天へと続く道
「レムオン、デートに行くぞ」
『行こう』ではなくて、『行くぞ』と当然のように言われて、レムオンは困惑した。
目の前の金髪の彼女は、そう告げながら、道具袋を背負い、剣に手を伸ばしている。
町に出かけるという軽装ではない。明らかに、野外に出かける支度だった。
レムオンは、宿に居る残りのメンバーを振り返った。
「楽しんで来いよ」
ゼネテスがひらひらと手を振って見送る。
レムオンの眉が跳ね上がったが、何も言わずに隣の少年へと目を移す。
チャカは何か言いたそうではあったが、ゼネテスと姉エルフィンの様子をうかがいながら、諦めたように言った。
「俺たちは留守番してるから。姉ちゃんをよろしくな」
レムオンはパーティのリーダーに目を戻した。
「何をぐずぐずしてるんだ? 早く出発しないと夜になってしまう」
エルフィンはきびきびと指示をしただけだ。
――まだ日が昇ったばかりの時刻なのだが。
「何をたくらんでいる?」
銀の髪をかき上げつつ、除け者にされている居心地の悪さを感じながら、レムオンは周囲の顔ぶれを見渡した。
以前の自分なら、もっと鋭く問いただしていたかもしれない。
だが、いかんせん、今の自分は『駆け出し冒険者』なのだ。立場の弱さというものを、それとなく自覚している故に、どうも強く出られない。
レムオンの戸惑いを見透かしたゼネテスが、嬉しそうに言った。
「今日はお前さんの誕生日だろう?」
レムオンが言葉に詰まった。
エルフィンが追い打ちをかけるように、胸を張った。
「だからデートに行くことにした」
これは別の何か……たとえば、どこぞの依頼を受けに行く、という意味を含んだ、冒険者の隠語か何かなのだろうか。
レムオンは助言を求めるように、かつての義理の弟を見やってしまった。
この中で唯一、レムオンに同情的な眼差しを注いでいたのはチャカだった。
だが立場としては、レムオンより一つ高いだけにすぎない彼は、姉とゼネテスに逆らう権限など持っていないらしい。
「ええと、楽しいと思うんだ」
――見捨てられた。
眼差しに含んだ訴えが、捨てられた子犬の嘆きに聞こえたのか、気まずそうにチャカはレムオンから目をそらし、良かったら、となぜか自分の道具袋からウィンドビーンを分けてくれた。
ともかくリーダーの言葉は絶対なのだ。
肩身の狭さを感じながら、レムオンはダブルブレードを手に取った。
ウルカーンの石段を降りて門を抜けると、エルフィンは東へと足をむけた。
「ハイキングも悪くないものだぞ」
行き先はどうやら鳳凰山らしい。
「凶暴なモンスターでも現れたのか?」
「――『鳳凰山に鳳凰が現れた』」
「……何の話だ」
「以前そういう依頼を受けたことがあったんだ。いや通常の依頼とも少し違ったんだが。ティラの娘という闇の生き物が現れたことはあったな」
「それがまた出たのか?」
「そうじゃない。ただ、そのとき鳳凰山の頂きまで登ってみたら、すごく気持ちよかった。 それを思い出して、お前にも見せたくなったんだ」
レムオンはエルフィンの思惑をさぐるように横顔を見た。
朝日を受け、金の髪が軽く揺れている。
さばさばとした言葉遣いとは裏腹に、その横顔は非常に美しく彫像めいた端正さを宿すものだった。妹役として礼装させ宮廷を連れ回したことがあったが、煌びやかな建物にも豪奢な衣服にも、見劣りするどころか、それらを従えているような風格すら漂っていた。
言葉遣いだけはどうにもならなかったが、『私は冒険者の身でもあるので』の一言であっさり片づけられたのは、おそらくその美貌と、よく分からない迫力に、周囲が気をのまれたせいだろう。
今では立場が逆になった。
彼女は冒険者として自分を連れ回しているが、自分の態度や言動は、冒険者らしくないのだそうだ。
貴族の頃のものが抜けきっていないらしい。ゼネテス風に言わせれば、ところどころ『取り澄まして見える』という。
――まあそういうのは、すぐに抜けるものでもないからな。それに急変されても困る。下手にゼネテスみたいになられたら、私がセバスチャンに怒られてしまう。
人は、そんなに簡単に変われるものじゃないからな、と言ってエルフィンは笑った。
彼女が何を考えているのかは分からないが、行ってみれば分かるのだろう。
そう思えばその鳳凰山とやらが、どういう場所なのか楽しみにも思えてきた。
今の自分には、行くあてもなければ、居場所もないのだ。
どこに行こうと、何をして時間を潰そうと、違いなどない。
……エルフィンが聞いたら、そういう考え方こそが変わってないと言うんだ、と指摘したかもしれない。
だがしかし。
ハイキングを楽しむには――ウルカーン周辺は殺風景だった。殺風景すぎた。
火山地帯であるこの辺りは、草木は満足に生えず、ごつごつとした岩肌がむき出しになっている。地底に溜まっている溶岩の熱気と蒸気が立ちこめて、どことなく見通しも白くぼんやりとしていて良くはない。
鳳凰山は東の果てにあたり、周囲にある冒険探索地も特にめぼしいものはなかった。行き交う人影もなく、時々会話こそ交わしたものの、基本的には黙々と二人は歩き続けて、ようやく鳳凰山の麓にたどりついた。
何かを期待して、というわけではなかったが、すでにこの時点で、レムオンは気が滅入り始めていた。
「特に用もなく、こんな所まで足を運ぶ物好きなど、普通は居ないのだろうな」
「ああ。だから道中は二人っきりで良いじゃないか」
向けた嫌味に、澄まして返され、レムオンは黙り込んだ。
分かれ道は登りになっている方を選んで進めばいい、の言葉を受けて、今度はレムオンが先に立ち、細い山道をずんずんと歩いていく。
振り返らない銀の髪を目印に、エルフィンはその背について歩いていく。
細道の行く手を遮る怪物を、合計三振りの剣がなぎ払っていく。
険しい岩肌は、重たいような灰色を帯びて、四方から迫っている。なんとなく息を詰めて、いつもよりも緊張感を持っての戦闘になるのは、岩の間をくりぬくように続いている登り坂が持つ圧迫感もあったろうし、パーティメンバーがいつもの半分というせいもあったろう。
何度目かの戦闘終了後、こらえきれなくなったレムオンが苛立ちをぶつけた。
「こんなもの、ハイキングではなかろう! 駆け出し冒険者の訓練か、僧侶の修行だ!」
この山に生息する魔物たちは、二人にとって強敵というわけではないが、雑魚だと言い切れるほどに弱くもない。目的も知らされずに歩き続けることは、レムオンの繊細な神経にはかすかな不安を与えるのかもしれない。
「だいたい山など登ってどうするのだ!? もう昼をとっくに過ぎている。急がなければ日も落ちるぞ」
「レムオン」
「……なんだ!」
「少し、空気が変わったようには感じられないか?」
レムオンが足を止め、探るように、目を細めて、行く手を見上げた。
すでに山の中腹を過ぎている。空気がわずかに薄くなったように感じられるが、それだけではなく空気の中の透明度というものが変わり始めていた。
熱気と蒸気でうっすらと白く濁っていた視界が、いつの間にか雨上がりの朝のように、澄み切ったものになっている。この地方特有の地熱による湿度と熱気は感じられたが、だからこそ肌に涼しく感じられる、山頂から吹き降りてくる清澄な青い風。
さらりと銀の髪を微かになびかせ、金の髪の裾を揺らして、吹き流れていく。
「――もうすぐ頂上だ」
すでに道は間違えようもない一本道になっていた。天へと続く道。
張り出した細い崖の突端へ、レムオンが誘われるように歩み出る。
遮るものなく頭上に広がる空は、至高の青をたたえていた。
眼下には純白の雲が柔らかな衣を吹きなびかせるように、悠々と伸び広がっている。雲間からのぞく東の果てには、空の光を映した水平線がきらめいていた。
* * *
権力闘争にはどうしても泥が含まれる。
仕方のないことだが、そういう物ばかりを見てきたレムオンには、もっと綺麗なものを見せたかった。
空の青を目に映しながら、エルフィンはオルファウスから教えられたことを思い返していた。
――ダルケニスは、人の精気を吸うという。場合によっては記憶や感情までも。
「でも植物の精気でも蓄えにはなるようですし、人の精気を吸うと言っても、ほんのわずかだけ吸って、静かに生きている者がほとんどだそうですよ」
私たちが花の香りを楽しむようなものでしょう、と極上の紅茶に唇を寄せて、オルファウスは言った。
賢者のいれる紅茶は旨かった。それは味だけではなくて、色も、香りも、含めてのことだ。
香りやぬくもりを感じるように、人の精気をそっと吸い込む。
麦の穂が日の光の恵みを受け取るのに、近い感覚なのかも知れない。なくては生きられないが、自ら執拗に求めるのではなく、注がれるものを注意深く受け止めて、生きるのに必要な分だけ、浴びること。
ただ、とオルファウスは続けた。
「ダルケニスは、元は妖精種族ですからねえ。本当なら自然の中で生きる方が楽なんだと思いますよ。人の中で生きることは、彼らにとって生命をつなぐことで はあっても、心の平穏につながるわけではないでしょう。特にダルケニスはその性質上、周りの影響を非常に受けやすいと思いますし」
ノーブルはボルボラの横暴に苦しめられてはいたが、環境としては穏やかで鄙びたところだった。
そこを出てロストールの城下町へ足を踏み入れた。
慣れていなかった最初の頃は、ともかく人の多さに辟易した。嫌いではないが、ごみごみしたところは自分の性には合わないと思った。ましてや多くの貴族と 兵士が一つの建物の中でひしめき合っている、権力欲の渦巻く宮廷へと出かけた日には、ティアナの部屋が唯一の安息所だった。
冒険者として野外で魔物退治をしているほうが、よほど精神衛生上にはいいと、としみじみ思ったものだ。
周囲の精気を吸って、生命を保つことができるとしても。
吸うのが、綺麗な空気と汚れた空気では、話が全然違うのではないだろうか。
* * *
「綺麗だろう? こういうものを見せたかったんだ」
エルフィンが静かに言った。
一見寂しく殺風景に思えるかも知れないが、その奥で静かに澄んで輝く場所を。
人に踏み荒らされることなく、静謐に清らかに、果てなく広がる空間を。
世界には、そういうものもあるのだと。人の心にも、また同様に。
エルフィンのかけた言葉など耳にはいらないように、レムオンは目を空に注いだままだった。
赤い瞳は日の光の元で、透き通る紅玉にも思えた。レムオンが忌避している自身の銀の髪も赤い瞳も、エルフィンから見れば、この光景同様に美しく綺麗なものだった。
けれどそれは、どれほどエルフィンが強く告げても、本当の意味でレムオンには届かないだろう。
レムオン自身が――自嘲混じりではなく、もっと純粋な感覚で――それを受け入れようとする心を持ってくれなければ。
エルフィンも隣に立って、空の果てを見上げる。
やがてぽつりと、レムオンが言った。
「……お前は冒険者として、こういうものを多く見てきたのだな」
エルフィンは小さく笑い、かぶりを振る。
「綺麗なものばかりでもないけれどな」
だからこそ、こういうものの存在を知っている強みは、信じていた。
いつのときにも変わりなく、穏やかに静かに、時に冷たく厳しく、動乱とは無縁に孤高に広がる光。
汚れも痛みも洗い流してくれるような、清らかな青。
その光の色を忘れないように。この場所で共に見上げたことを思い出せるように。
そういうものを、今は一番贈っておきたい。
2007-06-23