薔薇の下で・後編
叩くような雨音が響いている。厚い雨雲が空を覆い、昼だというのに窓の外は重く暗かった。
陰鬱な雨と同様、屋敷もしめった重苦しい気配に包まれていた。
臨終間際のスムは、人を払い、レムオンを自分の側に呼んで言葉を交わした。何を語ったのかは誰も知らなかった。その後、レムオンが急に姿を消したからだ。
亡くなった女主人の葬儀の準備と、行方の知れなくなったリューガ当主のことで、屋敷は騒然となった。
セバスチャンの祖父が亡くなって以来、執事の座は空いたままだった。指示する者が不在の中、エストと使用人たちが、慣れないながらも力を合わせて、忙しく走り回っている。
本来ならセバスチャンも、その輪に加わらなければならないのだが、セバスチャンはそっと裏口から屋敷を抜け出し、雨の降りしきる外へと出た。
水を跳ね上げながら、石畳の道を走り、裏庭へと向かう。
雨に打たれて、薔薇の茂みは冷たい影となっていた。一瞬セバスチャンの足が止まる。
初めて会った時は、不用意に踏み込んで失敗をした。同じ過ちを犯したら、今度こそ自分は、この場所を追い出されるかもしれない。
それでも誰かがそこに行って、声をかける必要があると思った。
一人きりで秘密を抱えて立っている、孤独な彼に。
「――レムオン様」
薔薇の茂みの向こう側に、雨に濡れた細い背中があった。
レムオンはセバスチャンの方へ向き直った。
美しい顔には、いつもよりも翳りが濃かったが、瞳は、初めて会ったときと同じ刃のような鋭さを持っていた。
あのとき自分は、この目を受け止めきれなくて、とっさに頭を下げてしまった。身分差の畏敬よりも、その冷たい鋭さに恐れを抱いたからだ。
けれど今は……あのときよりは、レムオンの事を知っていた。
この人に本当に仕えたかったら、上辺だけの忠誠でなく、もっと本気の上での、厳しい覚悟までもないと駄目なのだ。
「皆、心配しております。屋敷の中へ、お戻り下さいませ」
レムオンは視線を外した。花の終わった薔薇へと目をやる。
昔の季節を見いだそうとするその目が、花を探しているのか、人を探しているのか、セバスチャンには分からなかった。
「気が済んだら戻る。お前は先に戻れ」
「戻りません。レムオン様が、戻られるまでは」
ざっとレムオンが振り返り、セバスチャンを睨んだ。一瞬怒りを浮かべたレムオンだったが、その場を絶対に引こうとしない一つ違いの従僕の姿が何か思わせたのか、ふと肩の力を抜いて言った。
「お前の祖父も母も、リューガに仕えたのだったな。俺が生まれたときから。お前は、その二人から何か……」
だが最後の言葉は、言いよどむようにして、雨の中に消えていった。
それからどこへ向けるともなく、視線を送った。
セバスチャン相手だからなのか、誰でも良いから今胸の内にある言葉を言いたかったからなのか、唐突にレムオンは語った。
「俺の父親は、どうしようもない男だった。己の職務など一つも顧みず、好き勝手なことばかりしていた。母は、そんな男のために、負わなくてもいいものを次々と負わせられながら、このリューガの家を支えた。母は……不幸な人だった」
少年というにはあまりにも落ち着きすぎた冷めた声が、冷たい雨滴の間を縫って響いた。
そんなことはありません、とセバスチャンは言いたかった。
だが言葉をかけるのは躊躇われた。レムオンの冷めた声の内側に、熱い怒りを感じた。そのやり場のない憤りが、どこに向けられたものなのか、セバスチャンは判断しかねた。
父なのか、母なのか、自分自身なのか――。
レムオンは、その心の内を知るのが、とても難しい相手だった。
「それほどの苦労をして支えたこの家を、俺なんかに任せるという。俺よりもエストの方が、何倍もその価値も資格も、あるというのに」
そう続いた直後、鋭く射抜くような目で、レムオンがセバスチャンを見た。
言葉にこめられた意味をセバスチャンは瞬時に分かってしまった。
そして、セバスチャンが分かったということを、レムオンも分かったようだ。
――お前は、知っているんだな。
さっきレムオンが、言いよどんでやめた言葉を、耳ではない場所で聞いた。
血という深くて暗い鎖。流れている半分は父の血だが、もう半分は母ではない別の誰かのものなのだと。
だから――だから?
沈黙の代わりに、ざあざあとうるさいほどの雨音が二人を包んだ。
ふいにセバスチャンはたまらなくなった。
どうして祖父が、スムが、レムオンのことを気にかけるのか悟った。
良い従者というのが、どういった存在を指すのか分からない。分からないながらも、自分にとっての精一杯の誠意を込めて、セバスチャンは頭を下げた。
「わたくしは、まだ力が足りませんが、それでもあなたの従者です。……このリューガの家の当主、レムオン様にお仕えするようにと、教えられた者です」
祖父の密かな心配も、スムの寂しげな眼差しも、もうこの世にはないけれど。
その二人から託されたものがあるのだと。
……どうか、あなたは一人ではないのですから、と。
数分後、濡れた服を着替え、何事もなかったかのような顔でセバスチャンを引き連れたレムオンの姿が、屋敷にあった。
喪主となって母の葬儀を取り仕切る。それがリューガの当主の最初のつとめとなり、新生のリューガ家一同の最初の仕事となった。
*
「……その後、レムオン様によって、わたくしは、この家の執事に任命されました」
穏やかな声音で、セバスチャンは語り終えた。
いつも通りの柔らかな口調だったが、エルフィンの視線に気づき、セバスチャンは目を伏せた。
「レムオン様は、リューガの当主として、言い尽くせないほどの努力と苦労をされました。それを見て、わたくしはわたくしの場所で、あの方に相応しい働きができるようになりたいと思いました。それが、おそらくはレムオン様の傍らに控える、ということなのだと。
けれど、わたくしとあの方では、やはり立場も背負っているものも違います。わたくしでは、あの方をお助けすることが出来なかった」
それとなく察する機会は、いくらでもあったというのに。
血にまつわる、もう一段深い秘密。血筋という社会的な部分ではなく、種族という生物的な部分での重い鎖までは、見抜けなかったこと。
自責のような響きを持ったセバスチャンの言葉を、エルフィンは黙って聞いていた。
エルフィンの記憶の中で、このリューガの優秀な執事は、いつも穏やかな笑顔を絶やさなかった。礼儀正しく、それでいて包容力のある落ち着いた物腰は、年輩のようにも――母親のようにさえ、思えることもあった。
そんな彼が、一度だけ、ひどく取り乱した姿で、エルフィンに助けを求めた。
『私には政治のことはよくわかりませんが、レムオン様は間違っていると思います。どうか……どうか、ゼネテス様をお助けになってくださいませ』
あのときの苦渋に満ちた顔。
主人への背信ともとれる言葉を告げながら、セバスチャンは苦しそうだった。そこにあったのはレムオンへの疑いではなく、レムオンの身を案じての不安と、心配だったからだろう。
政治のことなどわからないと告げるセバスチャンにわかることが、レムオンにわからないはずがない。
たとえ、どれほど打倒ファーロスという信念を掲げていても、レムオンは政治家として、正しい道を模索しながら、進もうとする高潔さがあった。冷血の貴公 子という名を持ってはいても、その怜悧な頭脳は、政治的駆け引きの場での立ち回りと、札の切り方に使われることが多かった。
中には、そんなレムオンの姿を、潔癖すぎて融通が利かない、と評する向きもあったが、まちがっても己の権力欲に目がくらみ、自国の危機を見捨てて、他国に売り渡す手助けのような真似をする人ではなかった。
そんなことが起こるとすれば、そうせざるえない何か、そうさせるだけの何かがあったのだと。
それが何だったのかは、エルフィンがセバスチャンに答えを告げる前に、ロストールを吹き荒れた残酷な嵐が教えた。
正体を暴かれたレムオンは、貴族社会から抹殺され、ロストールという国に居場所を失った。
『すまなかったと伝えてくれ』
そうレムオンはエルフィンに言付けて、自身はこの場所には近づかなかった。あの事件の直後は、どこもかしこもその噂で持ちきりだった。とても近づきようがなかったのだ。
剛毅なはずのエルフィンが、さすがにあのときばかりは、力なく一人きりでリューガ邸を訪れ、どこか憔悴したような顔のエストとセバスチャンに対して、頭を下げた。
『すまない。一緒に、この屋敷に帰ってくることができなくなって』
エストとセバスチャンはエルフィンを責めなかった。
ただ何かを受け止めるように、深く頭を下げた――。
エルフィンが苦いものを交えた声で言った。
「レムオンには悪いが、私はエリス王妃の事を、どこかで尊敬もしていた。同性から見ても、美しく強い女性だったからだ。だが、あの新月の夜――レムオンに 対して、王妃のとった手は許されることじゃないと思っている。それを言ってしまったら、私がそもそもこの屋敷に来ることになった、そこから始まるのかも知 れないが」
血統と身分が物を言う、王政の貴族社会に置いて、血筋が何より強い切り札になることは想像が付く。身分と種族の差別が激しいこの国に置いて、異種族だということも、絶大な効力を発揮する。
けれど、血という絶対的な呪縛を持ち出されたら、レムオンは抗う術がなくなるのだ。
駆け引きに使う札に、卑怯も反則もないのかも知れない。使えるものはすべて使え、攻める場所も守る場所も、自分の身の回りの事柄すべてが対象となるのかも知れないが、それでも、政敵というのなら……政治の上で戦って欲しかった。
その線を越えて踏み込まれたとき、レムオンもまた一線を越えざるを得なくなったのだ。
エルフィンの言葉を受けて、セバスチャンも、やるせなさそうに言った。
「血というのは、誰のせいでもございませんのに。その人がどういう人であるかも、血によって定まるとは限りませんのに」
スムと血が繋がっていないのも、ダルケニスでもあることも、レムオン自身のせいではないのだ。
血で居場所が定まってしまい、それが揺らげば追い出される。行動も生き方も性格もすべてが密接に関わって、逃れることができなくなる。
その事実が悲しかった。そこで終わってしまうのは、嫌だった。
もし可能性があるのなら、その先へとつなげたかった。
風に乗って、エストの笑い声が響いてきた。
薔薇の茂みから、手に薔薇の花を抱えたエストが姿を現し、合図をするようにエルフィンとセバスチャンに向かって、手を振る。
エルフィンが笑って手を振りかえした。
そのエストの後ろに――銀の髪をなびかせたレムオンが、どこか困ったような表情で、それでも手に何輪かの薔薇を抱えて立っていた。こちらへ向かって歩いてくる。
エルフィンがセバスチャンを振り返って言った。
「連れて帰ってくるのが遅くなって、本当に悪かった。誕生日には間に合わせたかったんだが、少し遅れてしまったな」
レムオンが屋敷を出て、一年近くが過ぎていた。内心で激しい自責の念に駆られていたセバスチャンの前に、エルフィンがやってきた。
冒険者のレムオンは、冒険者のエルフィンに任せることにしていた。何かレムオン様の身に起こったのかと、慌てたセバスチャンに、悪戯を打ち明けるように、彼女は言った。
――レムオンをこの屋敷に連れてきたいんだ。
手段は用意する。新しいロストールができつつある今なら、何とかできそうな気もするから、と。
あのときも今も、セバスチャンの立場は変わらない。セバスチャンにはセバスチャンの誇りと技能がある。たとえ主人がその場を離れたとしても、いつか戻ってくるであろう主のために帰ってくる場所を守り続けること。それもまた執事の仕事だ。
レムオンがテーブルに近づいてきた。
側に駆け寄り、以前のように椅子を引こうかと一瞬考えたが、それよりも挨拶の方が先だと思い直し、セバスチャンは、背を伸ばして、久しぶりに帰ってきた主人の目を見て言った。
「おかえりなさいませ、レムオン様」
2008-07-20
「under the rose」 には、「内緒に、秘密で」という意味があるそうです。レムオンはなんとなく薔薇が似合う気がします。そしてセバスチャンにはお帰りなさいが似合う。ちなみに、白い薔薇の花言葉は『わたしはあなたにふさわしい』だそうです(笑)