同床異夢・3
「右京さん。官房長とお昼だったんですか? きっと高くてうまいもの食ってきたんでしょう」
昼休憩を終え、警視庁にもどった杉下右京を、亀山薫が迎えた。
表向き真面目な顔を保ったまま、右京は、コートを掛けながら答える。
「相変わらず君は、鼻だけはききますねえ。もっと捜査の方で頭を使ってくれると、僕も助かるんですが」
「何言ってるんすか。俺の鼻や舌が、事件解決に役だったこともあるじゃないですか」
堂々と胸をはる薫に、右京は眉間をおさえたくなった。……そこは威張るところではない。
上司として一言注意しておいた方がいいだろうかと思ったが、口を開く前に、微かに鼻腔をかすめた甘い匂いに、目を向ける。
匂いの元は、薫が飲んでいる缶コーヒーだった。
「珍しいですね」
「え?」
缶コーヒーを指さすと、薫は驚いた顔で答えた。
「これですか? ちょっと甘いもの飲みたくなって……休息所の自販で」
「自分で淹れないんですか?」
続けざまにコーヒーメーカーを指さすと、薫は視線をせわしなく動かした。
あからさまに挙動不審になった薫を見て、右京は少し複雑な気持ちになる。
――正直すぎる彼は、刑事としてやっていくには、確かにやや難がある。それは彼の長所でこそあるものの、事実でもあった。
そんな右京の思惑など知らず、薫は早口で説明をする。
「え。あ、ま、豆ですよ、コーヒー豆! 豆が少なくなってきたから、使うの勿体ないなーって思って」
「そうですか。君は、そういうところは、マメな方だと思っていましたが」
「? 右京さん、もしかして今の、シャレですか?」
すかさず口を挟んできた亀山を、さりげなく無視して、杉下は薫に向き直る。
こほんと軽く喉の奥で咳払いをして、杉下はよどみなく続ける。
「今まで君は、豆が切れる前には、必ず継ぎ足してましたよね。
普段大雑把な割に、飲むコーヒーには、そこそここだわりがある君です」
「『そこそこ』は余計ですよ」
「普段飲むコーヒー豆は、量販店ではなく、通勤途中にある喫茶店で、マスターから購入してくるものだと聞いていました。
通勤途中にあるということは、毎日通る道ではありませんか。仮に買い忘れて、今日使い切ってしまったところで、帰り道で買えば良いだけの話です。
それとも、君が僕の知らない間に通勤路を変えたり……今までとは違う習慣を、早朝に取り入れて、時間がないといった理由があるのでしょうか」
一瞬ぴたりと空気が止まった。
薫が口を開きかけて、それからややうつむき加減で言葉と続けた。
「最近、朝ジョギングをしてるんです。体力作りのために。そのまま来ることもあるんで。帰りは帰りで花の里に寄ることが多いですし」
「そうですか」
右京はそこでデスクの椅子を引いて、腰掛けた。何事もなかったかのように仕事に戻る。
そんな右京を、薫は戸惑ったように見つめた。
「どうかしましたか? 亀山くん」
「い、いえ……何も」
薫は言葉を濁した。
*
「最近、朝ジョギングをしてるんですよ。体力作りのために」
薫はそう答えながら、内心で身構えていた。
『――何のために?』
そう右京が尋ねてきたら、どう返せばよいのかと、瞬時に思い巡らせていたのだ。
だが、右京はあっさりと追及を引いて、まるで今の会話などなかったかのように、いつも通りデスクにつく。
肩すかしをくらって、思わず薫は右京を見た。
「どうかしましたか? 亀山くん」
「い、いえ……何も」
これは――ばれているのか。それとも、そっとしておいてくれているのか。
判断に迷い、薫はとっさに右京の机の上においてあった、問題の封筒をとってしまった。
ごまかそうと思ったわけではない。ただ何か空気を変えないと、このあと続くであろう気まずさに耐えられない気がしたからだ。
「それよりもコレ! なんですか右京さんっ」
「見たところ、封筒のようですが。僕宛に手紙のようですね」
「そりゃ分かりますよ。でも差出人がないですし、それにこれ、どう見ても、女性からでしょう?」
「僕が女性から手紙を受け取ると、何か問題があるんですか?」
「い、いや、別に、そういうわけじゃないです。そういうわけじゃないですけど……コンサートのチケットなんて、意味深なもの送られてきたら、気になるじゃ……」
はっとして薫は口を閉ざしたが、遅かった。
じろりと右京が薫をにらむ。
「人の手紙を盗み見ですか。お世辞にも趣味が良いとは言えませんね」
「ち、ちちちちち違います! 薄い封筒だったので、中が、透けてみえちまったんです!
あ、いや。それを盗み見って言うのかもしれませんけど、すみません!
それに、どうもそれ、一課が追っているバイオリニスト殺人事件? に関係ありそうな、なさそうな感じで……何か、事件が絡んでいるんじゃないかって」
ふうっとため息をつくと、右京は薫の手から封筒を受け取り、無造作に口を破った。
中から出てきたのは、コンサートチケットが二枚。
「花から電話がありました」
「――花?」
「僕の姪の『花』ですよ」
「あ、ああ。ハナちゃん……!」
言われて、薫も以前会ったことのある、右京の姪――実際には、遠い親戚だということだが、複雑怪奇な他家の家系図など覚えていられるはずもない――の姿を思い出した。
写真家としてしてあちこち巡り歩いているという、美人なのだが、ちょっと変わり者のお嬢さんだ。好奇心とクセの強さが右京に似たのが悩みの種というか、はた迷惑というか。
案の定、頼まれもしないのに事件に首を突っ込み、見事に巻き込まれ、危うく被害者となるところを、すんでの所で薫と右京の二人で救った記憶がある。
「行こうと思っていたコンサートがあったそうですが、急用で行けなくなってしまったとのことで、僕に譲ってくれたんですよ。
日付が迫っているので、ひとまずチケットだけ急いで郵送します、と言ってましたが、本当に、チケット『だけ』、送ってきたんですね」
「はあ、そうでしたか」
「どうです? きみも行きますか?」
「え、俺がぁ!? クラシックなんて、分かりませんよ」
「でしょうね」
「でしょうねって……あ、第一、そのコンサート中止になったんでしょう? 何でも主演のバイオリン奏者が殺されたって」
薫の言葉に、右京は頷いた。
「今朝の三鷹の芸術ホールで起きた殺人事件ですね。実は、ちょうど僕がここを出たとき、米沢さんから連絡がありまして、ちょっと寄って見てきましなた。もう一課は出払った後でしたが」
「何かありましたか?」
薫のどこか期待するような眼差しに、右京は素っ気なく返した。
「何もありませんよ」
「え?」
「特に疑わしい点はありませんでした。犯人の目星もついているようですし、まもなく解決するでしょう」
「本当に?」
右京は胡散気に薫を見た。
「何かきみは勘違いしているようですが、僕は別に、無理に事件を掘り起こし、引っ張ってくるわけではないですよ。
あくまで、疑う余地が残されている事件において、真相を突き止めたいだけです。真実が明らかになっており、適切な処理がとどこおりなく行われている事件であれば、僕の出番はありません」
それ、本気で言ってますか!?
過去の右京の数々の所行を思い返し、薫は真剣に問いつめたくなったが、口で右京に勝てるはずもないので黙っていた。
――いつもどおりの、すでに馴染みとなった、流れと会話。
慣れ親しんだ時間を過ごしながら、それでも亀山薫は心にさざめくものを感じていた。
以前からじわじわ感じていた逡巡と、徐々に固まりつつある決意。
自分はここに居てもよいのだろうか、などと青臭い感傷に浸るわけではないが、最近強く、特命係としての自分の存在意義――もっというならば杉下右京の相棒としての、自分の存在意義――を自問することが多くなった。
今のような些事ならば、軽口を交わしながら片づけることもできるのだ。いつまでもそういう状態のままでいられるのならば、それで良かったのかもしれない。
だが、特命係が扱う事件は、軽いものばかりではない。他人の人生、社会的生命を脅かし、崩壊させてしまうこともある。おそらく、この先もそうした場面は何度もあることだろう。
杉下右京の暴く真実は、時にひどく残酷だ。
その残酷さに肩を並べてついていき、結末の重荷を共に引き受けるだけの技量が、自分にあるのかどうか。
辛い真実から目を背けたいだけ、右京の鋼鉄の信念の残酷さに逃げ腰になっているだけだと、一時は考えた。だが、問題はそのような心情部分ではなく、もっと根本的な部分であることに気がついてしまった。
――意欲ではなく、器量の問題なのだ。
『おや、亀山君は、今回のことを知らされてなかったの? 相棒なのにねえ』
『杉下の正義は暴走するよ』
小野田官房長から言われた台詞。じわじわとその言葉の含みが理解できた。
右京は、真実を暴くためとはいえ、時に狡猾な策を弄する。結果よりも、用いた策そのものが、相手にとっての致命傷となりかねないことも多々ある。
そして、そういう危険性があるとき――大抵右京は、一人で策を立て、結果や過程を自分の心の内だけに秘めたまま、遂行することが多いのだ。
同じ課の自分には相談もせずに。あるいは薫自身は何も気づかぬまま、右京の策の一手として使われて。
それが嫌だというわけではない。自分は右京のような天才的な頭脳を持っているわけではない。右京と同じように考え、同じものを見ることは決してできない。そんなこと百も承知だし、そもそも、杉下右京と頭脳面で対等に渡り合える人間など、この警視庁にはいないだろう。
だが……それでいいのか? と。
今まで、現状に甘んじて、深く考えずに受け流してきた部分。
それを真っ向から、小野田につきつけられた気がした。
黙って従うだけならば、自分はどこまでも右京の後をついて行くことしかできず、右京が分かりやすく指し示したものしか見えない。だから、右京の正義を止めることもできない。
そして、おそらくそれは、右京が暴き立てた真実の重さ。それを共に背負うことにも、ならないのだ。
隠されることが嫌なのではなく、何かを隠されていることにも、気づけない自分がいること。
隠されていることを見抜いたその上で、すべての覚悟を背負って、隣にいるわけではないことが、嫌なのだ。
……けれど、それは無理な望みでもあるのだ。
どう足掻いても、どう努力をしても、おそらくたどり着けないであろう境地。
――尊敬してるんですよ。本当に。
理屈屋だし、慇懃無礼だし、意外と無茶だし、一般論だって通用しないし。
でもその正しさ、その不屈の姿勢には、心からの敬意を抱いてるんです。
でも、だから、俺は俺で、どうやったら右京さんと並ぶことができるか、俺自身の頭で、考えなくちゃいけないんですよ。
右京さんの隣で、その背中を見ながらではなくて。
薫は心の中で独りごちる。
それからわずかに、自嘲と自惚れの混じった心境で考える。
俺は全然成長してないから……いつか、本気で、右京さんの正義についていけなくなって、もう止めてくれと言ってしまいそうで怖い。そして右京さんにとっても。右京さん自身に落度がなくとも、いつか俺のために、その信念を曲げるような事態に追い込まれそうで怖い。
今の自分のままでは、いずれ足を引っ張ることになりかねない、そんな気がするんですよ。
だから、俺は俺で、まず自分の力で立てる場所を見つけて、胸を張って生きて、それから、帰ってこないと。
デスクの引き出しには、旅行会社と大使館から届けられた、サルウィン国およびその周辺領国の海外情勢に関する書類が入っている。
Life is the game
Some take a chance
play your hand
You're just my dream
You never know
(※相棒7のテーマの歌詞)
- 同床異夢・2
- 同床異夢・3