んでいるとはいえ、服の上からでも分かる見事な体つきといい、かなり美人の範疇に入るのに、シェスターはぱっとしなかった。
 それだけの頭脳と容姿なら、もっと自信にあふれていてもよいのに、いつも肩を小さくして、目を伏せ、息を潜めるようにして周りの様子をうかがっている。
 彼女のそんなところが、ケウィンのような男の嗜虐心をそそるのだろうが、それを認めるのは面白くなく、コーラルドも自分の作業に集中しようとして、頭を上げ、もう一度扉を見た。

 その扉が静かに開いた。
 予感が当たって、遠慮がちに部屋に入ってきたのは、黒髪を一つに束ねたシェスターだった。
 思い詰めた眼差しで、彼女は入り口付近のテーブル前の手近な椅子を引いて腰掛ける。
 雑然とまとめられている分厚い研究報告書を手に取り、一心に目を通し始めた。その間だけは、何もかも忘れられるというような、切迫した集中力をただよわせて。
 その張りつめた表情がまた、目を惹いた。



 またあの女、ああいう顔をしている。
 ケウィンはシェスターをうかがい、そんな女を密かに気にしているらしい研究馬鹿な同僚の姿も、一緒に視界に収め、小さく嗤った。
 彼女はいつもそうだった。いい加減、諦めるなり、見切りをつけるなりすればいいものを、いっこうに慣れる様子もなく、張りつめた面持ちで、部屋の隅に座っている。
 そのくせ、根が真面目なのか、毎日研究を欠かすことはなく、成果も律儀にあげているのだ。
 以前、シェスターの仕上げた報告書を見たときのことを思い出す。
 ざっと目を通しただけだったが、その出来に、ケウィンは賞賛の口笛を吹いた。
 細部まで検討された緻密な内容だった。同時にそれは、巧妙に欠陥を潜ませておいて、密かに計画に穴を開けておくような器用な真似の出来ない女だということも示していた。
 人道に外れる行為に拒否反応を示しながら、それでいて、反抗することもできない。
 自分に与えられた役割を降りることのできない――中途半端な臆病者。

 その点で言えば、まだシェスターよりも、コーラルドの方が、潔いとも、正直だとも言えた。
 研究熱心。響きのいい言い方なら、そういう質である同僚は、今の状態に満足しているようだった。研究費も材料も人材も惜しみなく投与され、外界の喧噪を 忘れられるこの環境は、確かにコーラルドのような、研究くらいしか取り柄のない陰気な男には、願ってもない楽園だろう。
 ケウィン自身はと言えば、もっと単純に、『金』が理由だった。
 アンティノ商会は気前が良かった。やることに見合うだけの金は払ってくれた。
 結局のところ、きちんと対価さえ支払われれば、大抵の人間は口をつぐんで言うことを聞く。さすがにリベルダムでのしあがってきた商売人だけあって、そういう面での人の押さえ方は心得ている。

 ……いや、単にあれは、コーラルドと同じ種類の人間だからかもな。
 ここを訪れたときのアンティノの目は、商売のためだけとは言い切れない異様な熱を帯びていた。
 学者の探求心も追求心も、それほど高尚なものだとケウィンは思っていない。突き詰めれば、ただの自己顕示の裏返しでしかないが、アンティノの目には、それに似た、べったりとした執念の火がまとわりついていた。
 まあ、俺には関係のないことだけどな。
 ケウィンは指先に力を込め、針越しに伝わってきた弾力を潰す。
 小刻みに手足を動かしていた机の上の生き物が、ぱたりとその動きを止めた。



* * *



 気づけば日々は過ぎてゆく。
 同じように繰り返される日々。だが、少しずつ変わっていくものもある。
 いつもの席に座り、シェスターは物憂い目で、手元の報告書を見つめていた。
『……もし、この研究が完成してしまえば』
 いつもそれを恐れていた。
 そして、もし、という仮定は通じなくなった。理論上はすでに完成しているのだ。

 全くの無から生き物を創り出すことなどできない。戦闘用モンスターは、生命交配を元とした魔法合成によって生み出されるものだが、そのほとんどは長年に渡る実験の末、偶発的に生まれてきたものだった。
 シェスターは、その偶然の要素が強かった交配合成の仕組みを解き明かした。
 過去の臨床結果を丹念に調べ上げて、どんな生物をどう組み合わせれば、どのような合成生物が生まれるかの、傾向、条件、分岐点その他諸々を理論化して提示したのだ。
 内容的には技術転用可能なもので、求められている「最強の生き物」の製作方法も、一緒に記してある。
 最高の物が欲しいのなら、その基盤となる素材も高品質のものが求められる。どれだけのものがどれくらい必要か、その基準値と、合成条件を一緒に示した。
 そこにシェスターは、密かな抵抗の声を混ぜた。
 この設計条件を満たせる素材は――それこそ死竜の洞窟の奥に眠るという、邪竜エルアザル級の生き物でも持ってこない限りは――今の世界のどこを探しても存在しない。
 この世にはない究極の生物を生み出すことなど、所詮は人の手に余る仕事なのだ。
 これで製作を諦めるとは思えないが、少なくとも限界は見えてくるはずだ。


「研究も大詰めだな」

 ぼんやりとしていたシェスターに、ケウィンが気さくな声をかけてきた。
 とたんにシェスターは警戒を強める。もともと人付き合いが苦手な方で、他人の前でうち解けた姿をさらすことは少ないが、それを差し引いても、彼は好きにはなれなかった。
 そんなシェスターの心情は察しているだろうに、ケウィンは気にした風もなく、隣に腰掛け、世間話をするように語り出した。

「昔、うちの隣に、宗派はよくわからなかったが、神官の爺さんが住んでいてさ。もう神官は辞めちまってたんだが、暇だったんだろうな。近所のガキを集めて、かびくさい昔話を、頼みもしないのに聞かせてくれてな」

 シェスターは怪訝な顔を同僚に向ける。
 ケウィンは、懐かしい思い出話を語る調子で続けた。

「その爺さんが語ってくれた中に、一つ面白い物があった。月神セリューンが飼ってる、グフトクっていう化け物の話さ。巨大な目に、ばかでかい口、それとは対照的に手足は驚くほど小さいんだそうだ。我欲の象徴なんだとさ」

 巨大な目は、目に映るすべてを欲する心。
 巨大な口は飽くなき望みに突き動かされ、常に飢えと乾きを抱いている。
 けれど卑小な手足では、それらを満たすだけの手段がない――。

 戸惑うシェスターに、ケウィンが冷淡な笑みを浮かべる。
「頭の中であれこれくだらないことを考えて、身の程を超えた物を夢中で追い求める。研究者の業だよな。あんた、澄まして自分は関係ないって顔してるけど、人間の欲も探求心も甘く見ないほうがいいぜ」
 ぴらりと机の上に乗っていた報告書を指先ではじいて、ケウィンは続けた。
「可哀相に、コーラルドが必死になって、『足りない物を埋める手段』を得るために奔走してたぜ」

 シェスターが凍り付く。
 もともとシェスターは合成生物が人の命令を聞くための、精神構造、あるいは精神操作の方を担当していた。その過程で魔法合成の原理そのものを解明するに至った。
 そしてコーラルドは、生命交配を元とした生命体の開発を受け持っていた。

「あのお坊ちゃん、ここ数日寝てないみたいだぜ。おおよそ手に入る生き物はすべて使って、その結果は芳しくないって出ているからな」

 研究室の扉が開いて、布のかけられた大きな木箱が運び込まれてきた。
 シェスターが顔を上げ、木箱を運び込んできた人物の中に、話題のコーラルドの姿を見つける。
 目が合うと、彼は一瞬殺気だった光を目に浮かべ、次に、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
 シェスターの背で、ケウィンが続けた。

「原材料となるべき生物じゃなくて、触媒的な働きをする何かを付け加えるってのが、コーラルドの出した答えだそうだ」

 木箱が床におろされる。箱の中身がぶつかり合って、乾いた音が響き、被さっていた布が滑り落ちた。
 箱の中には、白っぽい骨のような塊がぎっしりと詰め込まれていた。
 天を指し示す、槍のような鋭利でなめらかな形状――細い角。

 シェスターの顔から血の気が引いた。押さえた口元からは、声にならないあえぎのようなものしか出すことができなかった。
 コーンスの角には、魔力を増幅させる力があるという。
 だが角は彼らの命だ。折られれば命を落とす。
 吐き気にも似た嫌悪感と焼け付くような恐怖に襲われて、シェスターは席を立ち上がると、半ば逃げるように、部屋を出て行く。
 そんな彼女の後ろ姿を、二人の男は、探るような目で、見送っていた。



 おそらく二桁ではきかない、おびただしい量の細い象牙色の角は、たしかに骨だった。これから築かれる骨の山の一角。
 その無情に乾いた白さがまぶたに焼き付き、ふらつく足取りで部屋に戻ってきたシェスターは、扉を閉めると、そのまま床に座り込んでしまった。
 自身の手で震える肩を抱いて、救いを求めるように、窓辺を見る。
 窓辺には寝台が据えられ、その脇には小さな机が置いてある。机の上の鳥かごの中では、黒い蝶が、ふわりと軽く、舞っていた。
 その姿を見たとたん、瞳に涙がにじんだ。
 立ち上がると、シェスターは籠に近づいた。こんな小さな空間で飼われる蝶は、自由を奪われた哀れな囚人にすぎない。ただ悪戯に苦しめているだけだ。逃がしてやるか、さもなくば――。

 鳥かごの隣には、開封された手紙がたたんでおいてあった。弟からの手紙だった。
 手紙のやりとりは自由だった。もちろん中身は調べられているから、真実は書けない。ただ互いの生存確認がとれるだけだが、それだけでも、シェスターにはわずかな慰めになった。
 わずかな慰め。そんなものが、いったい何の役に立つというのだろう。
 助けを求めることはできなかった。いつか終わることだと言い聞かせて……だが、ようやく自分のやっていることがどういう事なのか、はっきりとした形を持って、シェスターに迫った。
 手紙の隣には紙切り用のナイフが置いてある。銀色の小さな刃が、冷たい光を放って、シェスターの目を引いた。
 気づけば指が、そのナイフをつかんでいた。

2007-03-23