行先のない後悔
鳳凰山は片道一日。往復で二日かかる。
姉の脚力とレムオンの体力なら、もしかしたらもう少し短縮できるかもしれないが、どんなに早くても、帰ってくるのは明日ということになる。
宿で留守番をしているチャカは、窓の向こうの夜空を見ながら、落ち着かない気分を味わっていた。
デートなのだ。二人っきりにさせてあげるべきだと分かっている。だが。
――人気のない山奥で、二人っきり。
悶々と窓に目を向けているチャカを視界にとらえつつ、珍しく夜遊びに出ていないゼネテスが危惧を口にした。
「…………襲われちゃうかもな」
レムオンが。
最後の名前は飲み込んだが、その言葉にチャカは窓から離れてベッドに座りこみ、髪の毛をかきむしりながら、うめいた。
「あああー姉ちゃん早まらないでくれ! 姉ちゃんなら、もっといい相手が見つけられる!」
どうやら弟もゼネテスと同じ方向で考えていたらしい。
貴族の御令嬢としても十分通じる見目麗しさに反して、エルフィンの腕っ節は恐ろしいほど強い。その剛力ストレートをくらって育った弟なだけに、おそらく はゼネテス以上に、姉のことをよく知っているのだろう。側にいる相手が、風に吹かれたらそのまま飛んでいってしまいそうな、物寂しさの影と存在の危うさを 感じさせる人物だ、ということも脳裏にあるに違いない。
こう言っては何だが、ふらふらと、という言葉が、(当人は不本意だろうが)似合う気がするのだ。
ゼネテスは言葉に迷いつつも、口を開いた。
「あー。その、なんだ? 一応言っておくが、レムオンはいい奴だぜ? 嬢ちゃんともお似合いなんじゃないか……と」
ぎっ、とチャカがゼネテスを睨んだ。
最後の一言がいけなかったらしい。
だがこの弟は平均と比べれば、ずっと素直で聞き分けの良い部類に入る。うめくのも騒ぐのもやめて、渋々と認めた。
「分かってるけどさあ」
チャカは続けた。
「分かってるし、知ってるぜ。俺だって姉ちゃんにくっついて、あのでっかな屋敷に出入りしてたんだから。でも、なんか調子狂うんだよな。別人じゃないんだけど、前と全然違って見えるし。ああ、えっと、髪や目のことじゃなくて」
「分かってるさ」
ゼネテスの静かな答えに、チャカが目の前の男を見つめる。
ゼネテスが腰掛けると、ベッドが心なしか小さく見える。案外宿屋のベッドが窮屈だから、外に出かけて一晩中帰ってこなかったりするんじゃないだろうか。もちろん、そんな可愛い理由じゃないことは、いくら田舎育ちで疎いチャカでも、察しはついていたが。
――レムオンも難しかったが、ゼネテスも今ひとつ掴みどころがなかった。
「不思議だよな、ゼネテスって」
「何が?」
「その、以前のレムオンってさ。ゼネテスに突っかかっていたっていうか……」
「回りくどい言い方しなくたっていいさ。奴さん、俺のことを嫌ってただろ?」
「う、うう、まあ。でもさ。ゼネテスは別に、それを何とも思ってないんだな」
「まあな。嫌われてるからって、その相手をこっちも嫌いにならなきゃいけない道理でもないだろ」
チャカが、本当だろうか、という目でゼネテスを見た。
「憎んでないの? レムオンのこと」
ゼネテスが動きを止め、チャカを見つめた。
「ご、ごめん! やっぱりいい! 聞いちゃいけないこと、だよな」
慌てて取り消したチャカに、ゼネテスは表情の読めない顔で、違う方向から、問いを投げ返してきた。
「チャカ、お前さん、ロストールって好きか?」
「え?」
「ロストールは――いい国だと思うかい?」
難しい問いかけにチャカは再び頭を抱えた。
「俺には分からないよ。ノーブルなら好きかって聞かれて、好きだって答えられるけどさ。いいところかって聞かれたら、ボルボラみたいな奴がいなけりゃ……って」
なんとなくゼネテスの言わんとしたことが見えたチャカは、口をつぐんだ。
独り言のようにゼネテスは続けた。
「俺も故郷が好きで、そのために色々頑張ったつもりだが、ロストールは国に住む全員に優しい国ってわけじゃない。俺が他人事のように言っちゃいけないのかもしれんが、レムオンにとっては厳しい国だったろう」
ただでさえ差別意識の強い国だ。そんな中でダルケニスであるという事実は、それだけで脅威となる。絶対に見破られてはいけない、ひた隠しにしなくてはならない、けれど紛れもない事実。
レムオンを憎んでない、と言えば、おそらく嘘になる。
爪の端にできたささくれのように、気にすれば即座にうずくものはある。
だが憎みきることは、できなかった。
『種族間の不理解をネタに使うのは、俺は気に入らないぜ』
『甘いな。これで私とそなたは一歩、死に近づいたぞ』
エリスに言った言葉は本心だったが、エリスから言われた言葉も事実だった。
予測していた事態であり、招いた事態でもあった。
……レムオンを憎いと言ってしまえば、めぐりめぐって自分に跳ね返ってくるものもあるのだ。
ゼネテスはひょいと立ち上がり、窓辺に寄ると窓を開けた。
星は小さく遠く、澄まして光っている。
「心配いらんだろう。今頃エルフィンとレムオンは、仲良くこいつを見てるかもしれないぜ?」
後ろのチャカに向けてそう告げながら、ゼネテスは違う人物の面影を、星の彼方に描いていた。
後悔をしている訳じゃないが、せめて本気で救いたいとは思っていたのだ――。
2007-06-26