同床異夢・1 

「――なあ美和子」
「何? 薫ちゃん」
 そっと亀山薫がキッチンに足を踏み入れると、美和子はふんふんと鼻歌を口ずさみながら、シチューらしきものをかき回していた。匂いはシチューなのだが、色は相変わらずピンク色だ。
 薫は見なかったことにして、話を切り出した。
「お前さ。最近仕事って、どうなってる?」
「どうって、何が? ちゃんと、あちこちで書いてるよ。フリーになっても、ジャーナリスト奥寺……おっと違った。亀山美和子ちゃんの評判は高いんだぞ」
「また、エジプト行ったりとか、ないのか?」
「?? もう勤め人じゃないから、転勤はないだろうけどさ。なんで?」
「いや……フリーのライターって、どこでも仕事できるから、強いよなーと思って」
「んー。どこでもできるって言ったって、そりゃ記事なるような事件とかネタとかあっての話だよ。場合によっては、関連資料調べたり、持ち込み先と、打ち合 わせしたりしなきゃいけないから、ある程度、情報と交通の便の良い都心じゃないと難しいかなと思うけどね。って、どうしてそんなことを聞く?」
「いや。ほら、俺たち、新婚旅行とかなかったじゃん? 海外旅行とか……どーかなーって」
 美和子はシチュー(?)をかき混ぜる手をとめて、しげしげと薫を見た。
「薫ちゃん、何か、隠してない?」
「……え。いや、別に何も」
「ふーん」
 美和子は、冷や汗をかいて立っている薫を、疑いの眼差しでじっくり見つめた後、また鼻歌を続け、ピンクシチューにパセリを丸ごと放り込んだ。
 …………バレた、かな。
 薫は手に持っていた旅行会社のパンフレットを、さらに隠すように細く丸めた。



* * *



 警視庁組織犯罪対策5課の奥の一室は、「特命係」という異空間である。
 別名、「陸の孤島」「人材の墓場」
 ここは中央捜査部から隔離された、リストラ要員用・物置部屋なのだ。
 だが外では色々言われているこの物置部屋、朱に交わって染まってしまえば、悪いものではなかった。

 少なくとも、現在の住人、特命係の警部・杉下右京と、その部下、巡査部長・亀山薫の2名は、心地よく暮らしているようだ。
 孤島なのを良いことに、お気に入りのコーヒー豆、ティーセットだけでなく、オーディオ、クラシックCD、チェス盤等を持ち込み、独自の捜査を展開している。
 この風情に引きつけられるのか、それとも類は友を呼ぶのか。
 墓場の割に訪問者も多い。「暇か」の声と共に姿を現す、対策5課角田課長。彼を筆頭に、特命係の密かな支援者でもある鑑識課・米沢守。官房室長・小野田公顕。衆議院議員で元法務大臣・瀬戸内米蔵も、かつてこの狭い部屋を訪れたことがあった。
 しかし、本日、特命係を訪れたのは、特命係とは犬亀の仲、もとい犬猿の仲である筈の、捜査一課の3人、伊丹・三浦・芹沢の『捜一トリオ』であった。

「特命係の亀山ァ……って、何やってんだテメェ」
「うっせえ。いいから黙ってろ、こっちは真剣なんだよ」
「あァ? また特命が、勝手に首つっこんで、何か嗅ぎつけたのか。お前ら、本当に犬みてえだよな。そうだ、お前はカメじゃなくてイヌだイヌ! あの警部殿の忠犬だ……って、そういやお前の、上司はどうした?」
「お前の自虐に、俺を巻き込むな。右京さんに関係あるコトかもしれねえんだよ」
「あぁん?」

 男3人は、難しい顔をした亀山の視線を追って、杉下右京のデスクを見た。
 主人の頭脳のように、整然としたデスクの上には、封筒が一枚置かれていた。
 ラベンダー色をした洋形封筒。微かに花の透かし模様の入った洒落た品だ。警視庁に投書として送られてくる素っ気ない事務品とは雰囲気が全く異なっていた。
 あいにく、その花の種類まで分かるような粋な文化人は、この4人の中には居なかったが、それでも視覚情報から推測できたことはある。

「―――ッ!! 女からの手紙か!?」
「センパイ、言い方と勢いが下品っすよ。餓えてる人みたいな」
「うっせえんだ、テメェはよ。生意気な」
 伊丹が玩具をあしらうがごとく、ピシッと良い音で、デコピンを放った。
 慌てて芹沢は、涙目になって額を押さえて先輩刑事から遠ざかる。
 三浦が胸ポケットから眼鏡を取り出してかけ、しげしげと見つめる――老眼であって、遠くのものは見えるのだが、一応念のためである。
 だが、目の悪さが原因ではないようだ。見たものは見たものの形のまま、そこにある。
 悩み抜いた末、三浦は、渋い声で、一応の結論を試みた。
「……警部殿に、ラブレターか……?」
「まっさかあ! あの杉下警部ですよ」
「いや、分かんねえぞ。刑事なんて職業やってると、狂った世の中だとしみじみ感じるからな。何でもありだぜ」
 伊丹は自身の女性遍歴を思いながら、唸るように言った。
 何がどうまずかったのか、過去関わった女は、みな麗しい外見とは裏腹に一癖も二癖もあり、恋人を夢見ていたはずが、気付けば警察と犯罪者という職業上のシビアな関係として、終局を迎えてしまっていた。
 芹沢が首を捻りながら、不思議そうに問う。
「だからって、杉下警部に、ですか? どんな物好きな女なんですかねえ」
「…………。あの人、若い頃は、結構もてたらしいですよ」
 ぼそりと亀山が口を挟んだ。
「本当かよ!?」
 万年独り身、美人教師に憧れ、英会話教室に通い、結婚相談所を訪問してお見合いパーティに出席し、女は釣れず代わりに事件を釣ってきてしまう伊丹は、つい裏返った声をあげてしまった。
 ――どうして、こんな奴らにいて、俺にはいない!
 亀にいて、自分にないもの。それが恋人(妻でも可)。
 伊丹も、それを渋々認めざるを得ないくらいには、焦っていたのだ。
 亀山がどこか苦い口調で語った。

「ほら、あの人、あれで変に世俗的なところあるから。若い頃は……結構、女の子とも、遊んでたらしいですよ。
『勉強はしなくてもできましたから。遊ぶ時間はたくさんありましたねえ』
 なーんて本人、言ってましたけどね」
 右京の口調を真似て言った亀山に、露骨に伊丹は嫌そうな顔をした。
「ケッ。どんな物好きな女か、見てみたいもんだな」
『花の里』に行けば会えるぜ、と言いかけて、亀山は止めた。
 右京にではなく、花の里の女将であり、杉下右京の元妻・たまきに対して、失礼だと思ったからだ。
 もっとも、たまきはたまきで、
『頑固で不器用であまのじゃくなところに惚れたんだけど、頑固で不器用であまのじゃくだから、夫としては最低でした』
 と晴れやかな笑顔と共に言ってのけたので、聞かれたところで気もせず、笑いながら、右京のことを話すのかもしれない。
 そういう関係も、ありなのだろう。
 男と女なんてわからないものだ、ということは、一度美和子との破局の危機を経験した今の自分だから、しみじみと思うことかもしれない。

 それはともかく、今問題なのは、手紙である。
「で。亀山先輩は、何を心配してるんですか? 別に手紙くらいいいじゃないすか」
「そうなんだが、中身がちょっと気になってな」
「かー。お前、人の色恋なんて、気にしてどうするよ」
「あのねえ伊丹。お前と一緒にするんじゃないの。うっすい封筒でな。手にとって机に置こうとしたとき、透けて見えちまったんだよ」
 先輩陣の会話を聞きながら、芹沢はトコトコと杉下の机に近づいていって、問題の封筒を手にとって、窓に透かしてみた。
「おいおい……」
 一応年長者として三浦はたしなめるような声をあげたが、本気で悪いと思っていないらしく、止める様子はない。
 ……何やら印刷された紙きれ。これは、バイオリンだろうか。クラシックコンサートのチケットのようだ。
 芹沢は、すぐに判断できた自分を、訝しく思った。
 あれ? どこかで見覚えがあるような……と記憶を探った途端、声を上げていた。

「あー! 先輩、コレ、あれっすよ。昨日殺された、天才バイオリニストの公演チケット!」
 封筒の中のチケットは、殺しの現場、ホール入り口に、でかでかと張られていたポスターと同じ画だったのだ。
「マジかよ!? ホントにお前ら、イヌみたいに事件を拾ってくるよな」
「それは、向こうから、右京さん宛に送られてきたの。俺たち、何もしてませーん。事件が、俺たちを呼んでるの」
「で。差出人は?」
 おどけた亀山に、三浦が鋭く問いかけたが、亀山は肩をすくめて首を振った。
「ありませんね」
 裏付けるように、芹沢が封筒をひっくり返す。綺麗に白紙のままだった。
「で。警部殿は?」
「それが、さっき出かけたまま、戻ってこない」
「行き先わかんねぇのかよ! てめぇの上司だろ!!」
「電話があって呼ばれて、出て行ったんだよ」
「ったく、誰からの電話だよ!」
「官房長官」

 亀山薫の一言に、その場の温度が下がり、空気が固まった。
 トリオの脳裏に、官房長官・小野田公顕の得体の知れない笑顔と、人を食った口調が蘇る。

「なんか……ヤバイ裏が、あるんじゃねえのか」
「でもあれ、怨恨でしょ。ライバルのバイオリニストが嫉妬して、弦に毒を塗って、殺したんでしょ。米沢さんが、嬉々として、頼みもしないのに、毒の成分を説明してくれてたじゃないすか。入手ルートも特定できたみたいだし、ほぼ確定でしょ」
「だが、警部殿と、事件と、官房長官だぞ。この三つが、そろってるんだぞ」
「片づく事件も片づかねえ、か。ったく、面倒なことをしてくれるよな」
 芹沢、三浦、伊丹のどんどん進んでいく会話に、亀山が一応のブレーキをかけた。
「俺たちは疫病神かよ。っていうか、俺たち、まだ捜査すらしてないぜ」

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