語られた話
秋の木漏れ日が、緑の森に降り落ちている。
ミイスの村はずれの森は、常に変わらぬ様子で葉を茂らせていた。だが、力あるものが目ではない目を凝らせば、そこに微妙な力の揺らぎを感じるのだろう。
先に村はずれの森に出かけたシェスターは、緑を茂らせている大樹の根元に、跪くように腰を下ろしていた。
瞳を閉じた横顔が、中空に向けられている。さらりと黒髪が風に流れていた。胸の前で手を組み合わせ、一心に閉じた瞳を、空の彼方に向けている。彫像のようなその姿は、風の精霊と言葉を交わしているようにも、天空神に祈りを捧げているようにも見えた。
神聖な巫女の姿をそこに見たような気がして、ロイは思わず足を止めていた。
かつて。
このミイスの隠れ里で育てられ、将来良き巫女になるよう求められていた少女がいた。その横顔は、今目の前にたたずむ彼女とは、異なるものだったが。
脳裏によみがえった記憶は遠く、懐かしく、どこか苦い。
ロイは声をかけるのをやめ、木陰で静かにシェスターの様子を見守ることにした。
ざわりと風が吹いた。全ての物が静止して、やがてまた動き出す。
大きな空白が押し寄せ、周囲の気配が知らず切り替わった――ような気がしたが、それは、自分の錯覚かもしれない。どちらかといえば魔法の素養に欠けるロイには、それが何か具体的にとらえることはできなかった。
鳥が一羽、合図のように白い翼を閃かせ、空へと舞い上がる。
シェスターが木陰から立ち上がる。黒い髪をそっと押さえながら、飛び立った鳥の行方を追うように、空へと視線を向けた。緑の森に佇んだ姿は、どこか人外の者めいた密やかさを醸し出していた。
不思議なことに、自分よりも彼女の方がずっと、このミイスの森に溶け込み、馴染んでいるように見えた。定められた場所に、正しく戻ってきたような、そんな雰囲気をまとって。
――この森は、そういった見えないものを見る目の持ち主を、必要としているかもしれない。
ロイがシェスターにミイスの結界の修繕を頼んだのは、自分よりも彼女の方が、その役目にふさわしいと思ったからだが、おそらくそれだけではないのだ。何かを隠して秘めおく、という役割は、男性よりも女性の方が、本質的に適しているのだろう。
女性は、命を宿し、育む生き物だから。
そんな事を思いながら、ロイは一歩シェスターの方へ近づいた。
足下で、草がかさりと乾いた音を立てた。
*
シェスターが一人、村はずれの小さなこの森にやってきたのは、ミイスの結界を修繕するためだった。
本来結界を張る仕事は、ミイスの当主であるロイが行うものべきものなのだが――。
『私よりも君の方が適任だろう?』
あっさりとロイは言って、あの火事の中でも無事に残った塔の地下の宝物庫にシェスターを招き入れると、古文書の一冊を手渡した。
そして軽い響きで言葉を添えた。
『結界を再び張り直すか、それとも完全に消してしまうかは、君に任せるよ』
ロイは軽く告げたが、その言葉の意味は重い。
今やミイスの村に、神器を守る結界は必要ない。
神器を狙うとされていた魔人は、もう村の外ではなく、内部にいるのだから。
かつて災厄として怖れられた闇の魔人は、今では自分の中に、密やかに穏やかに眠っている。封じているのとは違う。彼女はただ自分の中に、深く静かに沈んでいるだけだ……かつての自分が、そうであったように。
そのためセラは、未だに危ぶんでいるようだ。弟からしてみれば、残虐な魔人が姉の身体に未だに巣くっているというのは、どうあっても受け入れがたいことなのだろう。
逆に言えば、ロイはよくそんな状態を認め、それだけにとどまらず、自分の伴侶として、生涯を共に過ごす決意を固めたと思う。その懐の広さに感嘆もするし、あるいはそれが自分の責任だと、贖罪の意識も働いているのかもしれなかった。
だが今のシェスターは、それを問い質したいとは思わなかったし、申し訳ないと罪悪感でうちひしがれている場合でもないと知っていた。そう思うのであれば――ロイと共にここに来てはいけなかったのだ。
あの海辺の洞窟で、あのとき、魔人と共に斬られているべきだった。
けれど、こうして生きる道を選んだのだったら。相応の罰の全てを引き受ける覚悟をもって、この先の道のりに挑んでいかなくてはならない。
かつてこの森を焼き払い滅ぼした手で、奪ったものの数々をもう一度つくり直す。痛みも批難も過ちも恥辱も、全て自分の心の内に引きうけて、その上でなお自分が、ここでこの状態でも生きていくと証明すること。それが弟やロイやロイの妹、その他ミイスの村のあの魔人の犠牲になった多くの命に応えられる、唯一の方法だと思った。
そんなことは所詮自己弁護でしかないことは、自分自身が一番よく知っていたが。それでも。
ミイスの里の結界を修繕する作業も、おそらくその過程の一つなのだろう。
シェスターは、聞こえない旋律に耳を傾けるように、森の気配をたどっていく。緑の森の大気の中では、木々の間に張り巡らせた魔法の網の残滓と、その破れ目から吹き寄せる外界の気が入り交じって、小さな渦を巻いていた。五感を研ぎ澄まし、意識の奥で風を追いかけ、結界の破れ目を魔法の手でなぞる。
どうしようかと、一瞬シェスターは思案した。
ロイは取り去るのも再び閉じ直すのも、どちらでも構わないと言ってくれたが、私は……どうしたいのかしら。
拒んで封じるのではなく。かといって全てを解放して、綺麗に痕跡もなくしてしまうのでもなく。
風に揺れて光を透かす薄い衣。そんなものを想像しながら、魔法を構成していく。目に見えない力が、翼となって森を、高く広く薄く、覆っていくのを感じる。風と光は、軽やかに、吹き抜けるように。悲しみと災いは、そっと静かに、遠ざけるように。
祈りをこめて魔法の綾幕を広げれば、それに応えるように緑の梢がざあっと揺れ、次に瞬間風と共にぴたりと止んだ。
同時に頭上で、生き物の躍動する気配がした。
バサバサバサッという慌てたような羽音と共に、梢で休んでいた鳥が、いっせいに空へと羽ばたいていった。
……驚かせてごめんなさい。追い出すつもりじゃなかったのよ。
心の中で謝罪して、シェスターは立ち上がり、鳥の行方を見送るように、視線を空に向ける。
今頃、彼らは、どうしているだろうか。
かつての英雄ネメアと共に世界を覆いかけた闇を払い、結果、『神殺し』の異名を背負うことになったロイの妹と、そんな彼女に付き添い、新たな土地へと出かけていった弟の姿を思い描いた。
そのとき背後で、かさりと草の鳴る音がした。
*
振り返ったシェスターを見て、ロイは足を止めた。
自分は先ほどから彼女の様子を見ていたが、彼女はずっと魔法に集中していたのだ。急に現実世界に引き戻すような真似をして、驚かせてしまったらしい。
「様子を見に来たんだが……ごめん、邪魔をしたようだね」
「いいえ。ちょうど終わったところよ」
シェスターは緊張を解いて、柔らかな笑みを浮かべた。それから葉擦れの間から降り注ぐ陽ざしに目を細めるようにして、静かに言葉を続けた。
「結界はごく薄いものをはらせてもらったの。取り除いてもよかったのだけど、ここは、やっぱり聖域だから。けれどこの村は、これから少しずつ外へと開かれて行くのでしょう。完全に隠れる必要も、きっとないでしょうから」
「そうだね」
シェスターの言葉を飲み込んで、ロイもまた穏やかな声で答える。それでいいと、素直に思えた。
これから先、ミイスの里の役割は大きく変わっていくのだろうから。
シェスターはそのままロイの方へ歩み寄ろうとしたが、何かに気づいたように、地面にかがみ込んだ。代わりにロイの方がシェスターに近づくと、シェスターは丈のある草の隙間から、朝露を思わせる小さな珠を拾いあげたところだった。
不思議そうに手の上の仄かな輝きを見つめている。冒険者にはお馴染みの品だった。
「復活の真珠だね」
「ええ……」
「たまに落ちている。村外れのこの場所では、復活の真珠が拾えるんだ」
「そうなの?」
ロイは何気なく答えたが、シェスターの当惑したような反応に、遅れて気づく。
普通森で真珠はとれない。今でこそロイも慣れていたが、初めて見つけたときは、やはり不思議に思ったものだ。
『にい様、にい様、真珠がおちていました』
妹が舌足らずな口調で告げた姿が蘇り、思わずロイの唇の端に微笑が浮かんだ。
妹は誇らしげに真珠を掲げ、実に子供らしい答えを披露した。そんなことあるわけがない。そう思っていたら、数年後、それが正解だったと知って、ロイはひどく不思議な心地がしたものだ。あの直感力は相当なものだった。
自分は目の前だけを見ているのに、妹はするりと違うものが見えてしまうらしい。
あの子は、そういう子だった。
ロイは、回想から舞い戻り、自分の隣で、不思議そうに手のひらを見つめているシェスターに視線を移す。
不意に試してみたい気持ちがわき起こって、ロイはシェスターに問いかけた。
「どうして、この森には、真珠が落ちていると思う?」
「え?」
シェスターがロイを見つめ返した。
*
突然問われて、シェスターはロイを見つめた。
様子から察するに、彼は答えを知っているらしい。
「……偶然に落ちているというわけではなく、きちんとした理由があっての、出来事なのね?」
「偶然と言えば偶然だけど、まあ、理由はある、かな?」
シェスターが確認するように問いかけると、ロイは明後日の方を向いて知らん顔になった。
こうなったら、何としても答えを見つけたい。研究者としての心構えと分析癖が蘇り、シェスターは口元に握り拳を当てて、考えを巡らす。
海ならともかく、ここは森の奥。真珠が自然発生するわけではあるまい。外から持ち込まれた品であるはずだが、ロイは自然な口調で「落ちている」と言った。ということは、何者かが落としていく、ということだ。だがミイスの村自体は結界に閉ざされているし、この村はずれの空き地には、村人達もほとんど訪れることはない。結界の境界間際のためか、獣や鳥の気配は色濃いが、そういった外部の侵入者は――鳥?
さきほどの鳥の羽ばたきを思い返し、それからシェスターは頭上を見上げた。
大樹の立派な枝がひとふり、緑の天蓋を支える梁のように、空へと伸びていた。
「鳥が海から運んできて、枝で休んでいる間に、落としていくのかしら?」
シェスターが呟くと、ロイが目を見張った。
「当たった?」
「あっさり答えられるとは思わなかったな」
「偶然よ」
「私としては、こんなに簡単に答えられると立場がないというか、面白くないような気もするんだが」
「ご、ごめんなさい」
拗ねたようなロイの口調に、慌ててシェスターが謝ると、ロイが吹き出した。
シェスターは口をつぐんで、それから、つられたように小さく笑う。ロイがため息まじりに言った。
「私が鈍いだけなのかな」
「そんなことないわ。さっき鳥が羽ばたいていくのが見えて、その後にこの真珠を見つけたからよ。でも、どうして鳥が?」
「鳥が荷物を運ぶというのは、そう珍しいことじゃないようだね。訓練を施せば決まった場所へ必ず飛んでいくようになる種類の鳥もいるそうだし、昔は手紙の輸送手段にも使われていたらしい。古代の王宮に盗みに入った盗賊は、連れていた鳥の羽毛の間に宝石を紛れ込ませ、先に仲間に送るんだそうだよ」
「盗品なの?」
ロイの言葉に、思わずシェスターが身を引くと、ロイが肩をすくめた。
「違うと思う」
「驚かさないで」
「私も詳しい事情は分からないんだが、いつも落ちているのは必ず真珠で、拾える時季も決まっているんだ。秋の始まりから本格的な木枯らしが吹く前まで。たぶん海を越えてやってきた鳥が、越冬のために、この村の上空を飛ぶんだろう。
どうして真珠が鳥の身体にくっついてしまうのかは分からないが、その中の鳥の何羽かが、この森で羽を休めるついでに、翼に絡んだ荷物を落としていくらしい」
「そういえばアミラル沖の小島に、渡り鳥の一団が群れ集うと聞いたことがあるわ。その近くでは真珠の養殖も行われているそうよ。その一部が、復活の真珠として卸されていると聞いたけど……あの鳥がそうだったのかしら?」
あるいは、それこそ、ミイスの結界のせいかもしれない。
鳥は本来迷ったりしないものだが、魔法がかった品を抱えて飛んでいるせいで、このミイスの結界の磁場に巻き込まれてしまい、真珠を落とすことで魔法の影響から解放されて、再び飛び立つのかもしれなかった。
「不思議な話ね。魔道アカデミーの図書館に行けば、もう少し詳細が分かるかもしれないけれど」
「調べに行ってみる?」
ロイに問われて、シェスターは小さく笑って、かぶりを振った。
「今はミイスのことが、第一よ」
その返答にロイは微笑を浮かべ、背後の樹木を振り仰いだ。独り言のように告げる。
「……あの子が出て行って、今度は君が来た。これもやっぱり天のはからいなのかな」
それからシェスターの方を向き直り、いたずらめいた声で告げた。
「種を明かすとね。さっきの鳥という答えは、私が見つけたものじゃないんだ。
見つけたのは妹だ。
私も君と同じく不思議に思っていたが、妹はあっさりと、『これは鳥が卵代わりに産み落としたんだよ』と無邪気に告げたんだ」
ロイの妹のことなら、シェスターもよく知っている。
いや、実際には、自分がこのミイスに来たときと入れ替わるように、ロイの妹は新たな世界へと出て行ったから、ほぼすれ違いとなったのだが、その性格や技量はことあるごとに今でも語られているので、聞き知っている。
いや、それだけではなく。
あの出来事の最中、実際遭遇して、言葉を、技を、交わした。そのときに感じた力強さ、伸びやかで清冽で真っ直ぐな魂の輝きは――今でも自分の胸に、眩しいくらいに痛く刻まれている。
「子供の目から見たら、卵も貴石も似たものとして、映るのかもしれないね。
あの子は昔からそういうところがあった。その鋭さがあれば、きっと良い巫女にもなれたろうに」
ロイの思い出話に、シェスターは相づちを打ちかけ、表情を引きしめた。
口調こそ軽かったが、ロイの声音には何か不思議な響きがあった。
思い出ではなく、記憶を語るときの声。
おそらくロイが本当に語りたいのは、真珠の思い出ではなく、もっと別の場所にあるものの話なのだ。
シェスターが察したことにロイも気づいたらしく、ロイはさきほどシェスターが腰を下ろしていた木の根に、腰を下ろした。促されてシェスターもロイの隣に腰を下ろす。
ロイは視線を空へ送ると、ゆっくりと語り始めた。
「もうずっと昔の話だ。私も幼かったし、父母から直に聞いたわけじゃないから正確なことは分からない。
もしかしたら父は、いつか私に、そしてあの子自身に語るつもりでいたのかもしれない」
……その父親は、語る前に亡くなったのだ。あの惨劇の最中、魔人の手にかかって。
言外に含まれたその事実に、シェスターの胸が刃で刺し貫かれたように鋭く痛んだが、それを表情に出さぬままシェスターはロイの言葉に耳を傾ける。
ロイは遠い口調で話を続けた。
「母は身体があまり丈夫ではない人でね。二人目の子供を授かった時には、年齢も重ねていた。もしかしたら母子共に難しいかもしれないと危ぶまれていたようだ」
* * *
――季節は、冬の冷たさが薄れ始め、春を告げる嵐が吹き荒れていたころだった。
直接言われたわけではないが、母の身体に障るといけないからと、そのころロイは、なるべく自分の事は自分でやるよう努めていたという。
だから少し、両親と距離を置いていた時期だった。十になる少し前という年齢も影響していたかもしれない。
独立心が芽生え、子供から少年になろうとするころ。自分が兄になると聞いて、気負いもあったかもしれない。
十数年前といえば、世界が動乱の最中でひどく荒れていたころだ。
当時の状況は、シェスター自身もよく知っていた。
邪眼帝バロルの恐怖政治が世界に暗い影を落としていたころ。ロセンもロストールもディンガルに危機感を抱き、 各国は互いに進撃を繰り返していた。
各地で戦火が吹き荒れ、いくつもの村が焼かれた。シェスターとセラが両親を亡くしたのも、この時代だった。
そんな春先、一人の行き場を亡くした赤子が、ミイスの村に連れられてきたのだという。
森の入り口で拾われたというその子どもがやってきたのは、奇しくも、ミイスの神官家に、二人目の子供が生まれるとされていた日と重なっていた。
……そしてある朝、ロイは、これがお前の妹だ、と空の色をした瞳を持つ子どもに引き合わされた。
「ただ、その時はそれが血のつながった妹であるのか、それとも両親が拾い子を養子としたのかは分からなかったよ。
赤子を拾ったという話は知らなかったから、純粋に妹が無事に生まれたと思っていた」
そうではないかもしれないことが、おぼろげながら判明したのは、その妹が、命を落としかけたときだった。
一度ミイスの里は、外部者から襲撃を受けたことがある。その際、神器を狙って忍び込んだ施門院の暗殺者の手によって、まだ幼少だった妹は、生死に関わる重傷を負った。
その時、妹を、身体を張って庇い、命を落とした巫女が、かつて赤子をこの隠れ里へ連れてきた、その人だったという。彼女は、もしかしたら神官家の一族とし て敬う以上の気持ちを、妹に向けていたのかもしれなかった。
葬儀の時に父と古くから仕えている僧兵が、心を痛めた様子でぼそぼそと話しているのを、ロイは 物陰で立ち聞きしてしまった。
だがロイにとって、その事実も驚くことではあったが、それ以上に、痛感させられたこともあった。
「そのときミイスが襲撃を受けたのは、私の不注意が原因だった。
それまで私は神器のことも、この村のことも、おとぎ話めいたものとしてとらえていたんだ。
情けない話だが、まだ幼かった妹が血まみれで倒れているのを見て、初めてこの村がどういう場所であるのか、私は何をしなければならなかったのか、思い知ったよ」
自分に、守護者の自覚を持たせたのは、妹の存在だった。
永遠に失うかもしれない、その苦さと怖さを知ったからこそ、その後の『もしかしたら実の妹ではないかもしれない』という疑惑は、ロイにとっては二の次だった。
父が、母が、心底妹を可愛がって、愛していた姿を知っている。
無邪気な顔で自分の後ろを付いてくる姿は、もうロイにとっては当たり前のものだった。
血が繋がっていようがいまいが、かけがえのない妹――それでしかないのだ。
「私が本当の意味で、この里の守護者となれたのは、たぶん、あの子がいたからだ。
私一人だったら、どこかで迷いや揺れが生じたかもしれない。いい加減なことだと思われるかもしれないが、血のつながりの有無は、私にとって、さして重要なことではなかったんだよ。それに……先に話したように、直に父と母に確認をとったことは、一度もない。妹は本当にこのミイスの里で生を受けた、紛れもないミイスの子かもしれない。
私自身の思いとしては、『分からない、だが関係がない』その答えで良いと思っていた」
「あなたは間違ってないわ」
ロイの真情は疑いようのないものだと伝わってくる。
だからシェスターは言葉を添えた。
ロイは軽く笑みを浮かべたものの、首肯はせず、言葉を続けた。
「そうだね。私にとっては、それで終わらせて良かったのかもしれない。
だが、あの子にとってはどうだったろう? 『それで良い』と片づけて良い話だったのかどうか」
真実は、誰にとって必要なのか。
その問いにシェスターは真顔になった。ロイが息を吐き出すようにして空を見上げた。
「成長するに従って、あの子を、この隠れ里に縛りつけて良いのだろうかという疑問が生じたよ。
実際、あの子にとって、このミイスは、鳥籠なのではないかと思うことがあった。
だったら血や生まれで背負っている枷、それはもしかしたら偽りかもしれないと教えて、鳥のように放つべきなのではないかとね。
私に守護者の役目があるように、お前にはお前にしか飛べない空があって、願えば飛び立つこともできるんだと」
そう。彼女は、無限のソウルの持ち主だったのだ。
たとえそれと知っていなくても、時折見せる片鱗がたぐいまれなものであればあるほど、ここに埋もれさせておいて良いのかと思うことはあっただろう。
本人も、ここでこのまま過ごして良いのかと思うこともあったろう。
シェスターがそっと尋ねた。
「もしかして彼女は、嫌がっていたの? 神器の守護者として生きていくことを」
「そういうわけではないと思う。けれど、どこかで違和感を覚えていたようにも見えた。自分の在り方や居場所を、この村以外の場所に求めているようなところがあった。
でもそれは後から感じたことかな。
私があまり積極的に、一族のことを教えなかったせいもあって、あの子自身、自分の価値や存在意義について悩むようになったのかもしれない」
「あなたの方でも、妹に隠れ里の使命を背負わせることを、ためらっていたのね」
一方で、大切な妹だからこそ、関係がないと、切り離すこともできなかった。
シェスターが飲み込んだ言葉が聞こえたのか、ロイは軽くうなずき、小さな疼きを感じたように片目をゆがめた。
「そういう中途半端な接し方が、一番残酷だったんじゃないかと、今になっては思うよ。
もしかしたら、あの子はミイスの巫女となるべき素質を背負っていたからこそ、この村にやってきたかもしれないというのに」
守護者とするなら、その道を徹底的に。
それ以外の場所へと放つつもりなら、最初からそのつもりで。
どちらかに徹する方が、相手にとっても親切だったのではないかと。
だが、ロイの葛藤もわかるような気がした。シェスター自身、ロイの妹を知っている。決して身内の贔屓目ではなく、特別な娘だった。世界にも希な――特別な、資質を備えた少女。
ロイの妹の凛とした横顔が思い返される。
そこに、先ほど見た白い鳥の飛び立つ姿が重なった。
そして、シェスターは、ロイがどうしてこんな昔話を始めたのか悟った。
真珠を落として飛び立つ鳥――隠れ里に落とされた無限のソウル。
それは宝物としてこの地に落とされ、大切にされる魔法の真珠の方だったのか。
それとも少年に自覚の真珠を落として飛び去っていく、鳥の方だったのか。
シェスターが何か言葉をかけようと口を開きかけたのと、ロイが気が抜けたような小さな吐息を漏らしたのは同時だった。
ロイは緊張をほどいて苦笑した。
「だが私が抱えていた心配など、あまりに小さなものでしかなかった。
私はやっぱりミイスの守護者だから、この村を中心に考えていたが、あの子は世界の願いを背負って進む子だった。
だから……世界の方が、あの子を呼んだ」
ロイのひそかな葛藤も、ミイスの一族の小さな秘密も、突然吹き荒れた嵐の前では、あっけなく吹き飛ばされて。
確かな答えを出さぬまま、空の彼方へ、ひっそりと消えようとしている。
何が正しいのかなんて誰にもわからない――それでも、残月のように胸に残る悔いはある。
語るべきだったのか、黙ったままで良かったのか。
真実を尋ねるべきだったのか、それともそのまま埋もれさせておくべきなのか。
どこかあきらめたような遠い口調で、ロイは言った。
「結局私は、いつも土壇場で判断を誤るようだ。正しいことをできないまま年を重ねていっている気がする。
あの子は私と違って、無限ソウルの持ち主だったからな。私なんて簡単に乗り越えて行ってしまったよ」
「違うわ。そうではないと思う。
あなたが神器の守護者であるように、あの子が無限のソウルの持ち主だった……それだけのことよ」
ロイの言葉に重ねるようにして、シェスターは告げる。
ロイが彼女を見つめると、シェスターは口元を引き締め、もう一度、ロイに告げた。
「私にとっては、どちらも等しく大切なことなのよ。
あなたが神器の守護者でいてくれたこと。あの子が無限のソウルであったこと。
そうでなくては、私は、ここにこうして居ることはできなかったわ」
シェスターはなだめるような笑みを浮かべ、そっとロイに腕を伸ばす。
差し出されたその腕を、ロイはおずおずと迷うように、それからそっと静かに握った。
シェスターが言葉を続ける。
「あなたがミイスの守護者でいてくれたから。あの子が無限のソウルであったから。弟があなたと出会い、あなたの妹とともに必死に私を追いかけてきてくれたから。
だから、私は救われて、ここにやってくることができたのよ」
鳥は翼で種を運ぶ。
空の彼方より舞い降りて、小さな種を落としていく。その種が芽吹いて、他の植物と関連しあいながら緑となる。豊かな芽吹きのためには……運んでくる鳥も、落とされた種も、どちらも等しく必要なのだと。
落とされた種がどうなるかは、育ててみるまで、わからない。
そんな賭のような、縁のような、願いのような――偶然の積み重ねで、世界はいつだって成り立っている。
「あなたは、この村を、小さな鳥籠かもしれないと言った。
……けれど、私にとって、ここは本当に欲しかった、楽園そのものなのよ」
一言一言、まるで祈りの文句を唱えるかのように、シェスターが言葉を紡ぐ。
シェスターのいつも以上に真摯で真面目な言葉と、澄み切った声音に、ロイはそっと彼女を引き寄せた。
――答えは時に、正しいかどうかではなく、何をもたらすかで、その価値を測られることもあるのだ。
ずっと何かの答えを探していたが、それはもしかしたら、全く別の所、全く見当違いの場所から、もたらされるべきものだったのかもしれない。
シェスターの温かな腕と声を感じて、ロイはそっと腕に力を込めて、小さく答えた。
「君のその言葉が、私が探していた答えそのものだったのかもしれない」
何が正しいのかわからない世界で、後悔をかみしめながら生きている。どうすれば良かったのか、どうすればいいのか、今でも一つずつ迷いながら時を重ねている。
時々後ろを振り返りながら。進歩のない自分に、届かない才能に、小さな痛みを覚えながら。
けれど君のこの言葉があれば。
語られた話の苦さも語られなかった話の悔いも、いつか別の話として語れるような気がするよ。
2013-02-19
シェスターがセラとの関わりがあったからこそ最終的にロイを選ぶように、ロイも妹との関わりがあったからシェスターのような女性を選んだのだ、と思っています。