薔薇の下で・前編
リューガ邸の厳めしい門を通って、裏手へ回ると、緑溢れる庭園が訪問者を迎える。
庭の中央には、小さな白い噴水が静かに水音を立てている。その噴水を囲むように、大小様々の木々が葉をそよがせ、花壇の小花が花弁を風に揺らしていた。
「見事なものだな」
初夏の光が降り注ぐ庭の片隅に用意された、白クロスの掛けられたテーブルにつき、エルフィンは感嘆の声を上げた。
中央の大皿には、香草をまぶして焼かれた鶏肉とチーズをのせたジャガイモが湯気を立てている。籠に盛られたパンが焼きたての香ばしい匂いを漂わせ、瑞々 しさに溢れた野菜が透明なガラスの器に盛られていた。その隣には、赤ワインと曇りなく磨き上げられたグラスが置かれている。
女中と共に手早く料理を並べていたセバスチャンは、この金の髪をしたリューガ邸の秘密の妹――同時に大陸でも指折りの冒険者――の言葉に、はにかんだ笑みを浮かべた。
「もう少々お待ちくださいませ」
「私も手伝おうか?」
「いえ、すぐ支度も調いますから。どうぞ寛いでくださいませ。ここは、あなた様の家でもあるのですから」
「本当の主役まで働いているというのに、何だか悪い気もするな」
「エルフィン様のお役目は、レムオン様を連れ帰ってくださることだったではありませんか。十分果たして下さいました」
「じゃあ、言葉に甘えさせてもらうことにしよう」
エルフィンは頬杖をついて、眼前に広がる庭を眺めた。
庭の奥半分を占める薔薇の茂みは、今が盛りだった。濃い緑の葉が重なりあっている間を、柔らかな花弁の淡い紅、凛とした純白、光をまぶしたような鮮やかな黄色と、色も形も様々な薔薇が咲き誇っている。
レムオンは、そこでエストと薔薇を摘んでいるところだった。
兄弟二人で内々の話も交わしているのだろう。二人の姿は、葉陰に隠されて見えなかった。薔薇の茂みは優雅でありながら、棘と肉厚の葉で何かをそっと守っている、小さな秘密の森でもあった。
「二人の母が造った庭だと聞いたが」
「スム様は花の好きなお方でした。時折庭に出て、自らの手で薔薇の手入れをしておられました」
「いい庭だな。自然のままの自由な空気が感じられるようで」
穏やかな草花の調和は、きちんと手入れのされている証拠だったが、宮廷の中庭のように整然と刈り込まれてはおらず、どこか素朴で野性味ある雰囲気を残している。
女中が最後の食事を運び終え、配膳台を屋内に戻しに行った。給仕のためにその場に残ったセバスチャンは、エルフィンの言葉に微笑んだ。
「エルフィン様のお言葉を聞いたなら、スム様もお喜びになると思います。ここは、そのための庭でしたから」
エルフィンの目が怪訝そうにセバスチャンに据えられた。
濃青の光を宿した瞳に、セバスチャンは不思議な力強さを感じて、口を開いた。
「もう、10年以上前になりますでしょうか。わたくしが使用人として、初めてレムオン様にご挨拶をしたのが、あの薔薇の茂みでございました。そのときレムオン様は、咲いている薔薇の一つに唇を寄せておられました」
二人の間を風が通り抜けた。微かに薔薇の香りが漂った。
「あのときレムオン様は、薔薇の精気を吸っておられたのですね」
語りながらセバスチャンは、自身の少年時代を思い出していた。
* * *
「わたくしの孫です。本日より、奉公させていただきます」
祖父の声に、真新しい使用人服に身を包んだ少年は、緊張に身を引き締めて、頭を下げた。
今日から自分は、この屋敷に住み込んで働くのだ。ここは自分にとって第二の住処になる……そこまで言ってしまうのは恐れ多いが、他に家と呼べるような場所はないのだ。
代々リューガ家に仕える家系に生まれ、それが当たり前の環境に育ち、自分もいずれ奉公に上がるのだろうとは思っていたが、それは祖父が引退した時、その代わりにというつもりだった。
しかし人生は、思いがけず早く動いてしまうことがある。
母が亡くなったのは、先々月のことだった。祖父母子三人家族の中で、真ん中にぽっかりと空いてしまった穴は大きく、一人残された孫の身を、祖父はあれこれ思い悩んだようだが、自分の側に呼んでこの仕事を教えておくことが一番いいと思ったようだ。
結果、彼はまだ10歳の身であったが、特別に貴族の屋敷に出入りすることを許された。当然ながら、使用人の中では最年少だ。
「名は確か、セバスチャンと言うのでしたね」
柔らかな雨を思わせる声が頭上から降ってきた。
それが祖父にではなく、自分に向けられている事を察して、セバスチャンはうろたえた。
ほれ、と小声で祖父に肩をつつかれ、慌てて返事をして顔を上げる。
濃青のドレスを纏い、長い金の髪を優雅に結い流し、肘掛け椅子に身を預けているリューガ当主代理・スムの姿は、この屋敷を束ねる女主人の威厳と品格を宿していた。
だが、その翠緑の瞳と声音は植物のように穏やかで、どこか母を忍ばせる懐かしさを感じさせた。
なぜかセバスチャンは身じろぎしそうになって、誤魔化すように、もう一度頭を下げる。
スムの声が、セバスチャンを包むように続いた。
「あなたの母君には、乳母としてレムオンとエストの世話をしてもらいました。その分あなたから、母親を奪ってしまって、もしかしたら寂しい思いをさせたかもしれませんね。こんなにも早く亡くなられるとは、思っていませんでした」
丁寧な悔やみの言葉に、セバスチャンは息を吸い込み、今度はそっと失礼に当たらない速さで身を起こす。
スムは静かにセバスチャンを見守っていたが、目が合うと、まだ初々しいセバスチャンを安心させるように微笑みを浮かべた。
「レムオンより一つ年上だそうですね。同じ年頃だからこそ、分かることもあるでしょう。あの子の助けになってやって欲しいわ」
あの子は少し寂しい子で、人より多く苦労を背負う運命にあるから、と。
スムはそう言って、視線を窓の外に送った。
二人が通されているのは執務室ではなく、彼女の私室だった。
重たいカーテンが開けられた窓の外には、リューガ邸を取り囲む壮麗な塀と樹木の枝が広がっている。その間を縫うように、細い小道が通っていた。館をぐるりと囲むように迂回し、奥の庭園へと続く石畳の道だった。
窓から差し込む光に目を細め、スムはセバスチャンに向き直ると、囁くような声で彼にレムオンのことを教えた。
「本当なら、ここに呼んで紹介するべきなのかもしれないけれど、あの子は時折屋敷の中から姿を消すことがあるの。そういうときは、大抵庭にいるのよ。一人きりで」
一体どんな人なのだろう。
自分より一つ年下の、このリューガ家のあまりにも若すぎる当主。
期待と不安の入り交じった気持ちで、レムオンという人を想像しながら、セバスチャンはスムに教えられた庭にやってきたが、そこには誰もいなかった。
ただ緑の葉が鮮やかに生い茂り、降り注ぐ日の光が、それと対照的な暗い陰を生み出しているだけだ。
出会い頭の挨拶や態度をあれこれ思い描いて準備していただけに、静かで穏やかな庭の様子は拍子抜けにも感じられたが、それが浮き足立っている自分を感じさせて、セバスチャンは大きく息を吸い込んだ。
自分の母がここに居たことを、どこか不思議な気持ちで想像しながら、セバスチャンはゆっくりと庭を歩いた。
スムの夫、エリエナイ公爵はすでに亡くなっていた。未亡人となったスムは、幼いレムオンの後見人として、現在リューガの摂政を務めているのだという。
――本当に素敵な、良くできた奥方様よ。
生前セバスチャンの母は言っていた。ただ時折、悔しさを噛み締めるように、こうも言っていた。
――スム様とお子様方がお可哀相。
セバスチャンの母がいた頃は、エリエナイ公爵も健在だった。
だが母は、この先代当主に良い感情を抱いていなかったようだ。他の多くのロストール貴族と同様、政務より放蕩にふけることに傾きがちだったエリエナイ公爵は、ほとんど家庭を顧みず、スム相手に罵りの言葉を投げつけることも多かったという。
セバスチャンの母は、もしかしたら、そんなリューガの家に、自身の姿を重ねてみていたのかもしれなかった。
セバスチャンは、父親の顔を覚えていない。セバスチャンが生まれて間もなく、家を飛び出してしまい、それっきりなのだという。昔、父のことを尋ねたときに、ぎこちない口調で教えられ、以来父の話は、祖父からも母からも出されることはなかった。幼心にセバスチャンも、それは口にしてはならないことなのだと悟った。
顔すら覚えてなければ、思慕など抱きようがない。ただ、自分と祖父との間に、いるべきはずの人がいなかったと、それだけの事だ。
そのせいで、セバスチャンは予想よりもずっと早く屋敷勤めに上がることになったわけだが。
――レムオンより一つ年上だそうですね。同じ年頃だからこそ、分かることもあるでしょう――。
何を期待しているのか自分でも分からない。
だが、ぼんやりしていた意識が、不思議な気配を感じとった。
目を向けると、庭の奥の緑の茂みが、乾いた音を立てて揺れた。
その緑の葉の奥に、鮮やかな色彩を見つけた。赤い衣の切れ端。おそらくは人の影。
心臓が早鐘を打つ。セバスチャンの足が、無意識に速くなっていた。
誘われるように、薔薇の茂みの暗がりに足を踏み込れ――目に入った光景に、胸を突かれて足を止めた。
金の髪をした少年が、一人、祈るような静かな仕草で、長く伸びた蔓の先の白い薔薇に唇を寄せていた。
濃緑の茂みの中で、少年の髪が踊る木漏れ日を受けて輝いていた。
身に纏っている真紅の長衣は、優雅で上品で、花のように鮮やかだった。
瞳を閉じた横顔は、見えない何かと秘密の言葉を交わしているかのようだった。
だがその時間は、一瞬にして消えた。
少年がすぐさま険しい目で振り返り、この聖域を侵した闖入者を睨んだからだ。
目が合うか合わないかの差で、とっさにセバスチャンは頭を下げた。
考えるよりも先に、言葉が口から飛び出していた。
「申し訳ありません!」
「――おまえ、何者だ?」
低く押し殺したような声は、自分より年下の子供から発せられたものとは思えなかった。
威圧に満ちた、殺気すら感じさせる声に、目の前にいる少年は、自分とは住んでいる世界が違う人なのだと思い知らされながら、セバスチャンは早口で続けていた。
「本日よりこちらに務めさせていただくことになりました、セバスチャンと申します」
祖父と母の名を出すと、目の前の気配が和らいだような気がしたが、顔をあげると、レムオンは警戒するような表情のまま、疑いの声をかけてきた。
「おまえのような子供が、このリューガの家に?」
同年代の相手に言われる事ではなかったが、腹は立たなかった。それだけの格の差があるのだと、理屈ではなく思い知らされたばかりだ。
ぼそぼそとセバスチャンが続けた。
「母が亡くなり、私が独りになってしまうと思った祖父が、スム様に、お頼み申しあげました」
「父親はどうした?」
カッと身体が熱くなるような感覚を覚えながら、セバスチャンは答えた。
「……いません。私は、顔を知りません」
「そうか」
素っ気ない口調で答え、金髪の少年は身を翻した。
セバスチャンには見向きもせずに、真紅の衣を翻し、すたすたと薔薇の茂みを抜けて屋敷へと戻ってしまう。目の前を通り抜けた横顔は、息を止めるほどに綺麗だったが、声をかけられないほどに冷たいものでもあった。
セバスチャンは途方に暮れたまま、独りそこに残された。
最悪といえば、最悪の顔合わせだった。実は初対面ではない。本当にまだ歩くこともできないほどの赤子の頃、やむにやまれず母はセバスチャンを背負ったまま、リューガの家に出向いたこともあったという。一度か二度、レムオンと顔を合わせたこともあったはずだ。
もちろんセバスチャン自身覚えていないのだから、レムオンだって忘れているだろう。
ここで、自分はあの人に仕えるのか。
この先どうなってしまうのか不安に思いながら、セバスチャンは傍らの枝に目をやった。
さきほどレムオンが唇を寄せていた、白い薔薇の茂み。そのうちの一本、棘を宿した蔓の先が、不自然にしおれているのを見つけて、セバスチャンは不思議に思い、視線を落とした。
土の色がそこだけ変わっていた。
土の上に、白っぽく乾いた粉が降り落ちて、地面を覆っていた。
…………灰?
手を伸ばして触れようとすると、風が吹いて灰の山を崩し、さらさらと吹き流していった。
後には薔薇の香が残っただけだった。
*
独りでいるところに、無遠慮に踏み込むような真似をしてしまったのがいけなかったのだろう。
あれ以来レムオンが、何かを言ってくることはなかったが、屋敷内で顔を合わせても、セバスチャンには、よそよそしかった。相手と自分の間には、主人と使 用人、貴族と平民という見えない境界線があることは承知しているが、レムオンの態度は、それだけで片づけるには、いささか頑なで、素気なさすぎるものに思 えた。
おそらく自分は嫌われているのだろう。
屋敷を追い出されなかっただけ良かったと思わなくてはならないのかもしれない。きっとスムと祖父の存在が、自分をかばってくれたのだ。
表向きうまくやっているように見える孫が、実は色々思い悩んでいるらしい。
特に、一つ違いの主人との関係で悩んでいるようだ。
長年リューガ家が誇る有能な執事として、使用人たちを監督してきた祖父の目は、セバスチャンの微妙な心情と立場を見抜いた。そっとセバスチャンを呼ぶと、以前レムオンの身に起こった事件のことを話して聞かせた。
「――誘拐?」
「未遂に終わって、レムオン様はご無事だったが、従者が一人、命を落とした」
魔法の心得があると聞いていなかったが、彼の亡骸の側には大量の灰が残っていた。炎の呪文を使って、命がけでレムオン様をお守りしたのかもしれん。
何気なく続いた祖父の言葉が、セバスチャンの記憶を疼かせた。
……あのときも確か、灰を見た。
セバスチャンの記憶が何を意味するかは分からなかったが、その事件がレムオンに与えた意味は大きかったようだ。レムオンは、それ以来剣を習い始めたという。貴族の子息が礼儀として覚えるものよりも、遙かに真剣な意気込みで。
「それ、いつ頃の話?」
「3、4年ほど前のことになるか」
そのころの自分を想像して、セバスチャンは苦い気持ちになった。命を狙われる危険もなければ、自ら剣をとって身を守る必要もない、ごく普通の子供時代。
祖父は、ためらいがちに付け加えた。貴族の御方々は、自分を害する者がいるという危険の自覚と、そこから身を守る術を必要とするものだが、レムオン様の 場合は、ずいぶん早くに、自分の身には命としてだけではない価値があり、刃を向けられる恐怖を知り、人が死ぬのを目の当たりにしてしまったと。
リューガの家に生まれつくということは、想像以上に、過酷なものであるらしい。
「レムオン様の頑なさは、お前を嫌ってのことではないよ。あの方は、他人に対して、常に用心深いのだ」
祖父は、そこで口をつぐんだ。不意に訪れた沈黙の重さに、セバスチャンが不安になって尋ねる。
「どうしたの?」
「秘密というのは、警戒心も一緒に育ててしまうことだ。けれど、それは人を孤独にもしてしまう。スム様は、そこを心配しておられた。……儂がお前の話を出 したとき、儂よりも、スム様の方がお喜びになって下さった。レムオン様には、お前のような相手が必要なのだと思われたのだろう」
祖父の言葉は唐突すぎてセバスチャンには追いつけなかったが、初めてスムに引き合わされた時のことを思い出した。
祖父もスムも、レムオンのことを心配して、セバスチャンに何かを期待しているのは、なんとなく感じられた。だがその期待に応えたいと思うには、セバスチャンには分からないことが多すぎた。自分の力量への自信も全くなかった。
内気で、おとなしい孫が浮かべた不安そうな顔に、祖父は控えめに唇だけで微笑んだ。
「お前がレムオン様のためだけではなく……自分自身のためにも、良き従者になれるよう祈っているよ」
励ましと言うよりは、まるで遺言のようだと、セバスチャンは、どこか遠い気持ちで祖父の言葉を聞いていた。
*
季節が移るにつれ、庭の色も変わっていった。鮮やかな緑の夏を終え、秋の深い色に染まり、冬の静謐な色合いへと。
季節の色と同調するように、セバスチャンの心も少しずつ鎮まり、整理されていった。
祖父の話が、思った以上に効いたようだった。落ち着いてよく見てみれば、祖父の言葉通り、レムオンの態度は、セバスチャンを特別に意識してのことではなかった。生真面目で冷めたような、それでいて常に何かに身構えているような態度は、レムオンにとっては常のことだった。
誰に対しても、どこか一線を引いて、その先へと踏み込ませない。
冷たそうだと瞬間的に思ってしまったのは、レムオンがいつも何かを用心深くうかがって、他人に隙を見せず、不用意に引いた線の内側に入り込もうとすれば、すぐさま刃を抜くような緊張感を纏っているからだ。
そんなレムオンの頑なさも、家族の前では和らぐようだった。
弟のエストの面倒を見ているときのレムオンは、いつも通りの生真面目で硬質な雰囲気のままだったが、エストが持ち前の人なつこさで兄を慕ってくると、何とか笑顔で返そうとする努力が伺えた。それは、どことなく不器用さが漂う笑顔ではあったけれども。
母のスムと話しているときもそうだった。張りつめた気配が、少しだけ緩んでいるように思えた。
その姿を見て、セバスチャンは何故か、安心するような、不安に思うような複雑な気持ちになった。
レムオンは、母親相手であっても、完全に緊張を解いて、無防備になれないようだった。親しげに話してはいるが、甘えているようには思えなかった。
自分と母の関係はどうだったろうか、とリューガの母子の姿を見てセバスチャンは考えたが、自分とレムオン様とでは差がありすぎて、一緒にはできないと首を振った。
スムの庭は、初夏と秋に薔薇を咲かせた。
ある秋の日、スムが絹の手袋をはめ、庭に出て、注意深い手つきで薔薇の手入れをしていた。
慌ててセバスチャンは自分が仕事を代わろうとしたが、スムは笑って、目の前で揺れている白い薔薇に手をさしのべて言った。
この庭は、わたくしのもうひとつの家。特にこの薔薇は、もうひとりの子供なのよ、と。
雪のように白く清らかで、けれど触れられる事を拒むように棘を持つ花に、セバスチャンは何気なく呟いた。
「――レムオン様のようですね」
高貴で美しく冷たく、棘を持つほどに繊細な。
スムは一瞬だけ驚いた目をして、それからゆっくりと笑顔を浮かべた。
「ありがとう。この庭は、あの子のための庭でもあるの。伸びやかに安心して、息の継げる場所があったらと願って」
そう言ってセバスチャンに向けたスムの瞳の色は、薔薇の葉を透かしたような美しい緑だった。エストに受け継がれた色だ。
そう言えば、レムオン様とは色が違うのだなと、そこで気づいた。レムオンは父親のものを継いだのかも知れない。レムオンの瞳は、暗褐色に近い黒だった。
スムは指を伸ばし、どこか切ない目をして、薔薇を一輪、丁寧に摘みとった。
薔薇が何度か咲いては散った。
五年が過ぎて、セバスチャンが屋敷にも仕事にも人にも慣れ、祖父の仕事をほぼ学び終えた頃、気が緩んだのか、セバスチャンの祖父は病に伏した。
病気らしい病気もせず、年を感じさせない働きをしていた人だったが、寝台に横たわった姿は、思いがけないほど小さく見えた。
枕元に付き添ったセバスチャンに、祖父は静かな口調で語りだした。
「いつか口にした、秘密と孤独の関係を覚えているか?」
人は自分の死を予感すると一番大事な事を語るという。
そのことを意識しながらセバスチャンが曖昧に頷くと、祖父は言葉を続けた。
お前の母はレムオン様の乳母を務めたが、当時、何がどうあっても乳母が必要だったのだ。口の堅い、絶対に信用できる乳母が。
――スム様とレムオン様は、血のつながりがないのだと。
セバスチャンは息を止めて目を見開いた。
瞬間、頑なな表情のレムオンと、スムの言葉と、先代エリエナイ公のことを語っていた母の姿が、浮かんで消えた。
祖父は淡々と続けた。お前の母親が、乳母としての役目を終えたとき、すぐさま暇を出されたのは、夫の居ない乳母ということで、根も葉もない噂が立ったからだ。子供の父親をあれこれ詮索する陰口は、二重の刃となって、スム様を傷つけたと。
もう完全な子供でもなかったから、何のことを指しているのか分かって、セバスチャンの胸が騒いだ。
自分の父親の事について、あらぬ疑いがよぎったが、穏やかな気質の祖父が、初めて見せた吐き捨てるような憤りが、それを否定していた。
「……馬鹿げた話だ。人は時々、光より影を面白がって好む。見える物の背後に、暗い真実を見つけたと騒ぎ立てる。その無責任な言葉が、今目の前にある事実を、どれだけ損なうことか」
祖父は、病人とは思えない強い目で、セバスチャンを見て言った。
「執事というのは、時々その家の奥に秘められている秘密を、主人と一緒に抱えていかなくてはならないことがある。秘密を共有して分かち合う場合もあれば、 それとなく触れずにおいて見守る場合もある。レムオン様の場合は……それが人よりも重い。そして、お前もレムオン様もまだ若い。若いが……。お前が、この 家にずいぶん早く来ることになったとき、儂はそこに何か意味があると思った」
どうか、今度は儂の代わりに、リューガの家の方々をよろしく頼むと。
遺言代わりに秘密を託して、セバスチャンの祖父は翌朝、静かに息をひきとった。
最後までリューガに忠実で、執事としての自分に誇りを持っていた人だった。
時代が移る時には、まるで申し合わせたように、事件が頻発し、一つのうねりを持って流れていくことがある。
セバスチャンの祖父が亡くなった翌年、今度はスムが病に倒れた。
2008-07-20