祈りの種・前編 

 広場の中央の水盤は、五月の空を映して、青く澄んだ光できらめく。
 正面には、大きく枝を広げた千年樹がそびえている。かなりの樹齢であるはずの巨木は、みずみずしく若葉をしげらせ、初夏の陽光を浴びて、梢を風にそよがせている。葉が揺れるたびに、囁くような葉擦れの音が降り、光の雫が木陰で踊った。
 ……いい気持ちね。
 水盤の縁に腰かけたカフィンは、味わうように緑の風を吸い込む。
 文句のつけようもない極上の昼下がりだ。
 それをぶちこわした、この一言。

「ダルケニスというのは、恐ろしい種族でな」

 ……このじじい。
 カフィンは悪態をついて、瞳を尖らせて枯れ木のような細い老人の背を睨んだ。
 旅人との会話を終えた老人は、何気なく水盤の方を見やり、そこに腰掛けている赤い影に気づくと、とびのくように身を引いた。
「おぬしのその姿! も、もしや……」
「あら、おじいちゃん。ファッションよファッション。似合うでしょ?」
 剣呑の棘を薔薇に変えて、軽くしなをつくってみせると、老人は顔を赤らめて、今時の若者はとぶつぶつ言いながら、頭を振ってその場を早足で立ち去った。
 あたし、本当は若くないのよ、おじいちゃん。
 心の中でこっそり呟く。素のままで現役として通用していることだから、ありがたく受け取っておくか。
 誘惑の術をマスターしているカフィンだったが、老人相手にそれを駆使する気はなかった。自分の美貌も若さも、そんなに安物じゃないのだ。


 ロストールは差別意識が強い。
 貴族・平民という身分制度にがんじがらめになった心が、別のはけ口を求めるのか、種族差別も強く行われている。
 大都市であれば、人間族以外の姿をみかける機会も多いはずだが、ここロストールに限っては、人口の9割が人間族だ。他種族にとっては、住みにくく居心地の悪い環境だということだ。
 ダルケニスについて旅人にあることないこと吹き込んでいる老人の呟きと、ロストールのお国柄。それがカフィンの胸の奥にある、一つの記憶と結びついた。
 ――カミラ。
 ダルケニスである自分の娘は、この国で生きていくと告げた。
 きっぱりと告げられたその言葉には、すでに心を決めた者の強さがあった。
 今思えば、そのときカミラのお腹の中には、レムオンが居たのだ。



 以前の自分は、サラシェラと名乗っていた。
 バロルの五星の一人としてバロルに仕え、彼のディンガル統一の手助けをした。
 その壮大な目標が達成されたのを見届けて、バロルの配下をやめた。
 ひとところに長く居られる身ではないことは、自分でよくわかっていた。
 ふいにあらわれて、仲間たちと過ごして、目的が果たせたら、いつの間にか姿を消して、風のように人の世を渡り歩いていく。そういう生き方をしていこうと決めていた。そうやって生き続けて、そろそろ百年近くになろうとしていた。
 良い思い出をつくることができたなら、心おきなく立ち去れる。
 そう思ってのことだったのに、自分が去った後、バロルの身辺は次第に色を変えていった。
 希望の色に輝いていたはずの新しい帝国の姿は見あたらず、気づけば黒く深い闇の色ばかりが目についた。


 歯車は一つ狂うと、連鎖反応で瓦解へつながる。
 陽気で熱血なアンギルダン、陰気でとっつくきにくい理屈屋のゾフォル、仮面に素顔を隠して一人の男を慕い続けたキャスリオン。
 変わり者たちの中には自分も交じっていた。みんな、それほど悪い奴ではなかった。そう思うのに。


 キャスリオンの死が、きっかけだったそうだ。
 仮面を外し、思いを告げ、ようやくバロルと結ばれ、子供にも恵まれ、先々の夢を見ていた彼女は、バロルの身代わりとなって、毒を飲んで命を落とした。
 深い嘆きと悲しみを、憎しみと怒りに変えて、バロルはそれまでの急進すぎる改革の、さらに先へと突き進んだ。粛正の名を借りた、自分を阻害する者たちの殺戮へ。
 闇と憎しみに心を焼かれたバロルを魔人にしたのは、ゾフォルだった。そこにはゾフォルの力だけでなく、裏でそれを手助けをした別の者の力も働いていたらしいけれど。
 豪気で寛容な、あの男――アンギルダンは、バロルが闇にむしばまれている間も彼を見捨てず、懸命に諫め続けたそうだ。だが魔人となったバロルは彼を処刑しようとした。バロルの元を離れたアンギルダンは、今度は傭兵として、各地でバロルに対抗する側へと回った。

 それらの噂を聞くたびに、かすかに胸が痛み、けれどどこかで仕方のないことという諦めまじりの気持ちで眺めていた。
 どうしてこんなことに……と嘆くほど、物知らずのままではいられなかった。
 長く生きていれば、知らず知らずのうちに、見切りをつけるという方法を覚えてしまう。
 人はどうしたって変わっていく。
 花を渡る蝶のように、一時の恋ならたくさんした。けれど深入りはしない。変わっていく人間の営みの中を、自分は名前を変えて渡っていく。
 ――それは、ダルケニスのさだめのようなものだと思っていた。
 人間のふりをして人間の中に交じって暮らして。
 けれど狩られる立場の身であれば。時の流れ方が決定的に違っていれば。ひとところに長くはいられない。

 サラシェラの思い出をしまったのと同時に、カフィンという名前を身につけた。
 娘と再会したのは、カフィンとなってまだ日の浅い頃だった。




 ロストールの街角で、偶然姿を見かけたのが再会だった。
 銀の髪の色を変えて、赤い瞳を黒い皮膜で覆って、細い身体にみすぼらしい服を纏って。
 灰色の人間の都市の中で、けれどくすんだ印象は受けなかった。内側からにじみ出る、芯の通った凛としたものがカミラを包んでいた。
 自分に気づいてぎくりとカミラは足を止めたが、背を向けて素知らぬふりをして通り過ぎることはせずに、ぎこちない笑みを浮かべて、自分を迎えてくれた。
 カフィンも気軽さを装って声をかける。

 ――久しぶりね。元気でやってるの?
 ――ええ。
 ――今は、ここに?
 ――ええ。
 ――この国は住みにくいでしょ?
 ――そうでも、ないわよ。

 ダルケニスである娘は、自分とは違う生き方を選んだ。
 いや、たぶん、自分の方が特殊なのだろう。求める日常が違ったのだ。変わりゆく世界の息吹を感じ取れる場所で、自分の力を生かして、渡り歩いていきたかった。
 娘は、もっと静かな、落ち着いた生活を求めた。
 だから互いに離れて暮らしていた。遠い空の下で、たぶん元気にやっているのだろうと思いながら、背を向け合うようにして、それぞれの場所で生活を営んで。そうやって何十年も過ごしてきた。
 けれど、刃がひらめき陰謀が交錯する戦場であろうと、夕餉の支度の調えられた暖かな小さな家屋であろうと、重ねる日常が違っても、いつまでも同じ所で、同じように生き続けることができないのは、一緒だ。

 目の前にいる娘は、見た目こそ、二十歳そこそこの若く美しい姿をしているが、人間の年齢に換算すれば五十は過ぎている。

 ……自分の生き方が特殊なのだとは思っている。だが、戦場であれば毎日が目まぐるしい興奮と熱気の連続で、人の目も、目の前の戦いから、すぐさま次の戦いへ、戦いが終わった後の、新しい場所へと移っていく。
 気まぐれにあらわれて、気づけば姿を消している女が、いつ見ても同じような年齢でいることは、気づきにくい。
 動かない、平穏な暮らしの中の方が、異端は目立つのだ。
 だがカフィンが口を開くよりも先に、カミラは言った。

 ――大丈夫。私は、この国で生きていくわ。

 今思えば、この言葉はカフィンを安心させるためのものであり、カミラの決意だったのに。
 自分はそれを、自分に対する密かな拒絶のようにとった。

 人間社会にとけ込んで、うまくやっているダルケニスは、同族に会うと、懐かしさを浮かべるよりも先に、少し怯えたような顔をする。
 見たくない鏡を突きつけられて、目をそらすのだ。
 正体を隠して生きていることを思い出して……隠さなければならない自分の中の血を疎んで。
 そんな風に思って生きていくのは悲しい。
 カフィンが、人間の輪の中に交じって、時には色恋の絡んだやりとりも交わしても、人間の集落に身を落ち着けることを拒むのは、内心にそんな思いがあるからだ。

 あたしはあたしとして生きていく。息を潜めて、自分の血も、姿も、心も、いろんなものを偽り続けて生きていたくはない。

 口にしたことはない。だが態度ににじみ出ているのか、何度か同族から忠告を受けた。
 君の生き方は目立ちすぎると。それは場合によっては危険を呼ぶと。
 自分の姿を見て、足を止めたカミラ。
 街角の建物の影から姿を現した肉親は、平穏で落ち着いた生活は仮初めにすぎないと知らしめる、影の国の使者のように見えただろうか。

 ――そう。無事でいるのならいいのよ。また次に会った時に、お互い生きていることを喜び合いましょ。じゃあ、元気でね。

 言いたいことはたくさんあった。けれどどういう言葉を交わせばいいのか分からない。
 だから中身のない、こんな言葉で再会をしめくくる。
 背を向けたカフィンに、カミラが声をかけた。

 ――母さん。

 娘の目がただじっと、自分を見て。それから自分の身のことは、何一つ言わずに、母の身を案じた言葉をかけた。

 ――気をつけて。あまり危ないことは、しないでね。
 ――大丈夫よ。あたしはね、腕が立つの。

 なにせバロルの五星として活躍していたくらいなのよ。
 冗談で続けようとして辞めた。きっとカミラは笑わない。表には出さなくても、心で眉をひそめるのだろう。
 そう思ってしまったのは、自分の中にそう思われるだろうという、引け目のようなものがあったからだ。人間の集落の中で、姿を偽り、息を潜めて生きていく ダルケニス。カミラの向こうに、そんな同族の姿を見ていた。彼らに対して、憐れみと同情と、自分はそうならないという微かな反発と気概を抱いて。
 ……隠さなければならない自分の中の血を疎んで、目をそらしていたのは自分の方だ。

 そして娘の前から去った。これがカミラと交わした、最後の言葉となった。

 

 再びロストールを訪れた時、娘の姿はなかった。
 この国も、世界も、大きく揺れていた。そんな中では一人の「人間として」生きている女性の行方など、簡単にかすんでしまう。

 ロストールを支える七つの血筋――七竜家の一つ、リューガ家の当主が婚礼をあげた。相手はやはり七竜家の一つハイバーン家の令嬢だそう。上に立つ者は、同じ人間同士で、身分をもうけて格差をつくり、それを秩序と呼ぶことに、何の疑問ももたない。
 闇に落ちたバロルの勢いはとどまることを知らず、その力は、少しずつ国外へとおよび始めていた。
 闇は闇を呼ぶのだろうか。ディンガル国内の混乱の隙を狙って、ロストール王フェロヒアがディンガルの進撃を開始した。リューガの当主の進言だったそう。愚かなことを。
 彼らが甘く見ている魔王バロルのことも、戦場で流される血のことも、よく知っていた。
 普通の生き方をしていれば知らないことも、知る機会に恵まれたから。
 自分がそういう生き方を選んだのだ。
 ……でもあたしはもう、サラシェラじゃない。

 小耳に挟んだ、ロストールのうわさ話。
 ――リューガの当主と、奥方との間はうまくいっていないらしい。
 ――夜な夜な、別の女の所を渡り歩いているそうだ。
 ――ずいぶん変わった嗜好の持ち主で、異種族の女を特に好むらしいぜ。
 ――奥方はとても良くできた方だそうじゃないか。いったい貴族ってのは、何を考えているのかねえ。
 さらさらと耳を通り過ぎる、人の声。
 そのリューガの当主も亡くなって、今は幼い子供が家督を継ぎ、その良くできたという評判の奥方が子供の後見人としてリューガの家を背負っているそうだ。
 あたしには関係のないこと。
 そうやって通り過ぎてしまったものが、あとで意味を持つことも、生きている中でよくあること。

 女性関係が派手で、無能な先代当主。
 なんでも今の奥方を娶る前、本当は心に決めた人がいたらしい。
 引き離されて女の方は、この国を、追放されたそうだ――。
 もう過去の話となってしまった、それを聞いたとき、ようやく足を止めた。
 ……まさか。

 嫌な予感ほど、当たってしまう。
 娘の行方を本気で探し始めて、ロストール近辺の森の奥でダルケニス狩りがあったことを知った。

2006-11-05