同床異夢・2 

 小野田との待ち合わせ場所は、都心のビジネスパーク街の中にある、大型百貨店だった。
 ビジネス関係者が客層のため、テナントの多くは高級スーツや海外赴任用のグッズなどが展示されているが、例外もあるようだ。杉下は指定された階で、それを実感した。
 待ち合わせ場所に向かってみれば、そこはペットショップだった。
フロアに面した壁面は、一面ガラス張りとなっており、その向こうには、じゃれあい群れて転がる子犬が居る。そしてオレンジ色のエプロンを身につけた店員の 隣には、場違いな高級スーツを身に纏った上司の姿もあった。小野田は、店員の解説を聞きながら、子犬を抱き上げ撫でていた。
 ……杉下の目には、子犬は、露骨に、いやがっているように見えた。
 別に興味深く観察していたわけではないが、硝子越しに視線を感じたのか、小野田が窓向こうの杉下の姿に気付くと、抱き上げていた子犬を挨拶代わりに見せた。
 そして暴れる哀れな子犬を解放し、店員に礼を言って、乱れたスーツの襟元を直しながら店から出てくる。

「ずいぶん待ったよ」
「指定された、お時間通りのはずですが」
「上司と待ち合わせてたらね。部下は先に来て、相手を待ってるものだよ。それが日本の組織の常識だよ」
「そうですか。ところで、どうして待ち合わせ場所が、ペットショップなのでしょう」
「孫に犬が欲しいとせがまれてね。どんなものかと下見に」

 言いながら小野田は、視線を硝子窓の向こうに送った。
 黒と白の班模様の子犬を指さしながら告げる。

「ほら。さっき僕が抱き上げてた、あの子」
「パグですか。とても嫌がってましたねえ」
「お前に顔が、似てるよね」
 あっさりと小野田に言われ、不覚にも杉下は、押し黙ってしまった。
 パグの真ん中に皺をよせた、融通のきかない気むずかしそうな表情は、確かに似ていると言われれば似ているかもしれない。
「用件がそれだけならば、僕は帰らせて頂きます」
「冗談だよ。相変わらず、お前はつれないね。……ここではなんだし、場所を変えようか」

 そう告げて、小野田は杉下を連れて歩を進め、エレベーターに乗り込んだ。
 眺望を考慮したガラス張りのエレベーターからは、街の様子が見下ろせる。
 行き交うスーツ姿のビジネスマンのせわしない姿を眼下に納めつつ、小野田は悠然と呟いた。
「あの回る寿司も面白いけどね。優雅なランチもいいものだよ。どうせ暇だろう?」
 人を食ったような、小野田の言動は相変わらずだ。ガラスに映る薄く笑みの張り付いた横顔も、言葉と同様、腹の内を読ませない。
 杉下もまた、特に口を開かず、背の後ろで手を組み、無言で昇降表示パネルを見上げる。
 Rの一つ前の11階の表示で、エレベーターが軽い電子音と共に留まった。だが、そこが終着ではなかった。小野田は、さらにもう一本向こう側、道路を挟んで対岸に架かる高架を渡り、この百貨店に隣接している高層ビジネスビルへと移る。
 先ほどまでのざわついた喧噪が一気に遠ざかり、ガス灯を模して作られた人工照明が柔らかに周囲を照らす、落ち着いた空間が広がった。
 小野田は、慣れた足取りで人工大理石の扉のエレベーターに乗り込んだ。目的地は、このビル最上階にあるフレンチレストランのようだった。

「ここの魚のランチは絶品なんだ。眺めも最高だよ」
 小野田がレストラン入り口で手を挙げると、すぐさま従業員が出迎え、一礼した。
「お待ち致しておりました、小野田様。お席はご用意してあります」
「そう。ありがとう」
 見晴らしのよい窓際に案内され、席に着いた杉下は、軽く目を細め、窓向こうを見た。
 昼時の都心の空は、都会特有の白んだ青い色をたたえ、うららかに広がっている。
 地面を埋め尽くし林立する高層ビルの窓が、白く光を反射する。あの細い建物の一本一本に、数え切れぬほどの人間が集い、それぞれの立場でそれぞれの生活を送っている。
 昨日までと同じ日々を変わりなく過ごしている者もいれば、まさに今、事件が起こる前触れに遭遇しているものもいるだろう。知らぬうちに当事者となっている者もいるかもしれない。
 犯罪は、独りでいるときには起こらない。人が人と出会うことで――誰かが誰かに直接的にしろ間接的にしろ関与することで、起こるものだ。
 それは偶然に展開することもあるが、たいていの場合はそれなりの原因と関係性がある。どんな犯罪もつきつめてしまえば、その発端と経緯は利益や状況の改善を求めて引き起こされる。
 自然発生するものではなく、限りなく人工的な出来事。

「――本当は、大きな成人犬が欲しいって言ってたんだけどね」
 唐突な小野田の会話に、杉下は現実に引き戻された。
「はい?」
「孫の話。でもね。飼うなら小さい時からの方がいいって忠告したの。
 きちんと責任を持って、面倒を見て、躾を教える。じゃないと飼い主に、当たり前のように反抗するようになるからね」
「……なにやら実感のこもったお言葉ですね」
「僕は、動物には好かれるはずなんだけどね。おかしな話だよね」

 同意を促すように小野田はこちらを見た。
 ご冗談を、とは口にせず、杉下は置かれていたグラスで、軽く口を湿らせた。
 ちょうど昼時だったが、店内の人影はまばらだった。地上のランチとは一桁違うであろうメニューの値段と平日の昼間とあって、埋まっている席には、黒光りするブランドスーツに身を固めた者たちが囁き交わす、商談混じりの談笑が多い。
 ほぼ習性とかしている癖で、周辺の状況を観察してしまう杉下を尻目に、小野田は焦らすような、ゆっくりとした動作で、周囲を眺め、再び口を開いた。

「ここは瀬戸内氏に教えられた場所でね。料理長の腕が良いんだ。
 以前、三雲判事とも食事をしたことがあって、ふわふわっとしたソースがかかった舌鮃のランチが絶品だったよ。判事とは、また機会があったらご一緒しようと思っていたんだけどね。誰かさんのせいで、叶わなくなりそうだ」
「なるほど。ずいぶん迂遠な真似をなさると思いましたが、そういうお話ですか」
 かつて知人でもあった二人の名を出され、杉下はすぐさま切り返した。
 元法務省大臣・瀬戸内米蔵。および裁判官・三雲法男。両者ともに、個人の都合というよりは、法人としての立場から――義憤にかられ、結果として法の一線を越えてしまった人物だった。
 小野田がしみじみと述懐した。
「二人とも今の世の中には珍しいくらい、立場に一途で真っ当で得難い人物だったのに。
 その二人を相次いで失ったのは、日本社会の大きな損失だよね」
「ええ。本当に、残念でなりません」
「おや。なんだか他人事のようだね。……彼らを社会から葬ったの、君じゃない」

 『政界の風雲児』と『司法の良心』そんな俗称が示すとおり、両者はその社会的地位だけではなく、人柄や意志でも一目置かれる人物であり、それゆえの信念もあった。
 だが信念は時に事件を引き起こす引き金ともなる。彼らが秘めていた事実を暴き、結果的に二人を失脚に追い込んだのは、他でもない、目の前の杉下右京本人だった。
 皮肉のスパイスをきかせて、小野田は言った。

「お前の正義の鉄槌は、相変わらず、善人や賢人に対しても、容赦がないね」
「お言葉ですが、僕は警察官です。法に照らし合わせ、罪を犯した者を逮捕する義務があります。
 どれほど背後にある思想が尊かろうと、人柄として優れていようと、とった方法が間違っているならば、それを指摘しなければなりません」
「お前の信念は知ってるよ。でもね。いつも言ってるでしょ? 世の中には開けちゃいけない扉もあるんだよって。
 シェフが誇りをかけて、自慢の腕を振るって、美味しい料理が出てきて、皆がそれを食べて幸せなら、材料のことを気にするのは、野暮じゃないの?」
 決して己の私利私欲のために手を染めたわけではない。このまま放っておけば、更に腐敗が進むと思われたからこその決断。それは……大儀だ。
 小野田の言わなかった台詞を、杉下は一言で切り捨てた。
「皆が幸せ? 人が死んでますよ。そして人を殺せば、殺人です」
「まあ、お前の正義がどうしようもなく『固い』ことは、今に始まったことじゃないけどね。
 お前はそれでいいかもしれないけど、相棒の彼まで、お前の意固地で残酷な正義に巻き込む必要はあるのかな?」

 その言葉に、杉下はかすかに目を上げ、小野田を見た。
 小野田の言葉が、不意打ちだったからではなく、別の角度で、思い当たる節があったからだ。

「亀山君に何か吹き込みましたか?」
「別に僕は何もしてませんよ。
 お前の正義は残酷だから、もう少し注意したほうがいいよって、忠告のつもりだったんだけど。
 ……でも、そういう言葉が出るって事は、お前自身、何か身に覚えがありそうだね」
 杉下は表情を変えたりはしなかった。
 小野田自身も、そこに対する興味はないようだ。世間話のように、淡々と続ける。
「亀山くん、お前の相棒を務めるだけあって、なかなか骨もあるし見所もあるけれど、そのせいでかなり危険な、渡らなくてもいい橋を、何度も渡っているよね。
 上司とはいえ、お前にそこまで引っ張り回す権限があるの?」
「彼も立派な大人ですよ」
 自己判断は薫自身がしていると暗に告げた杉下だったが、今度は小野田があっさりとそれを切り捨てた。
「お前はお前の道を行けばいいし、その覚悟もあるんだろう。
 でもそれは、お前だけの道に、すぎないよね。
 お前の正義に巻き込まれて、人生を狂わせる人間もずいぶん多いんだよ。
 ――いい加減、近所迷惑を、自覚したら?」

 杉下が何か言い返す前に、テーブルに影がかかった。
 こういう場所だけあって、客の会話に立ち入らない訓練をされているのだろう。ご注文の料理をお持ち致しました、とウェイターはテーブルに漂う緊迫した雰囲気など無視して、さっと料理を並べ、一礼して立ち去る。
「あら美味しそう」
 小野田も今までの会話を忘れたように、目先の料理に相づちをうつ。
 杉下は軽く息を吐き、ナイフをとって、魚の腹を切り分け始めた。

「……官房長。そろそろお昼を共にする相手を、僕以外に見つけたらどうですか?」
「馬鹿だね。こういう機会でもなきゃ、僕とお前が友好的に顔を合わせる場所がないじゃないの」
「僕は別に、非友好的なつもりはありませんよ」
「でも友達だと思ってくれてもいないよね」
「僕は警察官です。ただ、それだけです」
「……まあ、大人同士だからね。好き嫌いだけじゃ付き合えないけどね」

 カチャカチャとナイフの音を立てながら、小野田が告げる。
 大抵出会う時は、敵対関係に身を置くことが多い。立場と価値観が違いすぎるからだろう。
 それは昔から、緊急対策特命係の頃から、よく分かっていることだ――お互いに。
 分かっていて、それでも尚付き合い続けていることの関係を、たぶん他人は、腐れ縁、と呼ぶのだろう。
 もちろん、縁だけでいつまでもつながっていられると期待はしていない。

「杉下。僕はね。まだ、お前を諦めたわけじゃないんだよ」

 危険な飼えない犬だと分かっているが、だからこそその威力は大きい。劇薬はできれば手元に置いておきたい。いつか必ず必要になるときのための、自分の切り札として。
 そのために「特命係」は「特命係」として、残しておいてあるのだ。
 自分と違う存在だからこそ、互いの必要性を、よく知っている。そしてそれは、決して小野田の一方方向だけではないはずだ。
 だが杉下は、にべもなく答えた。

「大変に迷惑です」
「……相変わらず、お前はつれないねえ」

 さして残念そうにでもなく、小野田は呟いた。