1日目 

『オルファウスさんのところで、紅茶をご馳走になってきます』

 そう書き置きを残してルシカが出かけたのは、今朝のことだった。
 本当は昨日「セラも一緒に行こうよー」と誘われたのだが、「なんでわざわざあの賢者の顔を見ながら、茶など飲まねばならん」と一蹴し、エンシャントで待機を言い張ったのだ。
 たまには一日くらい、子守を休ませろ。
 セラの内心の声が、ルシカに届いたのか届かなかったのかさだかではないが、セラのきっぱりとした態度に、ルシカは不承不承うなずきつつ、せっかくオルファウスさん特製ブレンドティ新作お披露目会なのにセラのバカ、と不満そうに呟いていた。相変わらずミイスの妹は、八方美人で、ちょっとばかり生意気だった。

 まあ、多少生意気でも、元気に育ってるなら良いことなのだろう。
 ルシカを見送ったところで、そんなことを思ってしまい、なぜ俺がそこまであいつの面倒をみなければならんと頭を振り、たまには一人旅の頃のように、エンシャントで気楽な一泊を過ごそうとセラは心に決めていた。
 だが、その日の夕暮れ、とりあえず食事でもするか、と酒場に足を向けたところで、その望みは裏切られた。

(セラ! 緊急事態なんだ。今すぐ……)
(ルシカが大変なことになってるよ!)
(ちょっと困ったことになってしまって。すぐに猫屋敷に来て頂けますか?)

 腰に忍ばせておいた転送機の受信子機から仲間たちの騒ぐ声――ルシカにくっついていった、ルシカ以上にお調子者のレルラ・クリスピーと、友達思いなのか寂しがり屋なのか、妙に付き合いの良いナッジの声――そしてオルファウスの声が響いてきた。
 と思った瞬間、有無を言わさず、空間を飛び越え、強制召還されていた。
 さすがに二度目であれば、突如自分が猫屋敷の転送機の光の中に立っていても、目の前に怪しい猫賢者が居ても驚きは最小限ですんだ。
 ので、開口一番、セラの口から文句が飛び出していた。

「貴様! 今度呼ぶときは、了解をとってからにするとか言ってなかったか」
「ちゃんと声はかけたじゃないですか」
 過去に一度、転送機の使い方を説明するためとか何とかで、こちらの都合などお構いなしに勝手に呼び出された時のことを引き合いに出し、セラは文句を言ったが、オルファウスは悪びれずに答えた。
「それどころじゃないんだよ、セラ! ほら!!」

 それとは何だと不機嫌な顔つきで、声をかけてきたナッジの方を向いたセラの前に、ナッジが抱えていた白い物体をつきだした。
 にゃあ。とその白い物体は鳴いた。
 もぞもぞと丸まっていた身体が伸びる。正体は、まっしろな、毛並みの良い、小柄な猫だった。

「猫がどうした」
「ルシカが……」
 にゃあ。猫はナッジの手から飛び降りると、セラの足下にすり寄ってくる。
「ルシカが猫に……!!」



 * * * 



「うちのバカ猫がいけなかったのですが」

 オルファウスの言葉に、一瞬足もとに居る白猫のことかと混乱したが、すぐにセラは、オルファウスの言うバカ猫が、縄模様の喋る猫ネモのことをさしているのだと気付く。

「お茶の最中のことです。ネモがルシカさんの荷物から、禁断の聖杯をこっそりと抜き取りましてね」

 そうだ。忘れていたが、あのブサイク猫は、元は魔人なのだ。
 元の姿に戻ろうと画策して、ゴブゴブ団をそそのかし、ロストールから禁断の聖杯を盗ませた。けれどそのまま持ち逃げされ、そこにアーギルシャイアも絡んで、事態は更に混迷を極める。
 街道を追いかけまわしているうちに、虹色の山脈でさりげなく遭遇し、ゴブリンどもは悟りをひらき、聖杯は一時ルシカの手に託された。

 しかしすぐさまアーギルシャイアに襲撃され、聖杯は奪われた。
 今度は魔人と仮面と聖杯を追いかけて隠れ家としていた海辺の洞窟に突入し、なんとか姉と親友と忘却の仮面は取り返した。だが肝心の聖杯は行方不明。誰が持ち出したのか判明したのは、しぶきの群島に上陸した時のことだった。
 うっとりと凶悪な合成生物に語りかけていたアンティノを発見し、結局始末することになったエクリプスは、果たして究極の魔生物だったのか、あと一歩の未完成品だったのか。

 ……ともかく、人外含んで様々な者たちの願望の間を転々としていた聖杯は、旅路の末にようやく手に入れた品だった。
 と経緯が長かったので、当初の飼い猫もどきのささやかな野望など、もはや忘れ去っていた。

「禁断の聖杯の力が解放されそうになりまして。といっても結界内のことだったので、ネモが魔人の姿を取り戻すのは失敗したのですが、どうも魔人の力と、神器の力が合わさって、暴発してしまったようで。その影響で」

 オルファウスと、ナッジ、レルラ、そしてセラの視線が、床に落とされる。
 視線の先には、男どもの視線など、知ったこっちゃないといった感じで、ちょこんと床に座り、前足で一生懸命に顔をあらう白猫がいる。

「…………ルシカが、猫に?」
「はい」

 重々しいセラの問いかけに、オルファウスはあっさりうなずいた。
 再びセラが視線を床に落とす。
 猫は、きゅっと前足をそろえて、ぐうっと身体を低く伸ばし、ふわあっと大あくびをしていた。そこにいる白猫は――どこからどう見ても、まごうことなき白猫以外の何者でもなかった。
 セラは顔を上げ、目の前の顔ぶれを見渡して、声にかすかな怒りを込めて言った。

「貴様ら、俺をからかっているだろう」
「本当なんだってば! 相変わらず疑り深いなあ~、セラは」
「僕たちだって最初は信じられなかったけど、でも間違いなくルシカなんだ。ほら」

 レルラが呆れたように言い、ナッジの声に促されてセラも足下を見る。
 白猫はなぜか、セラの足もとにすり寄って、にゃあにゃあ鳴いている。さっと足を振って追い払おうとしたが、懲りる様子もなく、うろうろとセラの足もとを嗅ぎ回り、額をこすりつける。
 真剣な口調でナッジがセラに言った。

「やっぱりルシカだろ? 怯えもせず、セラに懐いているじゃないか」
「…………」

 じっと見ていると、何か感じることがあったのか、猫も立ち止まり、瞬きもせずセラを見上げる。
 見上げる猫の瞳は、ルシカと同じく空のような青い瞳だ。それからおもむろに、にゃにゃにゃにゃにゃと言葉を話すかのように、鳴きだした。

(ねえセラねえセラ、セラってば! 気付いたらあたし、こんなことになってたんだけど!)

 と話すルシカの声の幻聴が聞こえた――ような気がした。
 幸か不幸か、ルシカとの旅でセラも鍛えられていた。ありえないような事態に遭遇することには慣れていた。むしろ、ありえないような事態が、日常茶飯事だったと言ってもよい。
 セラは行儀良く据わったままこちらを見あげている猫を見下ろし、馬鹿馬鹿しいと思いつつも、試しに素っ気なく問いかけてみた。

「アーギルシャイアを覚えているか?」

 とたんに闘争本能に火がついたのか、白猫は急に四肢の爪を立てると、全身の毛を逆立てて、シャーッ、フー!と威嚇のうなり声を上げ始めた。
 宿敵だと身体で訴えている。

「……ロイはどうだ?」

 半分めまいに似た感覚を覚えつつ、今度はミイスの兄の名を出してみると、猫は小首をかしげるようにし、最初は甘えた声で、にゃーん、にゃにゃにゃ、と鳴いていたが、ふいっと立つとあとはもう知らんぷりといった風情で、すました顔で歩いている。

(お兄ちゃん? 強いし優しいし好きだけど……でもなんか戻ってきたら、すっかり人が変わっちゃって。今はセラのお姉さんにめろめろなんだもん。知らないよ!)

 と態度から読めた。8割セラの想像だが、たぶん翻訳は間違ってないはずだ。
 本当にルシカだと認めざるをえないようだ。頭痛をこらえるように、こめかみを押さえたセラを見て、レルラが面白がるように言った。

「納得した?」
「面倒なことになったのは、よく分かった。だとしたら答えは簡単だ。早く元に戻せ!!」

 セラはひょいと白猫をつまんでオルファウスに突きだした。
 白猫は宙吊りにされたまま、喜んでいるのかおびえているのか、ともかく「にゃにゃーにゃ!!」と高い声を上げて喚いている。
 オルファウスは、宙吊りにされた白猫のルシカを申し訳なさそうに見つめ、セラに向かって困ったように告げた。

「戻してあげたいのはやまやまなんですが、今すぐ、というわけにはいかないんですよ」
「何をもったいぶっている」
「そうではありませんよ」

 オルファウスは腕組みをして教えるように言った。

「今回の場合は事故として、偶発的に起こってしまったことなのですが、本来、ソウルを他の生き物に移す、ということは大変なことなんです。あるべき身体から魂を切り離して、別の身体に移すことになるのですから。一歩間違えば、そのまま消滅してしまうこともありえます。特に今は、生きている猫が相手なので、切り離す作業が簡単にはいかないんです」
「生きている猫?」

 セラが怪訝そうに問うと、オルファウスが頷いた。

「ルシカさんが空となった猫の身体を『借りている』わけではなく、生きて動いていた猫にルシカさんのソウルが、事故で『混ざってしまった』状態なんです。
 滅多にないことですが例がないわけでもありません。そうですね……昔語りの中で、眠っている間に魂が抜け出して、野生の獣の身体を借りて野山を駆けめぐる、といった類の話などに残っている事例がそうですね。まだ太古の時代、神々と精霊がこの世に満ちていたころには、ごく当たり前に起こっていたことのようです。もちろん今ではほとんど聞くことはありませんが。
 ただルシカさんは無限のソウルの持ち主です。今回は闇の神器の力も加わったようですし、何らかの作用で、意図していなかった無意識の乗り移りが発生してしまったようです」

 セラの耳には、賢者の説明はひどく抽象的なものに聞こえた。
 だが床に降ろされ、ナッジやレルラの差し出した手や指先をおもちゃ代わりに遊んでいる白猫の無邪気な姿と、魔人ネモや白猫オルファウスを引き比べ、セラにも一つ思い当たったことがあった。

「だからこの白猫は、喋れないのか?」
「ええ。おそらく」

 ここに住んでいたネモや、一時的に猫になっていたオルファウスは、猫になっても流暢に人語を操るし、仕草や動きを見る限り、普通の猫とは存在そのものが違っていた。猫の姿こそしていたが、中身は猫ではない。それが傍目にも分かるような明確な違いがあった。
 だがルシカの場合は、見事なまでに、猫。
 この猫が、いつもセラの傍らで笑ってあれこれ話すあの娘と同じ調子で、「大変なことになっちゃったの!」と自分でしゃりしゃり語り始めたら、さしものセラもただごとじゃないと、すぐに信じただろう。
 そこで、喋る猫のことを思い出して、セラは尋ねた。

「そういえば、元凶の猫の魔人――いや魔人の猫なのか、の方はどうした?」
 レルラはわざとらしく口笛を吹いた。ナッジは凍り付いてしまった子供のように口をつぐんだ。
 オルファウスは、ゆったりと、責任をかみしめるような口調で言った。
「こんな大変なことをしでかしてくれたのですからね、相応のお仕置きはしておきました。今頃はきっと床下にでも潜って反省している頃でしょう。ふふふ」

 賢者がこの口調で語るからには、ネモは落とし前をつけさせられたのだろう。うっかり黒こげにされた、くらいでは済まないのかもしれない。自業自得と言ってしまえばそれまでだが、相手と状況が悪かったために、思いもよらない報復を受ける羽目になったのだと思えば、あの魔人は魔人で災難だったと思わなくもない。
 セラにしては珍しく、同情めいた気持ちがわいたのは、彼は彼で、一番始めの賢者の出会いが似たようなものだったからだ。
 しかし、今は足もとの白猫のことが先決だ。
 セラの表情を読んだように、オルファウスは告げた。

「もちろん私のほうも、このまま放っておいたりはしませんよ。少し時間をください。ルシカさんを元に戻す方法を考えてみます」
「わかった。じゃあ元に戻ったら、引き取りに来る」

 賢者がこう言うのだ。自分にできることなど、何もない。
 ものの一秒で判断を下し、きびすを返しかけたセラだったが、猫ルシカがとととっとセラの前に回り込み、みゃーみゃー何か訴え始めた。
 猫は猫で、敏感にセラがこのまま居なくなると察したらしい。
 ルシカが移っているから器用なのか、元からそういう器用な猫だったのか、さっと二本足立ちになると、セラの脚に前足ですがって、引き留める。

(どこ行くのー! 置いてかないでよ。あたしも連れてってよ)

 ……なぜそんな声で鳴き、そんな目で俺を見る!
 人相手ならばふりほどくなり、素っ気なく事実を告げるなりできるが、猫相手ではそうもいかない。
 蹴飛ばすわけにもいかず、怒鳴りつけたところで猫に分かるとも思えず、勝手が違い、ついついセラは足をとめてしまった。
 ナッジは床にしゃがみ込むと、鳴いてる猫の背中をそっと撫でてやりながら、セラに向かって告げた。

「ねえセラ。置いていくなんて、可哀相じゃないかな? たぶん猫になってルシカも不安なんだよ。きっと」

 白猫は同意と御礼を言うように、ナッジに向かって一声鳴いた。
 それから再びセラに向かって訴える。哀切を帯びたように聞こえなくもない鳴き声だったが、あの娘の見かけにだまされてはいけないことを、セラは誰よりもよく知っていた。
 人恋しくて泣くような可愛げがあるようには、思えなかった。
 おそらく、不安で傍にいて欲しいのではない。一人ぽつんと置いて行かれるのが、気にくわないのだ。

「今のこいつはただの猫だ。仕方ない」
「でもさ。どっちにしろルシカがいなかったら、ぼくたちだって冒険に出ることできないし、連れて行っても同じじゃないかなあ?」
「ふざけるな。飼い猫つれて冒険などできるか」
「やってたじゃないですか。私は邪竜の断層につれていってもらいましたよ」
「貴様は猫の身体を借りてただけだろう。一緒にするな」
「まあ、そうですけど」

 不機嫌なセラの言葉を気にすることもなく、そうですねえ、とオルファウスは考えながら言った。

「それほど日数はかからないと思います。またこちらに来ていただくのも不便でしょうし、ルシカさんの様子も気になるでしょう。
 ルシカさんが元の姿に戻るまで、ここに滞在してはどうですか。それほど広い屋敷ではありませんが、空いている部屋はありますよ」
「貴様、何の気まぐれだ。日数など関係ないはずだ! 来たときは一瞬だった。送る時だって一瞬で済む」

 オルファウスの思いもよらない提案に、セラは即座に隣室の転送機を指さした。
 だが、オルファウスは鉄壁の賢者スマイルで足下のルシカを見つめている。
 レルラとナッジが、良かったねーと猫に向かって語りかけている。
 白猫が嬉しそうに、勝利の鳴き声をあげた。
 その場にいる誰もが、セラのことなど無視して話を進めていた。暗黙の多数決に、勝ち目はなさそうだった。

「セラ。猫のルシカさんの面倒を見てあげてくださいね。どうもルシカさんは、あなたがいないと寂しいようですよ」
 オルファウスは、にこやかにセラにとどめをさした。


* * *


 というわけで、セラたちは猫屋敷にしばらく滞在することになった。
 オルファウスに案内されたのは、屋敷の奥の一間だった。
 手元の燭台から火が移され、チェストの上と寝台の枕元に置かれているランプが、相互作用で部屋を照らす。柔らかな橙の光が、窓の外にかすかに残る夕暮れの色と相まって、部屋の輪郭を穏やかに浮かび上がらせた。

「よその家って、こんな感じなのかな。なんだか、不思議な感じがする」
「ナッジは一人暮らしだったんだっけ」
「うん。おじいちゃんが亡くなってからは、木の上の小屋でね。だからこういう、一つの家にみんなが集まって暮らしていて、でもちゃんと個室もあるのって、実は憧れだったりするんだ」
「良い部屋だね」

 小綺麗に整えられた部屋は、がっしりとした樫材で造られた大型のベッドが一台部屋の奥に据えられ、チェストが二台並べて壁際に置かれている。広々と空いている床には瀟洒な織物が敷かれていた。天井も余裕をもってとられているようだった。今回猫屋敷宿泊メンバーの中で、一番背が高いのはセラだったが、そのセラが腕を真上に伸ばしても、まだ十分な余裕があった。
 屋敷は外観からみた印象よりも大きめの造りとなっているらしい。考えてみれば、転送機などという、大型の魔道装置が置いてあるくらいなのだ。それにナッジも言っていたが、賢者の一人暮らしというわけではない――家族住まい、なのだ。

 普段利用する宿は、ごく希に個室をとることもあるが、大抵はパーティの平均人数である四人分のベッドが置かれた宿泊室だ。広さとしてはその部屋と同じくらいだろうか。だがベッド四つ押し込めた圧迫感と比べたら、雲泥の差があった。
 安宿の寝台だと、胴回りの広いドワーフ族や筋骨隆々のボルダン族などが、窮屈そうに身体を縮こまらせて寝ていることもあるが、この部屋の寝台なら彼らも悠々と手足を伸ばして眠れそうだ。セラくらいの体格の一般成年なら、詰めれば二人くらいは横になれるかもしれない。だからといって、誰かと共寝などする気はないが。

 ――この部屋の造りと、この雰囲気。
 ふと閃いたものがあり、セラが尋ねてみると予想通りの返答だった。
 賢者曰く、この部屋は、英雄ネメアが『幼少のみぎりから図体の大きくなるまで』使っていた部屋だそうだ。

「へえ! じゃあ、ここ、獅子帝ネメアの、子ども時代の部屋かあ! もしかしたらぼくたち、すごく貴重な経験してるかもね」
「顔を合わせづらいのか、他に良い宿でもできたのか分かりませんが、あの子がここに泊まっていくことは今は数えるほどしかありませんからね。ただ空けておくのも勿体ないですし、時々お客様がやってきたときにも使わせてもらっているんです」
「選ばれたものしか入れないはずの猫屋敷に、客など来るのか?」

 セラの問いかけに、オルファウスはゆったりと微笑んだ。

「今こうして、あなたたちがいるじゃありませんか。案外お客様は多いんですよ。
 運命の女神はイタズラ好きですからね。長い年月の間には突発的な出会いというのは何度かあるものなので、こうして使えるようにしてあるんです」 

 とりあえず今日はここでゆっくり休んでください、と言って、オルファウスは部屋を出て行った。
 この屋敷は何度も訪れているが、寝泊まりをしたことはなかった。特にセラは、長居をしたい場所でもないので、用件が終われば、さっさと帰るようにしていた。
 服や食べ物などには、それなりにこだわりや好みのあるセラだったが、住居に関しては特別な思いは持っていなかった。使うのに支障がない程度に手入れがされていて、病気にならない程度に清潔が保たれていれば良い、くらいだ。
 そもそも住まいを選べるような人生に縁がなかったのだ。
 だからなのか、この部屋の雰囲気は――どこか落ち着かない。

 チェストにしても、ベッドにしても、ただ置いてあるだけなのに、それらからどことなく濃やかな息づかいと落ち着きが感じられる。長年大切に使い込まれてきたであろう滑らかな摩耗による艶と、その都度手入れを施されてきた手細工の風合い。
 そこにあるのは蓄積された時間だ。
 よその家に憧れがある、とナッジは言ったが、セラは逆だった。馴染みがないからこそ、関心を向けることもなかった。だが。

『ねえセラ。オルファウスさんのところで、美味しい紅茶が飲めるんだよ。一緒に行こうよ』

 ルシカ――猫の方ではなく人間の方だ――の声が、脳裏に響いた。 
 彼女が足繁く猫屋敷を訪れるのは、自分とは逆の理由なのかもしれない。
 結界に閉ざされ、一握りの人間しか立ち入ることのできない森の奥。そこの小さな村で、ひっそりと隠れ住むようにして暮らしていた親友の妹。
 ちらりと足下の白猫を見る。
 もちろん白猫は、セラの思いなど露も感じていないようで、両前足を揃えてかがみ込み、しゃらしゃらとしっぽを揺らしていた。




 とりあえず、セラたちは、現在は三人(プラス猫一匹)だ。
 就寝時一人は部屋にあるベッドを使うとして、残り二人は、床に雑魚寝となる。賢者は二人分の寝具も別に差し入れてくれたが、問題は誰が一台だけあるベッドを使うかだった。だが意外と話し合いはすんなり進み、かの英雄の寝台は――セラが使うことになった。
 英雄ネメアのベッドなんて恐れ多くて落ち着かないよ、とナッジは辞退し、小柄なレルラがこの立派なベッドを一つ専有するのは面積的に勿体ないということで話が落ち着いたのだ。もちろんセラにも異存はなかった。もともと一人で過ごそうと思っていたのだ。せめて寝床くらい、贅沢を許されてもいいだろう。
 しかし、これに意義を唱えたものが一人……いや一匹いた。

「ルシカの籠はどこに置く?」

 レルラの声に、猫ルシカは、ぴんっと首をあげた。
 賢者はルシカにも、猫用の籐籠を差し入れてくれた。「当分戻って来れないでしょうから気にせずに使ってください」という、さりげなくも恐ろしい台詞と共に渡された籠は、本来はネモの寝床だったものだ。オルファウスのお仕置きが効いているのか、セラは猫屋敷に来て以来、一度もネモの姿を見ていなかった。とりあえずルシカが人間の姿に戻るまで、姿を見ることはないような気がする。

 しかし猫ルシカは、用意された籐籠より、人間に用意された寝床の方に興味があるようだった。
 首を捻り、その先にある英雄のベッドをじっと見つめていたが、セラの足元から抜け出すと、ひょいと身軽にベッドに飛び乗った。うろうろと鼻先で嗅ぎ回りながら、シーツの上を歩き回る。掛け布団の感触を楽しむように、ころんと横になったかと思うと、するりと起きあがり、白い尾をひょこひょこ揺らしながら、鼻先を寝台に押しつけて歩いていた。
 あまりにも猫なその姿を、ついついセラは、目で追ってしまった。
 綺麗な彫り物の施されたヘッドボードの前にたどり着くと、ルシカはおもむろに、そこにあった枕の上に、沈み込むように丸くなった。

「にゃにゃ! にゃんにゃにゃにゃん!」
(あたし、ここがいいー!!)

 ルシカの人にならざる声は、三人にはっきりと伝わった。 

「……どうするセラ? ベッド、ルシカに譲る?」
「普通だったら、女の子に譲るのが当然だとは思うけど、せっかくオルファウスさんが専用の寝床を用意してくれたわけだし」
「用意っていうか、これ、横取りだけどね」

 籠を手にレルラとナッジは相談しているが、当然セラはそれを無視した。
 問答無用で白猫を持ち上げると、ぽんっとレルラの持っている籐籠へと放り込む。

「ふざけるな。お前なんぞ籠で十分だ」

 途端にルシカは猛抗議の鳴き声を上げ、籠の外へ飛び出ようとして、ナッジが慌ててルシカを抱き上げる。その間にレルラが、籠を寝台の枕元の隅におき、籠の中に枕をいれ、ルシカに見せた。

「これでどうかな?」

 ルシカは、まだちょっと不満そうだったが、周囲の気配を察したのか、ナッジの手を抜け出すと、今度は渋々籠の中に留まった。

(英雄のベッドで寝てみたかったのに! セラのけち)


* * *



 こうして突然の猫化事件の一日目が終わった。
 ルシカが楽しみにしていただけあって、さすがに賢者の煎れた特性の香草を配合した紅茶は薫り高く、裏の菜園で採れた野菜を使った家庭料理は簡素な調理法ながら味も良かった。
 だが半ば混乱状態の中にあったセラは、勿体ないことに十分に味を堪能できる精神状態ではなかった。
 うまい、という大ざっぱな感想で夕食を終え、セラはとりあえず寝台の前でルシカの落とした毛をきちんと払い落とし、ついでに居間から借りてきたクッションを枕代わりにすると、寝床についた。
 元気いっぱいの猫ルシカも、人間たちが寝支度をするのをみて思うところがあったのか、昼間の騒ぎが嘘のように、置かれた籠の中で静かに丸くなった。