甘い毒
貴族の娘らしからぬ質素な普段着に身を包んだエリスは、てきぱきと作業台の上で手を動かしていた。
リズミカルな包丁の音が響き、野菜が測ったように同じ大きさに切り揃えられて、籠にあけられる。慣れた手つきで、沸かしたお湯の中に野菜を入れ、塩をひとつまみ、ふりいれる。
ごく当たり前の何気ない仕草も、エリスの白い指先で行われると、魔法でもかけているかのようだ。
実際に魔法が働いていたのかもしれない。エリスの料理はどれも皆、信じられないほどに旨かった。屋敷の料理長にも負けないほど。
「なんだ? つまみ食いにでも来たのか」
エリスがちらりと後ろをふりかえり、目の端に笑みを含ませた。
どことなくばつの悪さに似たものを感じたが、料理が仕上がるのを見たくて立ち去りがたく、その場を出て行くことはしなかった。
側の椅子を引き寄せて座り、背もたれに顎をのせるようにしてエリスの方を向いて、足をふらつかせると、エリスは小さく笑った。
「催促か。厨房でもどこでも、お前は気づくと顔を出してるな」
エリスはまんざらでもなさそうな口調でそう言い、再び作業台に向き直り、今度は温野菜に絡ませるソースを手際よくかき混ぜる。
さばさばとした口調は、聞く者にはよっては、素っ気なく冷たい響きに聞こえるらしい。だが、ちゃんと聞けば、その声の奥にはからかうような暖かみがあって、耳に心地よく残る。
後になっても、何度もその響きを繰り返すことができるほどに。
「なあ。俺の誕生日にはさ、ケーキを焼いてくれよ」
そんなエリスの姿を見ながら放った言葉は、ほんの戯れに出したものだった。
弟が姉に甘えるようなそんな心情だったのかもしれない。本当はもう少し違うものを求めていたのかもしれないが、そのときはまだ、憧れと慕情が区別できるほどの深さは、自分の心にはなかった。
相手が自分よりも年上の、立派な一人前の女であれば、なおさらだ。
「料理長が立派なのを焼いてくれるだろう」
「どうも俺を、小さな子供と勘違いしてるらしくてさ。やたらめったら甘くてねえ」
「甘いものは好きではなかったか?」
「ああまでこってりやられると、ちょっとばかり遠慮したくもなるさ」
「それでは、砂糖の代わりにブランデーでも入れてやるとするか」
「本当か。絶対だぜ?」
まだ子供のくせに口だけは一人前だな、とエリスは笑った。
子供じゃねえや、と言い返そうとしてやめた。そんなことを言えば、ますます子供扱いされることは目に見えていた。
その年の誕生日、本当にエリスはケーキを焼いてくれた。
言葉通り、スポンジにはブランデーが含ませてあった。一口かじってのどを通ったときの甘さは、砂糖とは違って――もっと濃厚で、胃に染みこむようだった。
エリスがケーキを焼いてくれたのは、その一回切りだった。
嫁ぎ先の王宮のごたごたで、それどころではなくなった。料理上手という密かな特技は、毒を駆使するファーロスの女狐という呼称に紛れて、ほとんど知る者は居なくなった。
だから、その味を知っている者は、さらに少ない。
*
開戦直前だというのに、王宮内は薄気味悪いほど静かだった。活気も喧噪も混乱もありはしない。ほとんどの貴族が登城を拒否して、それぞれの屋敷に籠もっているせいだった。兵士はかき集められて、すでに戦場へと出払っていた。
抜け殻のような玉座の前に、王妃は真紅のドレスに身を包んで、一人佇んでいる。
「叔母貴、一応聞いておく。あんたひとりなら、生き延びる手はあるんだろ?」
「私には守るべき夫と娘がいる。そなたこそ、ひとりなら生き延びる手はあろう?」
ゼネテスの問いかけに、エリスは迷いのない滑らかな口調で答えた。
端然と落ち着いた、年上の姉が弟をなだめるようなその響きは、昔から変わらなかった。
どんな状況にあっても、エリスは美しかった。気品に溢れた凛とした姿勢を崩さず、心持ちつり上がり気味の端麗な目元は、冷静さを保ったままだ。きめ細やかな白い肌は、透き通るような輝きを放って、何の憂いもなく涼しげにさえ見える。
……どこまでいっても、やっぱり駄目かねえ。
ゼネテスは、心の中で嘆息する。
料理をしているエリスを見ながら、でも厨房の似合う女性じゃない、と思ったのは、この唇のせいだった。
形よく尖った唇は、鍋の蓋を開けたときにあがった蒸気の中でも、ひときわ赤くよく目立った。日常生活の枠の中に収まっては居られないという、意志の強さが滲んでいた。
王妃となったエリスは、知略をその舌に乗せ、国を動かした。
その唇は自分が相手の時には魅惑の笑みを刻み、同時に真意をつかませない遠回しな拒否を紡ぎ続けた。
「俺にも守るべきいろんなものがあるんでな。じゃあ叔母貴、天国で会おうや」
「フフ、ずうずうしいものだな。地獄こそが、私にもそなたにもふさわしかろう」
エリスの唇に笑みが浮かぶ。自分はその赤い唇が、決してこういう時だけではなく、もっと違う形で楽しげにゆるむことを知っている。その白い指が実に器用に動いて、どれほど手際よく旨い料理を作るか知っている。
そこにとどまっていられない女性であることも、よく分かっていたが。
「愛する誰かのために一生懸命な人間は、天国に行くんだよ、叔母貴」
せめてこれくらいは許されても良いだろうと思いながら告げたゼネテスの言葉に、エリスは答えることなく、薄い笑みを崩さなかった。肯定も否定もしないその姿に、最後までかなわないなと思う。
退出しようと背を向けて、告げる。
「もし戻ってこれたら、また手料理をごちそうしてくれ」
「私の料理を所望するなど、お前も物好きだな」
「できたら、ケーキを焼いて欲しいな。ご褒美に」
後ろでエリスが小さく笑う気配がした。
「またブランデーでも入れてやるとするか」
――覚えているんだな。いや忘れないのだろう、そういう人だ。
あのとき食べたケーキの思っていた以上の強い甘みは、舌を焦がしただけでなく、心にじわりと染みこんで、何年経っても消えなかった。
まるで毒のように、密やかに、身を焦がし続ける。
その甘美な味を知る者の一人であれて良かったと、ゼネテスは今このときにも、思っている。
2006-12-16
- 翡翠の予感
- 甘い毒