翡翠の予感
壮麗な音楽が、大広間を包んでいる。
華やかに笑いさざめく人の群れの間を、私は滑るように、すり抜けるようにして歩いていた。
どこに行こうというわけでもなく、誰に会いたいというわけでもなく、ただ、落ち着かなかっただけだ。
社交界は苦手だった。色鮮やかなドレスの群れは、他を押しのけて咲こうと躍起になって花弁を開く大輪の花々。その強すぎる色と香の側にいると、私は私を見失いそうになる。
高いかかとの靴を履いて踊るより、室内で静かに書物を読んでいる方が好きだった。誰もいない庭園を一人散歩している方が好きだった。
そんな私を、父も母も心配し……持てあましているようだった。
『お前もハイバーンの家の者なら、もう少し表に出て、人と交わってくれ』
父にそう言われ、半ば無理矢理、今夜の舞踏会へと駆り出されたのだ。
貴族社会において、いかに他家とうまく、有利に交際をするかは重要な仕事の一つでもある。直接政治には関わることのない、年頃の娘であってもだ。いや年頃の娘だからこそ、こうした場所で顔を売っておく必要があるのだろう。
縁談はできるならこちらから申し込むより、申し込まれる方がいい。その方が、女性としての品位が保てるし、当人の魅力と家の格が高いという証となるのだそうだ。
『ファーロスのようなやり方は、品がなくていけない。あれでは野蛮なディンガルとかわりないではないか』
顔をしかめて父は言った。ファーロス秘蔵の令嬢のことだと、すぐに分かった。
かの家では、娘を王家へ嫁がせようと、必死に画策している最中だそうだ。このまま行けば、現王弟の妻の座は確実だという。
ファーロスの強引なやり口は、同じ七竜家の当主として、父には気に入らないらしい。
顔は美しいそうだが中身はどうかな。何でも女のくせに剣を習い、政治にもこざかしく口を挟む娘だと聞いたが。
そんな父の言葉に母も頷いて笑う。
女性は、奥ゆかしく、それでいて艶やかに美しいことが大切でしょうに。ねえ? スム。
この国には、貴族社会には、そんな無言の圧力が常に満ちている。
華やかな笑い声と流行のドレスの下に、醜悪な権力欲と、頑なな伝統意識を隠して。
私は、ここに何をしに来ているのだろう。
――早く、帰りたくてたまらない。
「落ちましたよ」
そう声をかけられ、足を止める。振り返れば、相手の手の中に、見覚えのある髪飾りがあった。
慌てて髪に手を当てる。確かめるまでもなく、髪の一房がほつれて、背中に流れていた。そんな私の仕草を見て、彼は苦笑を浮かべ、優雅な歩みで私の側に寄ってきた。
「失礼」
自然な動きで、私の背後に立ち、さっと髪をすくい上げて、元のように留めてくれた。
器用で繊細な手つきだった。髪に触れられた瞬間に、女性の扱いに慣れている人なのだということが、よく分かった。
「美しい石ですね。異国の翡翠という品でしょう」
背後で囁かれて、一瞬うなじの辺りが熱くなる。
赤くなってませんようにと、とっさに祈った。
それに気づかなかったのか、気づいても気づかないふりをするだけの礼儀を身につけているからか。
いや彼にとっては、相手のこんな反応は日常茶飯事、予想内の出来事で、気にも留めないことなのかもしれない。
顔に陰がかかった。
いつの間にか私の前に回り込んでいた彼が、私をのぞき込むようにして言った。
「翡翠の瞳をしているのですね。貴女によく似合う色だ。……ハイバーン家のスム様でしょう?」
一曲お相手を。何がどう流れたのか分からぬまま、彼に手を取られ、私は気づけば曲に乗って、あれほど厭わしいと思っていた人の輪に混じり、彼に身を預けて、踊っていた。
洒脱で洗練された身のこなし、優雅な仕草とそれとなく空気を読んで、自然にその流れに乗る。機知にも富み、こうした場が誰よりもよく似合う――エリエナイ公。
誰もが思わず足を止めて、憧れの眼差しを注いでしまう美貌の持ち主だと聞いていた。
噂は、嘘ではなかった。その華やかな容姿と振る舞いゆえに、浮き名は数多く、恋の相手に事欠かないという話の方も、きっと本当だろう。こうして、自分に手をさしのべて踊りに誘った一連の仕草でよく分かる。
おそらく、こういうことが自然で、当たり前の人なのだ。悪気もなく、様々な花を引き寄せて、摘んで、そして次の花へと手を伸ばす。そういう人。
自分とは、まるで違う人。
――好きになったら、不幸になる相手だな、と。
特別な予感ではなく、女なら誰でも持っている、相手を見定める目で、そう思った。
……それでも惹かれてしまう一瞬があることは、そのときまで知らなかったけれど。
不幸になると分かっていても、それでも。
2008-08-25
なんとなくレムパパは、レムオンとは正反対な気がしたので、社交的で華やか、口がうまくて無邪気な天然のプレイボーイ、ついでに超絶美形になりました(笑)