4日目(完)
これで猫のルシカも見納めだ、という賢者の言葉があったから、というわけではない。
その晩セラは妙な夢を見た――今度は自分の夢だ。薄膜を通したような感覚ながら、夢を見ているという自覚はあった。
森の中で猫の鳴き声がする。
それに被さるように、ぱちぱちと火の爆ぜる音がする。森の奥は、火の粉が舞い、炎に照らされて夕闇のように明るい朱色に輝いている。炎の影が踊るたびに、ちらちらと光と闇が瞬く森の中を、セラは一人歩いている。
焦燥感がある一方で、この先の出来事を知っている安心感にも似た確信から、迷いも速めもせずに歩を進める。
続く深緑の木々の隙間に、石造りの塔の先端が見えてきた辺りから、炎は徐々に弱まっていく。ざくざくとセラが歩くたびに、炎は鎮まっていき、周囲の色もまた沈静していく。
村の入り口に着いた頃には、周囲を取り巻いていた朱い火は消え、黒く煤けた焼け跡へ変わっていた。
森で見かけた塔に向かうと、そこには長い黒髪の女の後ろ姿があった。
どきりとして足が止まったのは、どちらだ?というためらいが生じたからだ。だが振り返った瞳の色は、自分と同じ色だった。慣れ親しんだ姉の姿にセラは安堵したが、姉は悲しそうな顔でセラに告げる。
「埋めてあげたの」
姉の足下の黒い土が、少しだけ小高く盛り上がっている。姉は動物が好きだった。死んだ猫でも埋めたのか。
――――本当は、埋めたのは猫ではない、と知っている自分もいた。
土を掘る感触も、その跡をどこか寒々しいような思いで眺めていた記憶も、覚えがある。
だが、とりあえず今この時は猫だと思うことにした。
と、姉の姿が、一匹の白猫に変わった。
姉は猫に変わったが、セラはそれが姉ではないと分かる。別の誰か、この隠れ里の生き残りだ、と思う。
その途端放っておくことができなくなり、セラはその猫をつれていくことにする。
つれていく利点は、ほとんどない。
つれて歩けば当然面倒を見る必要があるし、戦闘などでは足手まといになる。下手をすればそのせいで自分の身が窮地に陥ることもあるかもしれない。自分の身一つのほうが何事にも身軽なのだ。
それでもセラは、自分に不利益になるかもしれない事柄も含め「仕方あるまい」と受け止めていた。
誰かを――何かを、つれて歩くというのは、そういうことだ。
セラの思いが分かっているのか、その白猫はセラに懐いた。
セラにとって、動物に好かれるのは予想外であり、その反応は予測できないものでもあった。
最初は足にじゃれつき、時々話しかけるように鳴く。
次第に当たり前の澄まし顔で、尻尾を揺らしてセラの隣を歩くようになった。
慣れてきた頃には、目を離せばいなくなっていることも増えた。
餌をもらうために必死にねだったくせに、セラに興味を失ったかのように自分勝手気ままに振る舞うこともある。甘えたがりと思ったが、実は案外気まぐれでわがままのようだ。
勝手に出歩くな。俺の言うことを聞け。
そう言いたいが、猫相手では仕方がない。
性格もあるのだろう、放っておこうと思いつつ、連れて歩いているので面倒を見なければならない。だから特別に構ってやることはないが、いつも目の端に捉えて歩いている。
白猫も気ままに振る舞うものの、セラから離れることはない。ある程度離れても、必ず戻ってくる。
時々白猫は先に走り出す――走るが、セラが後を追いかけてくるのを確かめるように立ち止まる。
あるいは。
一目散に走り出すのだが、その背中はちゃんとセラが追いかけてくることを分かっている。腹立たしいが何故かセラにはそれが分かる。悔しい一方でちゃんと追いかけてもやる。
猫に振り回される自分を、疑問に思ったりもする。だが、それも仕方ないことだろうと諦めている。
『連れていく』、一番最初にそう決めた時、振り回される覚悟もおそらくどこかでしていたのだ。
何せ相手は猫で、自分と違う生き物なのだ。自分の予想や思い通りに動くわけがない。
そんな白猫が、今度は緑の森を歩いている。セラはそれを追いかける。
あの賢者の屋敷に行くのか、と苦々しく思う。確かに明るい緑の森は賢者の森のようだ。だが違う。様相こそ初めて通ったときと異なるが、いつか見た石の塔が見えてくる。
白猫が奥に向かって走っていく。セラはその後を追う。
石造りの塔の入り口には、あのときと同じように姉がいた。
今度は姉はにこにこしている。その手には紐が握られていた。その紐は、一匹の犬の首輪に繋がれていた。
「見てセラ、可愛いでしょう?」
茶色い大型犬が、姉の隣で恭しく控えている。温厚そうで忍耐強そうなその瞳には、何があっても主人を守ろうとする忠実さと敬意が光っている。その姿、態度に何故か既視感がある。
…………ロイ、か?
セラは唐突に悟る。行方不明になっていた親友は、実は犬に姿を変え、自分の知らないところで、誰に正体を明かすこともなく姉を守っていたのだ。
そして今は自分の足下に戻ってきている白猫を見る。その正体にようやく気がつく。
そうか、お前はロイの妹か。
途端に白猫は、人間の姿に戻る。
青い髪をした、猫を思わせる大きめの瞳をした、気まぐれそうな一人の少女の姿に。
* * *
どういう心理状態で見た夢なのか自分で察することができるだけに、セラは起きて頭を抱えたくなった。
だが身体にかかる重みがあって動きを止めた。何かが自分に巻き付いている。
ほっそりとした白い二本の腕が、するりと身体に回されていた。
直に伝わってくる体温。それは昨日も感じたが、昨日と違うのは、それが猫ではなく人型だということだ。
…………。
目線を動かせば、青い髪が目に入った。
ぴったりと身体を密着させ、しがみつくような格好で眠っている見慣れた横顔が目に入る。
目を閉じて身じろぎしないせいか、顔の線がよく分かる。形の良い耳と唇が自分の胸元にある。ロイとも自分とも姉とも違う、清潔感ある可憐さと柔らかな繊細さが首筋のあたりから漂っている。
誰もが振り返るような大輪の輝きとは異なるが、目をとめずにはいられない、この年頃特有の壊れそうに透き通る美。
久しぶりに見たのと、じっくり眺める機会がないから忘れているが、こうして口を開かず大人しくしていれば、十分美少女で通してもよい外見ではあるのだ。いや違う、そうじゃない。
起きるなよ。
思った瞬間、まるでそれが合図だったかのように、ルシカがぱちりと目を開けた。
こんな時くらい勘が悪くてもいいだろうに、くいっと首を動かして、顔を上げる。
セラとルシカの目がまっすぐに合った。
「…………」
たぶん自分の方は、顔色も表情もそう変わっていないはずだ。不本意ながら、昨日一度経験済みなのと、ちょうど見た夢の延長で心の準備らしきものができていたからだろう。
だがルシカの方は、そうはいかなかった。
最初はセラの顔が認識できなかったようで、ぱちぱちぱち、と現実を確かめるように目を開け閉めしていた。
一呼吸分の間があって、理解の第一波が追いついたようだ。
ぱっと目を見開き、自分がどこにどういう状態でいるのかを理解した。
「!!! ……!? ――――!?」
耳の縁まで一気に赤くなり、ルシカの口から、意味不明の叫び声が漏れる。
その声に、ナッジとレルラが目を覚ます。
英雄の寝台の中の二人分の人影に気がつき、ナッジが声を上げた。
「あ、ルシカ! 元に戻ったんだね」
「え!? あ、あた、ああああたし……!?」
弁明するかのようにルシカが、シーツから顔だけ出して、ぱくぱくぱくと口を開ける。まだ思考に言語表現力が追いつかないようだ。
もぞもぞとシーツの中で騒いでいる少女の声を聞きながら、セラは思う。
――早く離れろ。
忍耐を試されているわけではなかろうが、現状理解が追いついていないルシカは、セラに回していた腕はほどいたものの、まだセラの身体にくっついたままだった。肌越しに声と吐息を相手の体温を感じる。自分が引きはがしても良いのだが、それをやったら認めて負けだという気がした。何を認めて負ける気がするのか定かではない。
「落ち着いてルシカ。ちゃんとセラは服着てるよ。大丈夫!」
「レルラ!?」
「あ。本当だ、あたしもだ」
力強くレルラが指摘し、その内容にナッジがぎょっとしてレルラを見た。一方ルシカはレルラの言葉で我に返ったらしく、身を起こした。ようやくのしかかっていた重りが外れ、自由になったセラは身を起こすと、さっさと寝台から下りる。
寝台の上に取り残されたルシカは、座り込んだまま、頭に疑問符を浮かべている。
「えっ、でも、な、何でセラと寝てるの?? というか、ここどこ?」
そこにノックの音がする。
ナッジがどうぞ、と声をかけると、扉の向こうにオルファウスの姿があった。腕には昨日までルシカが混ざっていた白猫を抱きかかえている。おそらく何が起こったか察したのだろう。
オルファウスは、人間の姿に戻ったルシカに微笑みかけた。
「お帰りなさい、ルシカさん。うちのネモが申し訳ありませんでした。
ここは私の屋敷の一室ですよ。魔人と闇の神器のせいで、あなたの魂が弾かれてしまったので、みなさんの手を借りて、呼び戻す手段を模索していたところです。無事に戻ってきてくれて何よりです」
「……そうなんですか?」
「ええ。この三日間ほどのことですが」
ルシカは賢者の言葉に、腕を組んで考え込んでいた。それから口を開いた。
「何か長い夢を、見ていた気がします」
「そうですか」
オルファウスは穏やかにルシカを見ている。
ルシカがどういう夢を見ていたのか、セラは分かるような気がした。それはもしかしたら自分も全く無関係ではないのかもしれない。
だが何がどうルシカの魂に影響を与えているかなど、確かめようのないことなので黙っている。
「とりあえず朝食の準備をしておきます。支度ができたらいらしてください」
「あ、ありがとうございます」
まだ状況が飲み込めてはいないだろうが、それでもルシカは慌てて寝台から下りる。どういう原理なのか不思議だが、服も身につけているし、ちゃんと腰に剣も下げていた。そういえばオルファウスも猫になったときも戻ったときも、衣類はそのままの状態だった。
首をひねりながら隣に立ったルシカを、改めて見下ろす。
セラの視線に気付いたルシカが、うながすようにセラを見上げた。
「本当にお前は、目を離すと騒ぎばかり起こす。自重しろ」
「あたしのせいじゃないよ」
それに、と出がけの台詞を思い出して、ルシカが唇を尖らせた。
「だからセラも一緒に行こうよー、って言ったじゃない」
「…………」
「何?」
「いや。あまり変わらんな」
「? 何が?」
当たり前のように、セラがついてくると思っている。
その無邪気で我が儘な自信が、昨日の夜まで自分にまとわりついていた白猫と重なって見えた。
「本当にお前は猫のように勝手だな」
「何それ?」
ルシカは猫じみた大きな瞳を不思議そうに瞬かせ、小首をかしげている。
そんな少女に気付かれぬように、セラは唇の端だけで笑みを浮かべた。
この3日間ずいぶん振り回された。気を抜けば、それも悪くなかったと思ってしまいそうな自分がいる。
予想外で、思い通りにならなくて、驚かせたりため息をつかせたりする。それでいて当たり前のような顔で隣にいる。かと思えば、全然自分の知らなかった顔を見せたりもする。
そんな相手に合わせるうちに、自分もまた、自分だけでは気がつかなかった自分自身を知るのだ。
猫の目のように変わる日々を送る――誰かと一緒に過ごすというのは、そういうことだ。
- 3日目
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