夜の海
「わらわの予言を聞きに来たか。勇者ネメアよ」
竜の座の前に立つ風の巫女の言葉に、ネメアは気難しげに眉を動かした。
エアの瞳とネメアの瞳がぶつかり、わずかな間が生まれる。
童女姿の小さな巫女と黒甲冑に身を固めた英雄、両者が向かい合っている姿は対照的だったが、眼差しはひどく似ていた。
超然と遠くを見るような不思議な視線は、先を見据える強さと冷めたような色を宿し、相手の心を冷たく鮮やかに射る。
エアの呼びかけが気に入らなかったのか、見透かしているような響きが気に入らなかったのか。
「――いや。その必要はなくなった」
静かな声で告げ、振り返りもせずに、ネメアは巫女の前を辞した。
予言を口にせずに終わったエアは、神殿を立ち去る黒い背を、黙って見送った。
* * *
打ち寄せる波は、夜の中で低く遠く響き、闇に漂う潮の香は、鼻先を掠め彼方へと消える。
行く手に小さな影が見えた。
月明かりの差すエルズの浜辺を一人歩いていたネメアは、足を止め、はっきりと姿のわかるところまで影に近づき、声をかけた。
「風の巫女よ。なぜここに。一人か?」
「夜の散歩に供などいらぬ」
かけられた声に驚きもせず、くくっと小さく喉の奥で笑って、エアが答える。
待ち伏せされていた不快感もなく、ネメアは諭すように言った。
「不用心だと思うが。神殿の者たちが心配をする」
「わらわを誰だと思っている? そしてここを何処だと? このエルズには、わらわを害するような不届き者はおらぬよ」
からかうような物言いに、ネメアは静かな視線を返した。
エアの予言を聞こうと、多くの者が竜の座を訪れるが、未来を知りたいと願いながらも、すべてを見透かされるのが恐ろしいのか、多くの者はエアの前に来ると、頭を垂れて目を合わせることはしない。
たとえ顔を上げたとしても、落ち着かなさそうに目をそらす。
運命を知る巫女の視線を、真っ向から受け止め、見返すだけの強靱な意志の持ち主など――世界にはほとんどいないのだ。
その希有な目で、ネメアはエアに尋ねた。
「何故私を待っていた? 予言の必要はなくなったと言ったはずだが」
エアは視線をやわらげた。
「問い返そう。何故夜の浜辺を彷徨っている?
そう邪険にすることもなかろう。話し相手がいるというのは悪くないものじゃぞ。
そなたは、かの古の城塞にてまた一つ運命の駒を進め、わらわの元に来た。予言というのは口で伝えるだけのものとは限らぬよ。会いに来た。それだけですでに一つの予言をなすこともある。それはそなたが一番よく分かっておるじゃろう。勇者ネメアよ」
ネメアは揺るがぬ視線でエアを見据えたまま、黙っていた。
黒い甲冑は夜に沈んで、輪郭だけが影となって浮いている。月に照らされ、ネメアの金の髪と甲冑の装飾だけが淡く静かに光っていた。
まるで夜の海原で標となって光る星のように。
エアはふと唇をゆがめた。
「やはり英雄や勇者と呼ばれるのは気にくわぬか。
ではこう呼ぶとしようか、覇王ネメア。……どうやらその覚悟を固めたようじゃな」
不安だからではなく、ただ、知るために。
そのためだけに、ネメアはエアの元を訪れたのだ。
――己の身にウルグは降臨するのか。
エアの目前で問いかけることをやめたのは、答えを聞いたところで意味はないと気づいたからだ。
むしろバルザーの言葉通り、わざわざ確認をとろうとしたところで、すでに運命の手の内に乗せられつつあると悟ったのかもしれない。
ウルグの降臨が事実と言われたところで、ネメアは屈するつもりはなかった。どこまでも抗うだけだ。
……ただ、ここに来る最中、ネメアの脳裏に浮かんだ一つの策があった。諸刃の剣となるようなものでもあったが、試してみる価値があるとも思えるものだった。
闇の神器を、自らの手で集めてみる。
闇の気配を立ち、ウルグの降臨を阻止するための手段として、闇の道具がその力を解放する前に、自分の手中に収めておく。そのために世界に対して再び戦火を起こす。
もちろんネメア自身、この策が最善のものではないことは承知していた。
だが、これは同時に自分に対抗しうるものを見つけ出す方法でもあった。
バロルの動乱と呼ばれた暗黒期を、自分が打ち破ったように。
もしもウルグを打ち破る者が現れるとすれば、動乱の世界を乗り越えて現れるはずだ。闇の神器を集める自分の前に立ちはだかり、それを阻止しうるもの、そしてさらに闇の神器に支配されないだけの器量を持つものだけだろう。
闇に抗うことができるのは、濃い闇に手を伸ばし、なおかつそれを乗り越えられる者だけのはずだから。
全てを見通す巫女の目は、そんな英雄の思惑を正しく読んでいた。
その存在の不思議な在りようと、だからこそ運命に絡めとられる道の厳しさが、彼女の足を、夜の浜辺へと運ばせたのかもしれない。
「そなたは英雄と呼ばれることを厭い、勇者と呼ばれることを忌避するが、秩序が翳り始め、闇に侵されつつある世界の中では、強き者はただそれだけで、標の光として人の目にはうつる。
……皮肉なものじゃの。そなたはまさに英雄であればこそ、この世で一番ウルグに近い男なのじゃから」
エアの独白にも似た言葉は、ただ風に乗り、海原へと消えていった。
それだけ強い輝きを持つからこそ、ネメアは英雄としてあがめられ、同時に破壊神をその身に宿すだけの器量があると世に広く示してしまう。
もしもネメアがもっと弱ければ――ここまで昂然と闇に抗うと宣言し、それができうるだけの力量の持ち主でなければ――おそらくウルグの方からネメアを見限っていただろう。
金剛石は金剛石によって磨かれる。
あるいは金剛石で破壊されないものは金剛石しかない。
英雄という存在は、実はこの世で一番、魔王に近い存在なのだ。
共に現世に生きる者として並外れた力を持ち、仇なす方は魔王と呼ばれて恐れられ、救う側は英雄と呼ばれてあがめられる。英雄と魔王は所詮どちらも根は同じ、表裏一体の関係だ。
それがあればこそ、エアにとってネメアは『読みやすい』相手だった。
覇王となることも、その先々で流れる血も、その末路に待ち受ける深遠な闇も。
小さな星の輝きはかすんで見づらいが、強く大きく輝く星の光はよく見えるように、ネメアは運命を厭いながら、誰よりも運命の呪縛を色濃く宿す男だった。
……いや。
それほど濃く重いものを背負うからこそ、彼はそれを厭い、抗うのだろう。
不意にネメアが口を開いた。
「風の巫女よ。そなたの持つ水晶球は、天地千年を見通すと言うが、その水晶球であっても見えぬもの、定まらぬものを知っているか」
「愚かなことを。わらわの水晶球で視えぬものなど存在せぬ」
エアは一笑に伏したが、構わずネメアは続けた。
「リベルダムで良い目をした若者と会った。見れば一目で分かるものなのだな。無限のソウルの持ち主は」
「今生に現れ出た無限のソウルの存在なら、わらわとて、とうに知っておる。それが……」
「ならばまだ全ての未来は、定まったわけではないはずだ」
エアの言葉を遮るようにして、ネメアは言葉を重ねた。
エアは不審気な眼差しを、覇王の道へ突き進む男に向けた。
「……そなた、まさか自分の運命の改変に、無限のソウルを利用しようと考えておるのか?」
「違う。もしも世界に無限のソウルがあるならば、巡り合わせの縁もあるだろう。
私は、己の可能性に賭けてみたいと思っているだけだ。希望があるうちは勝利もまたある」
「笑止な。英雄が希望などと軟弱な言葉を吐くとは」
「風の巫女よ。なぜ希望を笑う?」
エアの言葉に、真面目な表情でネメアは返した。そして目の前の風の巫女を見下ろした。
「……いや。希望を、怖れているのか?」
「怖れるなど……!」
エアは珍しく声を荒げ、不機嫌な表情でネメアから視線を外した。
確かにネメアの言葉が、自分の心の一端を鋭く衝いたのは、否めなかった。
エアにとって、視えることは、事実であり、全てだった。たとえそこに至る道に多少のぶれやねじれがあっても、最終的な答えはすでに定められている。だとしたらどの道を選んでも同じだ。
エアの中に、遙か昔から受け継がれてきた『エア』の記憶と姿、それから風吹きすさぶエルズの大気を従え、悠然と翼をはためかせる雄々しい姿が浮かんだ。
神に近い存在として、畏れられ、敬われる、空を翔る竜の王。
望むことは――裏切りであり、痛みだ。
エアの秘密と内面を、ネメアが知っているとは思えない。おそらくネメアは自分自身のことを語っているに過ぎないのだろう。
「私は運命に抗うつもりだ。どこまでも」
闇のかなたを見据え、独り言のようにネメアは断言した。
彼にとって、抗うことは、挑むことであり、望むこと、賭けることなのだ。
たとえどのような結末が待ち受けていようとも――いや、待ち受ける結末に関わらず。
定まっている未来ではなく、今この場に立ち、その都度考え動く、自分自身の意志こそを尊重する。そのためには世界も動かす、と。
……それは、エアとは対極の生き方だった。
それからネメアは付け足すように告げた。
「もしかしたら、私を追って、無限のソウルの持ち主が、じきにここエルズを訪れるかもしれない。
その者が運命を変えると信じるに値するかどうか――己が目で確かめてみるがいいだろう」
希望とは在るものではなく、見いだし抱くものだ。ネメアは無限のソウルの可能性に賭けるのではなく、その者と交差するかもしれない、自分の道に賭けるといった。
だが、それはわらわには、関係のないことじゃ。
傾きかけた心を正すように、エアは背を伸ばし、ネメアに背を向ける。
「わらわは予見の力を持つ巫女、運命を見ることが仕事、それがわらわの居場所よ。
無限のソウルの行く末もそなたの道も見届けることとしよう。さらばじゃネメア。達者でな」
二度とネメアが自分に予言を聞きに来ることはないだろうと承知した上で、エアは別れの言葉を放つ。
そのまま瞬間移動の呪文を唱え、ネメアの前から立ち去った。
――英雄の星の元に生まれ、破壊神の星を抱く者が彼ならば、自分は風の巫女の星に生まれた者。どうあっても変えられぬ。
エアは心で呟き、それ以上の考えを閉め出した。
だが彼女は失念している。不変の事柄などどこにもない。常に同じ巡りをしているだけに見える星さえも、気の遠くなるような時間をかければ、その輝きもかわるのだ。
選ぶべき道が今はまだ無くとも、未来永劫そのままとは限らない。『視えるもの』そのものが変わることさえ、実は世界にはあるのだ。
エルズの浜辺には金の髪をした覇王と、空の果てと溶けあってどこまでも続くと思わせる闇夜の海原、それからひそやかな星の瞬きだけが残された。
星は見えるものか、見出すものか。
索漠とした思いと、なにがしらの淡い期待を抱いて、風の巫女は水晶球の中で、夜の海と、金の髪をした覇王を見つめている。
2012-08-21
- うつろいゆくもの
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