3日目 

 空間が歪み、黒く大きな影が現れた。
 瞬く間に重さをもつ実体となり、森の木立にも負けないほどの巨大な生き物の姿となる。小さな自分では、輪郭さえつかみ取れないほどだ。
 背筋を泡立たせる危機感が、それが今まで自分が出会ったことのない危険な化け物だということを知らせていた。

 顕現した歓喜なのか、怪物は咆吼した。身体の動きを確かめるように軽く前肢を振るう。頭上を覆っていた太い樹枝が折り取られて地面に落ちる。うるさげに頭を振れば、ぶつかった梢は茨となって降り落ちた。歩き回れば、足下の草木はおろか灌木さえも踏み壊され、バラバラに砕け散った。
 柔らかな草木の感触が心地よい緑の絨毯が、瞬く間に暴風に遭遇した荒れ地の様相となる。

 背筋を痛いような危機感が走り抜けた。逃げなければ。

 こういう時にはどうするかべきか、常にあった見本の姿を真似て、身を翻した。
 走りながら気がつく。自分の隣にいた姿が見えない。追いかけてくる気配もない。代わりに感じられるのは、鼻先に漂う微かな血の臭いだ。
 不安と焦燥感が心をあぶる。立ち止まりたい、振り返りたい。その一方で、そうしてはいけない、という恐怖と教えが足を進ませる。

 怪物が重い一撃を放つ。地面がえぐられ、大きく揺れた衝撃で、身体が飛ばされそうになる。地面を蹴って、もがくように走る。
 自分の後ろに続く足音はない。追いかけてこないということは、自分とはぐれたのか。あそこに残ったままなのか。それとも。

 どこに向かうおうとしているのかさえ分からなかった。
 闇雲に森を走り抜ける。見慣れぬ影が見えた。新たな敵なのか味方なのかも分からなかったが、輪郭がくっきりと浮かび上がって見えた。今この状況で、ここで出会った。その事柄に、引き寄せられるような引力を感じた。知らぬうちに、同じ場所を目指して歩いている自分がいた。
 そして追いつけば、白い光に包まれて――目をさました。


* * *


 セラはベッドの中で目を開けた。
 部屋の中は薄暗い。まだ夜は明けていないようだ。明日――いや時刻としては今日になるのだろう――に備えたわけではないが、昨夜は早めの就寝となった。
 休養をとれる時には、できるだけ深く眠る。野宿も当たり前の生活の中で、身に付いた習性だ。なのでセラはあまり夜中に目を覚ますようなことはないのだが、今は自分の胸元辺りに、もぞもぞと覚醒を促す何かがいる。
 ばっと布団をはいで身を起こすと、セラが寝ていたその隣に、白い塊が潜り込んでいた。

 ……お前、諦めてなかったのか。

 セラが起きたと同時に、ルシカも目を覚ましたようだ。青い目をひらき、丸まったまま首だけを上げて、にゃーとか細い声で鳴いた。
 眉根を寄せて、セラは腕を伸ばす。
 本来ならば、つまみ上げて籠に戻すところだが、今しがた見たものが気になった。
 そっと白猫の背中を撫でてやる。
 にゃー、とルシカが答えるように鳴いた。
 話せない相手に問いかけたところで、答えなど得られない。そう知りつつも、セラはぼそりと口にしていた。

「今のは、お前か?」

 この『お前』がルシカのことを指しているのか、元の白猫のことを指しているのか、セラ自身にも、うまく判別できなかった。
 そもそも今し方自分の見た映像が、この白猫から流れてきたものだと何故思ったのか。
 勘などは信じない人間のつもりだった。いや、だからこそ自分の手や肌に直接触れて伝わってきた感覚を信頼しているのかもしれなかった。
 白猫は、セラの手のひらに安心したのか、首を引いて丸くなり、撫でられるままになっている。

 ソウルというものは、自分が思っているほど、明確に定まってはいないのかもしれない。
 白い背を撫でながら、賢者の言葉や昨日の会話を思い返し、セラはぼんやりと考える。
 ましてや相手は、無限のソウルの持ち主なのだ。きっと自分などでは想定しきれない可能性を秘めているのだろう。いい加減慣れてきたつもりだが、それでも時々こうして振り回される。

「全くお前は、面倒事ばかり拾ってくる」

 セラの愛撫が心地良かったのか、白猫はその呟きを聞くこともなく、再び眠りについていた。



* * *

 

 朝の透明な光が、木の間を透かして降り注ぐ。
 緑が揺れる賢者の森を、セラ、ナッジ、レルラ、オルファウスは歩いていた。
 オルファウスのゆったりとしたローブの袖にくるまれるようにして抱き上げられているのは、白猫ルシカだ。
 白猫は一晩寝たら昨日の騒動は忘れ、理由の分からない気鬱は去ったらしく、元気を取り戻したようだ。外が気になるのか、首だけ動かしてきょろきょろと周囲を見渡している。

 それでも昨日の朝のように、気の向くまま勢いに任せて飛び出していかないのは、猫をしっかりと抱きかかえているのがオルファウスということもあるだろう。セラたち三人が相手の時よりも、心なしか大人しい。それだけの安心感があるのか、暴れてはいけない相手だと、猫になっても勘の良い頭で悟っているからなのか。

 基本的にセラはあまり気が合わない相手なのだが、ルシカはオルファウスに懐いているように見えた。なので以前尋ねてみた。

『お前は、そんなにあの賢者を信頼しているのか?』
『う~ん、信頼っていうか、頼りにしてるよ。旅の最初から手助けしてもらっているし、何でも知っているし。だから、ええと……味方でいてくれるなら逆らってはいけない人だと思うよ』

 ルシカはちょっと考えてから、こう答えた。
 おそらく『味方にいれば心強い人』と言いたかったのだろう。だが、中途半端に本音がまざったようだ。初遭遇時の出来事がよほど印象に残っているに違いない。

 オルファウスとの出会いは最悪だった。
 確かにミイスを出たばかりで気が立っていたとはいえ、魔人の仲間と疑い、いきなり斬りかかった自分に非はあるかもしれないが、森の賢者はセラの一撃をさらりとかわし、魔法で反撃して、不覚にも膝をついた相手に「これでも手加減したんですよ」とまで言い放った。こちらの早とちりに対して、技も言葉も念の入った仕返しをきっちりしてきたあたり、良い性格をしている。
 以来セラにとってオルファウスは『油断のならない相手』となったのだが、隣で見ていたルシカは『逆らってはいけない人』と学習したらしい。あのころからこの娘の要領と学習能力は高かった。

 そんな逆らってはいけない賢人オルファウスが、降り落ちる陽光を金の髪に浴びながら、誰にともなく口を開いた。

「奥の屋敷は猫屋敷と呼ばれています。その名の通り、猫の姿は多いのですが、どんな猫でも棲むというわけではないんですよ。意外かもしれませんが、野生の猫はあまり近づいてこない場所なんです」
「選ばれしものしかたどりつけない猫屋敷ってね。それは猫も同じってこと?」

 歌うようにレルラが尋ねると、オルファウスは笑った。

「そんなことはありませんよ。もともとあの結界は、私が半分隠居の身ということで外界と距離をおくために張ったもので、訪問者を選別したり、拒絶するためのものではないんです。縁があればたどり着ける。猫屋敷はその程度の場所のつもりでしたが、いつの間にか色々な噂が立っていましたねえ」

 オルファウスは軽く告げたが、その噂に大きく関与したのはネメアの存在だろう。
 死んだと思われていた邪眼帝の娘エスリンの遺児が、帝都エンシャントの目と鼻の先である賢者の森の奥で生き延び、養父を含む仲間を引き連れ、予言通りバロルを討った――。
 ネメアの命を繋ぎ、成長するまで秘匿し、魔王を討つ力を蓄えさせたのが、賢者の森に住むハイエルフの長が張っておいた人外級の強固な結界であったのは確かだ。もし賢者の屋敷の結界がなかったならば、確実にネメアはどこかで殺されていたはずだ。世に出ることもなかった。

 セラがつい考えてしまうのは、相棒のことがあるからだ。
 残念ながら、結界に守られていたはずの隠れ里ミイスは、結局魔人に見つかり、その手で焼き落とされたが。

 オルファウスは世間話のように続けた。

「野生の動物というのは、本来勘の鋭い生き物です。人の目には一続きの森のように見えても、通常とは異なる空間がある、ということは本能で分かるようです。
 うちにはネモもいますしね。あれは猫に見えても猫とは本質的に異なる生き物です。警戒心からでしょうが、普通の猫は、むしろ猫屋敷を避ける傾向にあるんですよ」
「じゃあ、猫屋敷に棲み着いている、あの野良猫たちは?」
「ご想像にお任せします」

 レルラの問いにオルファウスは意味深な言葉を返し、腕の中の白猫を見た。

「けれど、この白猫はごく普通の猫です。森から来たのでしょうが、普通の猫があてもなく猫屋敷に迷い込んでくることは、まずありません。結界もありますし、猫としての本能も働くはずです。
 逆に言えば、何か通常ではないことが起こったから、この猫は猫屋敷に来たのでしょうね」
「結界をわざわざ破ってまで?」

 ナッジが問いかけると、オルファウスは軽く首をかしげた。

「結界に関しては、ルシカさんの訪問で一時的に効力を失っていたかもしれません。同時に屋敷に来たと考えれば、この子とルシカさんのソウルが混ざったタイミングも合います」
「ぼくたちはいつも通り、結界なんて気にしないで、ルシカと一緒に猫屋敷に入ったけれど、そのとき潜り込んじゃったのかな」
「おそらく。ですから今回の出来事は、やはりルシカさんが無限のソウルの持ち主だったということも、一役買ってはいるんですよ」

 それだけが理由ではないだろう。今朝の夢。おそらくあれは――。

 セラは、そっとオルファウスの腕の中の白猫の様子をうかがう。
 白猫は首を伸ばすようにして、鼻先を前方に向けていた。心なしか、その表情が真剣なものに見える。一行が進むにつれ、その顔つきが少しずつ険しくなり、やがて小さな唸り声も混じり始めた。

「どうしたの? ルシカ」

 ナッジが様子の変わった白猫に気づいて、視線の先を追うように森の奥へと目を向けた。
 目の前には、いつもと変わらぬ様子で、緑の木々が続いているように見えた。だが風に揺れる葉擦れの音を敏感に聞き取って、レルラがぽつりと言った。

「鳥の鳴き声が聞こえないね」

 降り注ぐ光のように、当たり前に森の中で鳴き交わされていた鳥の囀りが、いつの間にか頭上から消えていた。さわさわと葉の揺れる音に混じって聞こえるのは、低く唸る猫の鳴き声だけだ。
 それまで明るく美しかった緑の森が、不意によそよそしく未知のものに感じられた。
 耳の良いレルラは風の吹いてくる方を探っていたが、背に抱えていた弓を下ろすと、腕に掲げるような、いつでも構えがきくような体勢に持ち換えた。その姿を合図に、朝の長閑な散策気分が、冒険時の緊張感へと切り替わる。

「この先に、鳥も息をひそめて逃げ出すようなものがいるみたいだね」
「大物の魔物かな?」
「たぶんね。来たときにはまっすぐ猫屋敷に向かったし、気がつかなかったなあ」
「でもルシカは賢者の森に出かけるときは、大抵ギルドに寄ってから来るよ。何か急を要する依頼が出ていたら困るって言って。そんな魔物がいるなら、捜索者救助願いや魔物退治の緊急依頼が出ていそうだけれど……」
「まだギルドも関知していないのだろうな。ごく最近現れたものだろう」

 ナッジの疑問にセラが答える。レルラがセラの方を向いて、問いかけてきた。

「どうするセラ? 無視してもいいけど、この先に進むんだったら襲われる可能性もあるよ」
「何故、俺に聞く」
「だってルシカ、今猫だもん。代理はセラかなと思って。ルシカの言葉も分かるみたいだしね」

 レルラの言葉にセラは苦い顔をしたが、判断を任せられ、オルファウスの腕の中の白猫を見た。
 まっすぐ前方をにらむその目が、青く爛々と輝いているように見える。
 行かなくちゃと白い猫の横顔は言っていた。見慣れた顔が、そこに重なって見えた。
 ――連れてきた当初は、世間知らずで、猫のように自分の後ろをついて歩いてきていた少女。

「こいつが行きたがっているのは、そこだろう。ならば行かざるをえまい」




 素早いリルビーの特質を生かして偵察役を任されることの多いレルラを先頭に、ナッジ、セラ、猫を抱きかかえているオルファウスという順で音のする方角へと進んでいく。
 奥に進むに連れ、パキっと乾いたような音が風に混じって聞こえ始めた。
 それが梢の折れる音だと気付いたときには、何か大型の生き物が動き回る足音と空気を振るわせる咆吼も感じ取れるようになっていた。

 警戒心を見せない踊るような足取りで、レルラが前を進む。後ろから見ると、レルラの二股になった赤い帽子が、木々の緑の中で陽気に咲いた花のように目立つ。その赤い帽子が、森の奥へと続く曲がり道で、ふいに低くなった。
 レルラは身をかがめて近くの灌木の茂みへと身を寄せ、こちらを振り返ると、口笛を吹くように小声で告げた。

 「うわぁお。すごいのがいるよ」

 ナッジとセラが、レルラとは反対側の大木の幹に身を寄せる。見ると、背に巨大な翼をもった四つ足の大型獣が、森の一番奥の大木の周りをうろついているのが目に入った。
 怪物が動き回るたびに屈強な翼や四肢が木々にぶつかり、乾いた悲鳴をあげて梢が折れる。折れた枝や梢は、地面に茂みのように折り重なって、足場と視界を悪くしていた。

「あれはマンティコアですね。魔法で生み出された強力な怪物ですよ。ご覧の通り、コウモリの翼に、獅子の身体、サソリの尾を持つ合成獣です」

 いつの間にかオルファウスが、ナッジとセラの背後にちょこんと控えていた。
 普段通りの暢気な口調だったが、腕を固く閉じ、今にも飛び出しそうにいきり立つ白猫を封じるように抱き留めている。

「闇属性かな?」
 ナッジが呟き、レルラと一緒にセラを見た。
「……何が言いたい」
「ルシカは今は猫だし、セラの月光も通じないんだったら、レルラと僕だけで戦うことになる。二人だけで大丈夫かな?」
「私もお手伝いしても良いですよ。でも安心してください。闇の魔物のように見えますが、マンティコアは無属性です。知能も高く魔法を使えるので、セラの月光はむしろ役に立つと言えるでしょう」
「良かった。それなら安心だね」

 オルファウスの言葉に、ナッジは胸をなで下ろした。
 悪気はないのだ。正直なところがトラブルを招くこともあるコーンスだが、本音を隠しもしないリルビーとハイエルフよりは人格的にはマシなはずだ。おそらく。
 仲間の失礼ながらも実際的な言動に、セラは無言を貫いていたが、月光を引き抜きながら、オルファウスに告げた。

「貴様の助けなど必要ない。その白猫が飛び出さないように捕まえておけ。傍でうろちょろされては邪魔でかなわん」

 くすくすとオルファウスは笑った。

「分かりました。では私はルシカさんと、みなさんの戦いを見物させてもらうことにします。
 一つ助言を。マンティコアは眠りの歌を使い、その尾には毒があります。お気をつけて」

 オルファウスの助言を聞きながら、セラは怪物の様子、大きさを目で捉える。
 突然の乱戦ではなく、こういった大型獣を相手にする場合、互いの足並みや連携が整うよう、いつもならルシカが作戦らしきものを立てるのだが、今回は猫で戦力外で見物だ。かわりにセラが段取りを簡単に指示する。

「あの大きさだ。一撃で仕留めるのは無理だろう。俺が斬りつける。怯んだら槍で動きを封じろ。弓は目でも喉でも狙いやすい箇所を狙え。終わらなかったら、次も同様だ」
「魔法は必要かな? 一応僕も攻撃と補助と、少しずつなら使えるけど……」
「いらん。魔法で生み出された怪物だそうだから、対して効かないだろう。眠りと毒にかかったら、自分か傍にいた奴が道具を使え」
「了解。動きが止まった後の方が狙いやすいから、ぼくは最後に出るよ。うまくやってね二人とも」

 フン、と鼻を鳴らし、レルラの言葉が終わらぬうちに、セラはその場を蹴って飛び出していた。
 背後でナッジが槍を構え、続く気配がする。レルラの足音は軽く、もともと気配を消すのも得意なので、離れたらもう感じられなくなっていた。

 一人旅の頃は、当たり前だが、全部自分で仕留めていた。
 セラは自身が剣士ということもあり、魔法に頼る戦法は選択肢にない。できるだけ無駄なく迅速に急所狙いで、戦闘は短く終わらせるのが流儀だった。
 それはルシカにも受け継がれている。彼女の場合は魔法という手段もとれるので、もう少し戦術の幅は広がるが、基本は同じだ。
 だから仲間と旅するようになった今でも、戦闘に違和感を覚えることは特にない。

 ミイスの村を出てから変わったことと言えば、戦闘の一番手はルシカが努める事が多くなった、ということくらいだ。
 それはセラがあえて、補助に回っているせいでもある。
 口に出して褒めはしないが、意外とあの娘の剣の筋は良い。通り名がついたあたりからは、セラの手助けも必要としなくなっていた。
 ただ時折、真っ直ぐすぎるというか、仕留め損なったら危ういなと感じる、反撃を考慮しない飛び込み方をすることがあるので、そのときにはセラが追撃がかけられるよう一歩遅れて動くようにしていた。
 いつの間にか、そうした呼吸が、当たり前になっていた。

 自分の前にあった青い影を感じずに飛び出すというのは、久しぶりで不思議な心地がする。
 身軽さと物足りなさを感じながら、セラは怪物の前に出た。
 マンティコアがこちらの姿を見つけた。セラは立ち止まらず、素早く怪物の右脇腹に寄る。
 最初は背から伸びる翼を片方切り落とそうと思っていたが、『尾に毒がある』とのオルファウスの言葉を思い出し、もう一歩深く踏みこんで、鏃のように鋭く尖った怪物の尾を、根元から月光で切り払った。

 切断面さえ見えるような滑らかさで、月光は怪物の尾を切り落とした。
 獣の絶叫が響いた。それ自体にも神経が通っているからなのか、ぼとりという音と共に地面に落ちた尾が、蛇のようにその場でのたうち回っている。
 それを横目に、すかさずセラはその場を離脱する。
 さっきまで自分がいた場所を、魔物の爪が空振りした。

 マンティコアはぐるりと頭を振って、突然の襲撃者を見定めようとした。
 だが、すでにセラと反対側、怪物の左側に回り込んでいたナッジが、気合いの一声を上げ、槍を真っ直ぐマンティコアの左前脚に突き刺した。深々と根元まで潜り込んだ槍は、けれど骨などに引っかからないように計算してあったのか、すぐさま引き抜かれる。
 ナッジがその場を飛び退くと同時に、抉られた肉で重心が狂ったのか、がくりと怪物の身体が左側に傾いた。
 いきなりの襲撃を次々と受け、獅子は傾きながらも顔を上げたが、それを待っていたかのように今度は近くの茂みから、まっすぐに弓矢が放たれた。空気を裂いて飛んだ矢は、狙い過たず怪物の喉に突き刺さり、長さの半分ほどまで食い込んだ。

 声帯を傷つけられ、マンティコアが声というよりは音に近いような、岩が崩れ落ちるような割れた咆吼をあげる。
 ぼたぼたと黒ずんだ血が、魔物の尾から、脚から、喉からしたたり落ち、足下の梢や枝に降りかかった。
 だが地に落ちた瞬間、それは黒い霧となって、宙に霧散していく。もともと魔法で組み合わされた生き物らしく、その体液も通常の生き物のものとは異なるらしい。

 重傷を負いながらも、マンティコアはまだ倒れなかった。
 激痛よりも憤怒が上回るのか、傷を負った左脚を含めた四本の脚で地面をがっちりと踏みしめ、体勢を立て直すと背筋を伸ばした。背の二対の翼が、窓のように大きく天に向かって開かれ、小さなつむじ風が起こる。
 その翼の輪郭が、雷を帯びてビリビリと震え、青く滲んで光る。

 魔法か、と悟った瞬間、セラは飛び出していた。

 手の中の月光が、怪物の翼と呼応するかのように、青白い輝きを帯びる。
 相手の精神を――特に魔力を――削るという妖刀。
 別に使い方など習ったわけではないが、何度か戦いの中で発現する状況や効果は知っている。そして自分もそれに合わせて腕を磨いた。今は自在に月光の力を操れるようになっていた。

 これまで武器など、大量生産の安物しか扱ったことがなかった。それで良いと思っていた。だが、本当に良い武器とはどういうものか、自分と波長が合う武器の存在を知り、武器もまた一つの相棒で、それゆえ得ることができたならば大切にしなければならないと、月光を手に入れたことで知ったのだ。
 そういったものを手に入れるためには運も必要で、一度縁を逃せば二度と手に入らないことも多い。
 伝説の武器を求めてさすらう冒険者がいるのも頷ける気がした。自分はそれを求めずして手に入れた、幸運な例なのだろう。
『無欲の褒美だよ』
 そう告げたのは、ミイスの兄の方だった。

 間に合うかどうかは賭けに近かったが、ためらう余裕もなかった。
 走り寄り、怪物の右翼を月光で切り払う。

 固い物を切り落とす物理的な衝撃とはまた別の、湖面に刃を差し入れるような独特の質感が手の先から伝わってくる。特に力を込めたわけではないが、月光は妖刀の名にふさわしく、獲物を吸い取るような貪欲な切れ味で、紙片のように怪物の片翼を切り離していた。
 セラの傍らに、マンティコアの翼が落ちる。紙とは違う証拠に、ばたんと重量ある板が倒れた時の風の塊が押し寄せた。
 セラの黒髪が風に煽られ、ばちりと逆立った。火花が弾ける感触とともに熱を感じる。

 ――――!

 はっとして息を詰める。
 次の瞬間、背筋を貫く衝撃を感じ、倒れこそしなかったものの右膝をついた。
 セラ、というナッジの声が耳の遠くで聞こえた気がして、初対面の賢者の言葉『これでも手加減したんですよ』を思い出した。魔法の発動は阻止したものの余波は受けてしまったらしい、と遅れて理解する。
 ビリビリと身体を貫く痛みを感じながら、それでも半ば意地で片膝をついたままセラが目を開けると、魔物の左脇腹にナッジの槍が、眉間にレルラの矢が突き刺さっているのが見えた。

 片翼を失った獅子の巨体が、ぐらりと傾く。
 そのまま、どうっと地面に横倒しになった。黒ずんだ体液が流れ落ち、血だまりを作ったかと思うと、黒い霧となってしゅうしゅうと立ち上って消えていく。怪物の姿もまた、その霧に飲まれるようにして薄くなっていく。
 黒い霧の向こうから、折れた梢を飛び越え、まっしぐらに駆け寄ってくる白猫の姿が見えた。
 強がるわけではないが、セラは白猫が走り寄ってくる前に月光を腰に収め、立ち上がった。




「お疲れ様でした」

 猫ルシカの背後から賢者が声をかけてきた。そこで賢者はルシカの方を見て、つと目をとめる。
 その静かな視線の先にあるものを予想しつつ、セラもオルファウスの視線の先を追う。

 怪物は跡形もなく消えさったが、戦いがあった証拠に折れた樹木や踏み荒らされた草木が無惨に散らばっていた。
 そんな残骸の隙間に、一見汚れた布のような小さな塊が埋もれるようにして転がっていた。
 血と泥で汚れた小動物、白猫の遺骸だった。
 猫ルシカが、にゃーにゃーと呼びかけるように鳴きながら、倒れている白猫に鼻先を押しつけている。

「…………」

 セラは無言でその姿を見つめる。
 そっくりな外見から親子、いやおそらくは兄弟猫だろう。
 この光景をどこかで予想していた自分がいた。予想していたというより、思い出していたというべきかもしれない。
 緑の森を歩きながら、セラは今回の出来事の理由が、朧気ながら分かったような気がしていた。

 今朝の夢。覚醒直後、すぐに傍らにいた猫に……ルシカに意識が向いた。『これは自分ではなく隣の誰かのもの』と瞬時に思ったのだ。自分が直接体験したわけではないが間接的に知っている。そんな又聞きめいた隔たりと親近を一緒に感じた。
 賢者の森を歩いて気がついた。あれはミイスと似ていたのだ。
 そして、もしかしたらこれが、白猫とルシカのソウルが事故とはいえ混ざった――『混ざることができた』要因ではないかと思った。

 生きて動いている身体に別の魂を移すということは簡単ではない、と賢者は言ったが、セラは一つの身体に二つの精神、別の精神が入り込んでしまう現象は知っていた。
 他でもない自分の身内がそうした状況にあったからだ。思い悩んでいた心の隙を突かれ、姉は身体を乗っ取られた。

 負の精神状態でなければ、魔人が入り込めないように。
 こうした魂の融合は、両者の間にいわば精神的な通い路ができてこそ、可能となる現象なのではないか。
 賢者は『空になった身体を借りること』と『生きて動いている身体を使うこと』は違うと言い、後者の方が難度が高いと告げた。前者は自分の力や思惑だけで起こせるが、後者は片側だけで起こせると限らないからなのだろう。
 正負どちらの形にしろ、両者の間に何らかの接点と状況因子――相性や波長、記憶や心や経験や素質など内的要素と、強力な魔力の発動などの外的な要素――が噛み合って、初めて可能となる。

 そう考えると、どうして猫になったのがナッジやレルラではなく、ルシカだったのかも見えるような気がした。
 闇の神器の力や、無限のソウルの持ち主という特性も作用したろうが、両者の間に共振めいた歩み寄りがあったから起こったことなのかもしれない。
 あの白猫が襲撃を受けた直後だったせいもあったろうし、ルシカが似た経験をかつて持っていたことも影響しただろう。

 ――いや。過去形ではなく。
 ルシカは今でも、心のどこかで抱え続けているから、かもしれない。
 他者の衝動に遭遇したら引きずられてしまうくらいには、ルシカの中で風化せずに残っているのだ。
 決して口には出さず、表面上終わったことのように振る舞ってはいても、突然の襲撃に全てをもぎ取られた痛みや悲しみや衝撃を忘れてはいない。兄を救い出した、今であっても。

 喪失というのは、何を失ったかだけではなく、どう喪ったかも影響する。むしろそちらの方が長く尾を引くこともある。
 世の中にあるのは綺麗に納得できる別ればかりではない。だからこそ、いちいち引きずってはいられない。
 セラなら、そう思う。だが自分のような人間ばかりではないことも、今のセラは知っている。
 特に姉やルシカのような人間は、時間がかかるのかもしれない。そしてロイは、そうした時間や過程を傍で待てる人間なのだろう。
 セラもルシカ同様、完全にわだかまりがきえたわけではないが、姉の傍にいるのがロイであって良かったとは思っている。姉には自分ではなくロイのような人間が必要であろう事は、あのとき痛感したのだ。

 猫の鳴き声がしている。
 白猫が、倒れている身内の様子を確かめるように、あるいは起きるのを待つように、くるくると回っては鳴くことを繰り返している。
『起きてよ』なのか『どうして?』なのか。
 猫のルシカの言葉が分かるセラだったが、今はどちらの意識で鳴いているのか、判別できなかった。

「この白猫が猫屋敷に来たのは、僕たちに助けを求めに来たのかな? それとも仇を取って欲しかったのかな……?」

 そんな白猫の姿を見て、ナッジが小声で力なく呟く。もう少し早ければ、という後悔も含まれているのかもしれない。一方レルラは、ナッジとは対照的に、鳴いている猫と倒れている猫を観察するように見つめ、冷静な声で言った。

「何かをして欲しい、というよりも、こんなことが起こっている、と知らせに来たのかもね。ギルドは野生の猫は被害として数えないだろうし、誰も通りかからなければずっと知られないままだったと思うよ。見つけてあげられて良かったんじゃないかな」

 ナッジがレルラの言葉を吟味するように瞑目し、目を開いた。

「……そうだね。そっちの白猫、埋めてあげたいんだけどいいかな?」

 その言葉はその場にいる仲間たちに、とりわけ一行をここまで導いてきた白猫に向けられているように聞こえた。
 白猫が顔を上げる。ルシカと同じ青い空の瞳がナッジの方に向けられた。
 そして白猫は応えるように、一声大きく鳴いた。



* * *


 
 白猫は森の奥の大木から少し離れた藪の中、人があまり踏み込まなさそうな、白い花が固まって咲いている草むらの陰に埋葬した。墓標らしきものは立てなかったが、傍には目印にできそうな野生の花々や石がある。オルファウスによれば、季節が変われば違う種類の花も咲く場所とのことだ。寂しくはないだろう。
 もちろん埋葬は人間のための文化であって、野生の猫にそれが通じるとは思っていない。だが怪物も倒し、兄弟も弔ったことで、何かの区切りにはなったはずだ。
 何かしらの成果、影響を期待して、みな白猫ルシカに注目していた――が、ルシカの方は特に変わりもなく、猫のままだった。人間の方の本体(?)の影も形も見あたらない。

 日が暮れてきたこともあり、仕方なく再び猫ルシカを連れて、猫屋敷に戻ってきたのが先刻のことだ。
 馴染みになってしまった賢者の手作りの今宵の夕食は、なんと肉を仕込んでおいたとのことでローストビーフだった。獅子との戦闘後ともあり、肉汁滴る赤身肉は若干気後れを感じさせなくもないのだが、そんなことに構っているような繊細な神経ではきっと冒険者などつとまらないのだろう。あえて話題には出さず、皆で美味しく平らげ、そして食後の対策懐疑もとい会議となった。

「で。何で、ルシカは元に戻らないんだろうね?」

 その場にいる誰もが思っているであろう事を、遠慮なくレルラが口にする。
 仲間たちの注目などどこ吹く風と、ふわぁあと猫ルシカは暢気なあくびをしていた。お腹がふくれて満足したのか、放っておいたらそのまま寝入ってしまいそうだ。首を引っ込め、床で丸くなっている。
 ルシカを見ていた皆の視線が、その場の一番の知恵者であるオルファウスに移る。

「どうしてでしょうかねえ。もしかしたらルシカさんは猫の生活が気に入ってしまったのかもしれませんね」
「そんな……。密かに冒険者生活に疲れていたのかな? ルシカ」
 賢者の台詞にまともに反応したのはナッジだったが、もちろんセラは取り合わない。
「くだらない冗談はいい。今日で三日になる。貴様は数日中になんとかすると言ったはずだ」

 セラの言葉を受け、オルファウスはセラをじっと見つめた。
 一瞬はぐらかすつもりかと思ったが、その視線には含みが感じられた。怪訝に思い、セラは再び問いを重ねようとしたが、素早くオルファウスが言った。

「思いこむのは一瞬ですが、それが解消されるのは一瞬だとは限らないということですよ。混ざったのは一瞬でも、分離には段階があるのでしょうね。あのマンティコアを倒したらルシカさんが元に戻る、という確証があったわけではありませんが、たぶん道は間違っていないですよ。その証拠に影の厚みが、だいぶ薄くなっているようですし」
「影の厚み?」

 謎かけのような言葉に戸惑っているナッジに、オルファウスは微笑んだ。

「あの白猫を埋めたことで、この子の心残りも一緒に埋めたのでしょう。願いというのは原動力にもなる一方で、妄執や悔恨の鎖ともなります。けれど縛る力が緩んだならば、いずれきちんと離れていきますよ。岸辺に繋がれていた舟が、縄をほどいて海へとこぎ出すように」

 あのとき白猫を見てセラが感じたことを、オルファウスには見透かされているような気がした。

「それって、『放っておけば自然にルシカは戻ります』ってことでいいのかな?」
「まあそういうことですね。猫のルシカさんも見納めになるかもしれませんよ」

 詩人のくせに散文的なまとめをしたレルラに、オルファウスはにこやかに微笑んだ。
 見納めも何も、こんなことはこれ一度っきりで十分だ。
 猫をつれて冒険などできない。早く元に戻ってもらわないと困るのだ。
 もちろんセラはそれを口に出しはしなかったが。