子供の情景
物心ついたときから変わり者だと言われていた。
暇さえあれば本を読んでいる。草や花や石など地べたのものを調べて歩いている。兄は有能だが、弟はうつけ者。そのたびに不思議に思った。
世界は広く、まだ見ぬものが山のようにあるのに。
知りたい物がたくさんあった。けれど何を調べて、何のために探せば良いのかは分からなかった。僕はそのとき、まだ十歳の小さな子どもでしかなかった。
そんな時、塔の中にいる、盲目の王女と会った。
* * *
陽光が降り注ぐロストール城の空中庭園では、社交服に身を包んだ貴族達が、グラスを片手に談笑を交わしている。
所々に設けられたテーブルの上にあるのは、足つきグラスと様々な種類の果実酒だ。召使いが、入れ替わり立ち替わり、空になったグラスを下げては、飲み物を補充して歩いている。庭園の片隅では揃いの衣服に身を包んだ楽士たちが、音楽を奏でていた。
季節事に催される、ロストール貴族の交流と挨拶を兼ねた茶会だった。多数の貴族が出席するので、空中庭園が花ではなく人で埋まってしまう。
兄が、母スムの傍らで、背の高い貴族に向かって挨拶をしているのが、人混みの隙間に見える。その様子をうかがいつつ、隠れるように庭園の花壇の隅の敷石に腰掛け、本を開く。ロストール城の図書室には、王家に伝わる古書が収められている。先ほど了承を得て、その中の一冊を借りてきたところだった。
「エストさまは、読書ですか?」
柔らかな女の子の声に顔をあげると、光の髪をした少女が片腕に花を抱えて、自分の隣に立っていた。
「ティアナ……様」
慌てて立ち上がる。とっさに兄を呼ぼうとしたのは、幼なじみとしてティアナの相手をしているのは、兄のレムオンだったからだ。
それは将来を考えてだろう。ティアナはロストールの時期王位継承者だから。僕は本当は兄さんには、ずっとリューガの当主でいて欲しいけれど。
ティアナは首を振って、悪戯っぽく指を唇に当てた。
「今日はレムオンさまではなく、エストさまに用があるのです。エストさまは、いつもご本を読んでらっしゃいます。たくさんお話を知っておいででしょう? それを聞かせてあげてほしいのです。ティアナも一緒にまいります」
笑うと、ティアナは僕の手を引いて、花壇の裏へと回った。大人の目から逃れるように花の影を隠れ歩き、庭園のはずれの北の塔へと潜り込む。薄暗い螺旋階段を、気をつけて登りながら、ティアナは振り返った。
「同じくらいの年の相手が、ティアナ一人だけだと、寂しいでしょう? 今日はエストさまもいるから、アトレイアさまもお喜びになりますわ」
「アトレイア様?」
「ティアナの従姉妹です。目が不自由なお方で、ずっとこの塔に住んでいらっしゃるんです。時々お母さまが様子を見にきています。今日もお母さまに頼まれたんです。『よければアトレイアの様子を見に行ってやって欲しい』って。自分は公務で抜けられないけれど、みんなが集まる時に、一人だけ塔にいるのは寂しいだろうから、って」
お母さまと言った辺りから、ティアナの声が硬くなった気がした。ティアナ王女のことはよく知らなかった。明るく愛らしい光の王女と呼ばれていることは知っている。ただ、そのとき、ふっと思った。
もしかしたら寂しいのかな、と。
読書をしている僕をめざとく見つけるくらいだから、注意力も観察力もある。気遣いもできるし、頭の回転も速そうだ。周囲の様子をよく見て、相手の意を汲んで動く子なんだろう。自分の母親が、自分と同い年の少女のことを気にかけていることは、嫉妬と重圧になるのかもしれない。それに。
『同じくらいの年の相手が、一人だけだと寂しい』
それはティアナにも当てはまる気がした。それからたぶん僕にも。
孤独と悲観はしないけれど、自分が外れている自覚はあった。環境が、こうあるべきと告げる姿は分かる。でも、そうでないものを追い求めたいと何故か思ってしまう。
貴族社会は、小さな菓子箱の中に作られた箱庭のよう。美しく整っているけれど、自然の草木や花は生えない。素のまま成長することは許されない。
薄暗い階段の中に、ティアナの腕に抱えている花から、仄かな香りが漂ってきた。たぶん香水などに使われる、香りの高い花を特別に選んできたのだろう。
そういえば相手は目の不自由な方と言っていた。
「ああ、だから花なんだね。花は香りがするから」
「さすがエストさまですね」
ティアナがにっこりと微笑んだ。その言葉に少し胸が軋んだ。
こんな風に目が利いてしまうことを、僕は良いことと褒められた経験が、あまりなかったから。
塔の突き当たりにある扉をノックする。
「……誰、ですか?」
「アトレイアさま、ティアナです。それからお客様がもう一人」
「お客様?」
おずおずと扉が開けられる。
部屋の中は薄暗かったが、ティアナは慣れた様子で、部屋の片隅にある燭台に火を灯す。影に溶け込んでしまいそうな儚げな気配をした、一人の少女が浮かび上がった。
ようやく僕も思い出す。
僕が生まれたばかりの頃に貴族の内乱があった。先代の王のお后が亡くなって、生まれたばかりのその娘も生死の境をさまよったが、なんとか命は取り留めたという。
こんな塔の中に、一人きりで暮らしていたのか。
「こんにちは、アトレイアさま。僕は、エスト・リューガともうします」
「エスト、さま……?」
アトレイアが顔を上げる。視線こそ交わらないものの、声の位置は正確に分かるらしく、まっすぐ僕を向いていた。繊細そうな顔立ちをした王女だった。
「リューガ家の、レムオンさまの弟ぎみです。今日はティアナが頼んで、一緒に来てもらいましたの」
「それで、足音が一つ、多かったのですね。よろしかったのですか、エストさま。わざわざ、来ていただいて。外は、にぎやかで、話し声と、素敵な音楽も、鳴っているでしょう……?」
目を見張る。僕には全く聞こえない。扉の外の足音を聞き分けたのもだけれど、屋外で鳴っている音楽をも、石壁を越えて聞こえているようだ。目が見えない分、とても耳が鋭いようだった。
僕にとっては無音の世界でも、きっと彼女にとっては全然違う世界なのだろう。
この子もまた、貴族社会にいながら、違う世界に住んでいる。
「アトレイアさま、お水とお花、変えておきますね」
「ありがとうございます、ティアナさま。とても、良い香りがします」
薄暗い部屋の中で二人の小声の話し声は、どこか秘密のやりとりめいていた。くすくすと耳をくすぐるような声に、僕の肩の力も抜けていた。
今まで意識したこともなかったけれど、僕は外だと案外、肩の力を張っていたらしい。
そっとアトレイアに声をかける。
「アトレイア様は、音楽が、お好きですか?」
「え、ええ。とても好きです。音楽はきいていると、心にそのまま、染みこんでいくようで」
「僕は、本が好きなんです」
「ほ、ん……?」
「色んな世界の、色んなことが書かれている品物です。音は発しないけれど、音のない言葉で、やっぱり心に、直に、語りかけてくるんです」
「音のない、言葉? 心に、語りかけてくる……」
暗唱するように、アトレイアが呟く。
「アトレイアさま、こちらへどうぞ。ティアナと一緒に座りましょう。エストさまも。ティアナにも、お話を聞かせてください」
ティアナがアトレイアの手を引き、部屋の長椅子に二人で腰掛ける。僕もティアナの手招きに応じて、近くの肘付き椅子に腰掛けた。
きっと僕たちが今ここにいることは、兄も母も、みんな知らない。そう思うと、愉快な気がした。ほの暗い部屋の中は、秘密の隠れ場所のよう。子どもだけの――秘密の空間と時間。
薄暗い闇に向かい、僕は語り始めていた。
「どんなお話をすればいいのか、ここに来るまで考えていたけれど、今日は、秘密の音楽の話をしようと思います。ありとあらゆるものを詩にして奏でることができた、詩聖レルラの、ハープがなくなった話」
密かな暗闇に、僕たちの話し声が満ちていく。
部屋を出て、塔の階段を下りながら、ティアナが僕に囁いた。
「エストさまは、お話がとてもお上手なんですね」
「僕も知らなかったけど、話せるものなんだね」
「え? とても語り慣れていらっしゃったのに」
「うん。僕は本の話は好きなんだけど、誰かに話をすることは、あまりなかったから」
僕が話せば、聞いてはくれる。でもそれは僕の言葉を聞くだけだ。僕の話を聞きたいと思ってくれているのとは、違う。
あどけない顔をしたティアナが生真面目な顔になり、それから頷いた。
「話したいけど話せない。ティアナにも、少し、分かるような気がします」
「そうなんだ?」
ティアナの目が僕に向けられた。そのとき何故ティアナが、兄のレムオンではなく、僕にアトレイアの元に同行するよう頼んだのか、分かった気がした。
きっと彼女も賢いから知っている。何のしがらみもなく、何も考えず、好きな話を相手にすることは、段々難しくなってくることを。
僕たちが大人になるほど、家や身分や駆け引きというものは差し込まれてくる。僕たちがいる世界は、そういう場所。
そこに居続けるか、いっそ違う場所に飛び出すかは、まだ分からないけれど。
「アトレイア様の瞳、見えるようにならないのかな?」
僕が呟くと、ティアナが言った。
「たくさんのご本を読んで、色んなことを知っているエストさまだったら、見つけ出せる気がします」
「僕が?」
「ええ。難しいことを飛び越えて、みんなが幸せになれる、そんな方法を。エスト様は、お母さまや、レムオン様や、ティアナとは違うから」
子どもらしくも、きっぱりとした声でティアナは言った。時期王位候補という肩書きの重さを、僕はそこに見た気がした。
――以来、僕は貴族の集まりのたびに、ほんの数時間、ティアナと一緒に抜け出して、アトレイアの部屋を訪れるようになった。様々な話をアトレイアに語り聞かせた。
ほんの二年ほどの間。数にして数回のことだったけれど。
それくらい、子供の時間は短い。
あのときは子供だったから、花壇の花の影に隠れて抜け出すことができた。
けれど僕たちの背も高くなる。
そうなれば自分の為すこと、話す言葉に、責任と自覚と他者の目を意識しなくてはならなくなる。
いつしか僕たちは、同じロストールの貴族社会にはいるけれど、きっかり線を引かれて、違う場所に立って、それぞれの立場で生きるようになっていた。
もう気軽に、あの薄暗い部屋で、おとぎ話を語り合う、秘密の間柄ではなくなっていた。
ただ僕は、今でも探している。
『難しいことを飛び越えて、みんなが幸せになれる、そんな方法を。エスト様は、お母さまや、レムオン様や、ティアナとは違うから』
最近兄の様子が変わった。僕に、家督を譲る準備を密かにしている。ティアナには許嫁ができた。アトレイアのことは分からない。付き人ができて、光を取り戻す手段を探していると聞いている。
子供の時間はあっという間で――けれど大人になっても世界の移り変わりは早いから。
できれば、間に合いますように。
祈りながら、僕は今日も探索地を一人歩いている。
2018-07-08
両王女は片方しか救えないけれど、幼い頃は仲良く過ごしていて欲しいという気もしました。書いてなんですが、ゲーム内でこの三人のイベントを見てみたかった気がします。
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