王者の星
猫屋敷の窓の外に広がる空の色は、深い紫に染まっていた。早い星が、空の向こうで、薄い光を放ち始めている。
魔王となり闇の円卓の騎士を従えたバロルの姿は、世界に暗い影を落としていた。
今はまだ黄昏だが、このまま放置しておけば必ず夜がくる。バロルの背後に控えている闇が、世界を覆い尽くす。
今ここに集っている者は、おそらく世界の中で誰よりも強く、忍び来る夜の気配を感じている者たちだった。回避するためには、今すぐに手を打たなければならないことも知っている者たち……なのだが。
「バロルなんか放っておきなさい」
窓辺に立ったオルファウスは、落ち着いてそう言った。
その言葉に、ネメアは視線をあげ、ケリュネイアは絶句する。レーグは無言で、煩わしいことには介入したくないとばかりに、居間の片隅で二双の愛剣を黙々と磨き続けていた。
さすがに閃光の牝鹿だけあって、ケリュネイアは問題発言の衝撃からすばやく立ち直ると、その発言に噛みついた。
「父さん、何を言っているのよ! こんな時に、ふざけるのはやめて」
「私は別にふざけてなんかいませんよ」
「じゃあ何だって言うのよ!」
「理由ですか。理由は……そうですねえ。言えません」
「父さん!」
怒りで顔を真っ赤にしているケリュネイアを無視して、オルファウスは椅子に腰掛けたまま微動だにしない息子を見つめた。
ネメアは誰に告げるともなく、静かに答えた。
「ここで私たちが行かなければ、世界は滅ぶ」
「そうとも限らないでしょうに」
長年の時を経てきたオルファウスにとって、傍観というのは当たり前の方法だった。
世界の移り変わりは想像以上に早く激しい。一つの帝国の崩壊も、一つの皇族の断絶も、あっという間に時の彼方へと消えていく。代わりに人は新たな国を建て、新たな君主のもとで再び活動を始める。
おそらく世界は、思っているほど強靱ではないかわりに、思っているほど軟弱でもないのだ。
崩壊は不意に訪れ、しかし再生の芽も即座に息吹く。
だから息子に教えたかった。
もし本気で運命に抗うつもりなら――世界の危機など放っておいて、沈黙を選べばいい。
出来の良いこの息子なら、父の言葉にこめられていた意味をわかっただろう。
だが顔を上げ、こちらを見つめ返したネメアの目に浮かんだ色は、オルファウスには見慣れたものだった。
「父よ。私は、あなたのようには、割り切れないのだ」
この子はいつもこんな目をする。
まだ若いというのに、苦渋に満ちた顔で、眉間に皺を寄せて、己の意志を口にする。
そうすることで、自己の存在を確かめるように。
「……本当に、しょうのない子ですねえ」
オルファウスにしては珍しく、本音の混じった言葉がもれた。
ネメアはこういう道を選ぶ。選んでしまう。そういう子なのだ。
そう悟った瞬間、自分の心によぎった思いを、どう名付けるのか分からなかった。どこか諦めに似ていて、それでいて少し誇りにも思って、わずかばかりの愛惜や憐れみも混じって――放っておけなくなる。
「仕方ない、つきあってあげましょう」
こうして伝説が生まれた。
本人が望む望まずに関わらず、彼の名声は世界の彼方にまで響き渡り、魔王バロルを倒した英雄としての姿を世界に刻んだ。
預言は成就し、運命はまた一歩、彼に近づいた。
*
オルファウスはぼんやりと窓の外を眺めていた。
猫屋敷はいつだって緑の中に埋もれているが、眩しい光が降り注ぐこの季節は、緑が一段と輝きを増して生い茂っている。
「あの子が生まれたのは、夏なんですよねえ」
密に葉を茂らせた賢者の森の入り口の大樹は、常よりも濃く暗い影を地面に落としていた。
その影に呑まれるように、エスリンの亡骸は捨てられていた。
まさか死んだ娘の胎内から赤子をとりあげるなどという離れ業をやってのける者が存在するなど、魔王バロルは予測できなかっただろう。
だが、その離れ業の主である森の賢者は、助ける手段をもっていたから助けただけで、助けたその子を放っておけなかったから育てただけだった。
英雄を育てあげる気も、歴史の主役を養育している気もまるでなかった。子育てという未知の経験は、オルファウスにとって楽しいものだった。それだけのことだった。
しかし育てられた息子の方は、そうは思えなかったらしい。
見ていれば分かる。自分の生まれてきた意味を問い続けていた。考えなくても明日は来ると、オルファウスなら笑いとばせるが、ネメアはそういうタイプではなかった。
「獅子宮の生まれ――本当にぴったりですよね。獅子の心を持った子に育ってしまいました」
「王者の星だな」
窓辺でうずくまっていたネモは、合いの手を入れてやった。
今日はネメアの誕生日だったと今更のように思い出したのだ。
「ええ。だから、隠者の生き方はできなかったんでしょう」
息子のそういう葛藤を見抜いていたから、オルファウスは、バロルなんて放っておいて隠棲してしまえと言ったのだが、ネメアは世界を救う手段と力があるのに見過ごすことはできないと答えた。
その言葉は、遠回しにオルファウスのことを指しているようでもあって。
あのとき赤子のネメアを助けたこと。
それが結果として運命の後押しをすることになっても、知った事じゃないと割り切ってしまえること。
――私がそうしたかったからです。
オルファウスがそう答えるなら、ネメアもまた同様に答えるだろう。けれど選んだ方法は正反対だ。
オルファウスは隠者として世界の片隅で、自分の心が欲することに自分の意志を見いだす。ネメアは王者として世界と真正面から関わって、己の存在と選択は紛れもなく己の意志によるものと証を打ち立てる。
――そうすることで自分の存在を確かめたいのだ。
だがネメアの選んだ行動は、結果として彼自身を預言された運命に近づける。
バロル討伐のときもそうだったし……その後の、エリュマルク帝即位に関してもそうだった。
バロル討伐後、誰もがエリュマルクではなくネメアが帝位につくことを望んでいたが、ネメアは自分の意志に反するとそれを固辞して、エリュマルクを皇帝に推した。
バロルを討ったのは帝位が欲しかったからではないし、真の英雄は自分ではなく、他にいる。この動乱の影でイズの封印を解いてくれた『彼等』の活躍があってこそのものだと。
しかしその結果、エリュマルク帝はネメアに対する嫉妬心から、闇に蝕まれた。
そのときネメアが抱いた感情は何だったろう。自分の認識不足に対する後悔と運命への畏怖と、それらを上回る、王者らしい闘争心だったか。
獅子の心を持った息子は、今度は自ら帝位について、世界を相手に己の存在を問う戦いを挑んだ。
……そうやって彼は、運命に抗いながら、縛られていく。
「私の息子なら、もうちょっと融通のきく性格に育っても良かったはずなんですけどねえ。何をどう間違って、あんな生真面目で意固地な堅物に育ってしまったんでしょうね」
「十分お前の息子だ。その証拠に、今、立派にぐれているじゃねえか」
「ネモ、こういう時は普通、慰めの言葉をかけるものですよ」
「慰めたつもりだぜ? 親子だからやっぱり似てるんだって、言ってやってるんだぞ」
「そうですか。ありがとうと言っておきましょう」
確かに、ネメアと自分は似ているのだろう。
まるで親に反発するように、同じ距離だけ、逆の方向へと進んでいく。
隠者であり傍観者であるオルファウスだから見えてしまうものもある。ネメアはやりかたを変えない限り、運命にひきずられ続けるだろう。だが王者の星を抱いて生きている者に、お前の中にある星を捨てろとは言えない。
「自分の誕生日くらい、顔を見せに帰ってきてもいいでしょうにねえ」
ハーフエルフの娘の方は時折顔を見せに帰ってくるが、息子の方はここ数年姿を見せていない。
代わりに、噂だけが流れてくる。
最初は報われない英雄に対する、同情的な噂。
最近は、覇王となった彼への小さな批判と不安の混じった噂。
それから、少しばかりの時が流れて。
*
「父よ、久しいな。闇の神器をもらいうけに来た」
久しぶりに会った息子はまるで変わっていなかった。この子らしい、とオルファウスは心の中で苦笑する。だからオルファウスもいつも通りに応対してやる。
「久しぶりに帰ってきたと思ったら、さっそくおねだりですか? おみやげを持ってくるくらいが普通なんですが、育て方を間違えましたかねえ」
ネメア、あなたがあくまで運命と戦うというのならば、黙ってみているわけにはいかないでしょう。
王者には王者の戦い方があるように。隠者には隠者の戦い方がある。
どこか諦めに似ていて、それでいて少し誇りにも思って、わずかばかりの愛惜や憐れみも混じって――放っておけない。
今のオルファウスなら、多分これが親心というものなのだろうとわかる。
――――ネメアは地に落ちた魂吸いの指輪を手に取った。
「父よ、あなたの意志、確かに受け取った」
2006-08-17
- 王者の星
- 祈りの種・前編