リアルーン
「ネメアよ。そなたはこれまで、余の願いを幾度となくかなえてくれた。今一度、頼まれてはくれまいか」
玉座に腰掛けたエリュマルクの言葉を、ネメアは無言で聞いている。
「覚えておろう? かの施文院の大神官を。この地上にもリアルーンがいるのだな」
神の園に咲く名花。美を司る女神リアルーンは、自身もその立場に相応しく、絶世の美女であったという。
天空神ノトゥーンすら彼女に魅了された。
だがリアルーンは、誰も愛さぬ永遠の処女。天空神の手を素気なく払った。
エリュマルクとて、リアルーンの逸話は知っているだろうに。
「……ネメアよ。余の願いを叶えてくれ」
熱に浮かされたような響きで、エリュマルクは執拗に繰り返す。
その言葉は、本当に美の女神に焦がれてのことか、現世の英雄に対する挑戦か。
ネメアがイズを連れ帰ってくることを望んでいたのか、失敗することを望んでいたのか。
エリュマルクの言葉とまなざしに、ネメアが何を感じたかは分からない。
ただネメアは、王の願いを聞き入れた。
王に命じられた英雄は、見事に施文院の至宝を携え、舞い戻る。
本来であれば摘まれ得ぬはずの花を、英雄は手折り、その腕に抱きかかえて、主君に差し出した。
* * *
「……そのときのことを覚えておられますか? ネメア様」
遠い日を懐かしく夢見る目で、イズは尋ねた。
イズの問いにネメアは黙ったまま答えなかったが、彼の目に答えを見つけ、イズは静かに笑った。
「異端の烙印を押されるからには、それだけの理由があり、迫害と弾圧に対する備えはあります。
けれどあなたは、古来より研鑽されてきた施文院の守りなど、鍵のない扉のように易々と破って、わたくしの前に現れた」
脅すでもなく、無理に抱き寄せるでもなく、ただ悠然と英雄の雄姿をもって、イズを告知天使が集う異端の寺院から連れ去った。彼女を手に入れろという、別の男の命に従って。
イズは最初からそれを知っていて、迎えの手を取った。
それは彼女をさらいに来たのが、ネメアだったからだ。
彼女が静かに笑うと、それに合わせて、幾重にも重ねられた白い薄絹の裾が、鳥の羽のようにふわりと揺れた。
皇后は白のドレスを好んだ。月の光のように淡く輝く細い金の髪を結い上げ、純白のドレスの裾を揺らし、滑るように軽やかに、それでいて静かに密やかに城内を歩くイズの姿は、リアルーンと呼ぶに相応しかった。
そんな彼女の姿は、ディンガル城には馴染まなかった。
神秘を色濃くただよわせる華奢な女神の姿は、無骨で堅牢な軍事国の城の中では、浮いて見えるのだ。
透けるほどの白い肌、神官として培われた深淵なまなざしは、周囲の人間に親近感のかけらも与えず、権力を誇示する威圧とも無縁のまま、透明な輝きを放ち続ける。
皇后の称号を与えられたところで、何ら変わりはなかった。
女神は地上の名では縛れない。その美貌は、高く清らかに澄み切ったまま。
イズをリアルーンにたとえたエリュマルクの目は確かだった。心開かぬイズに対し、エリュマルクはその不実をなじったが、リアルーンであれば当然のこと。気高く高潔なリアルーンは、美の女神であり、愛の女神ライラネートとは全く違う存在なのだ。
イズは、拒絶を口にする必要などなかった。
ただ在るがままの自分の姿で、ただその場を歩くだけで完璧なまでにエリュマルクを否定していた。
「皇帝の命令に背いて、私を逃がしにきたのでしょう? あなたはそういうお方です。厳格で頑な意志ゆえに争いの炎を煽る真似をしながら、気まぐれに優しさと哀れみを他者にかける」
責める口調ではなく、どこか甘やかな声で、歌うようにイズは告げた。
本来であれば、罪人は処刑の日まで監獄ですごすのが習わしだ。だが皇后イズは、そのときが来るまで、エリュマルクが彼女のために造らせた皇后の私室で、常変わりなく過ごしていた。それはエリュマルクが、地上の女神の美に最後まで屈服していることの証だった。
ネメアが訪れた今このときも、彼女は、ここにつれてこられたときと同じ美しさを湛え、ディンガル皇后として君臨していた。
だがイズは一息にそれを飲み込み、次にはもう施文院大神官の顔になって、告げた。
「あなたなら、レオニック文書の存在はご存じでしょう? この世の行く末が記されているという、大封士レオニックが残した預言書を。
施文院大神官の役割は、この予言書に従い、預言の導きによって、世界の動きを監視し統制すること。わたくしたちは、時には世界が正しく動くよう、数々の預言の実行に携わってきました」
そこで言葉を句切り、イズは静かに教え諭すように続けた。
「けれど本当に大きな運命というべき絶対的な預言は、わたくしたちの補助の手など必要とはしないのですよ」
のち『新たなる神』としての宿命を背負わされた弟のために、大神官としての役割に反して、予言に逆らおうとした。けれど運命は変えられなかった。
それは自らの道を振り返っての諦念に近いものだった。
「わたくしはわたくしなりの手段で、運命に抗おうとしたつもりです。けれどあなたが、わたくしの前にあらわれた」
あなたを殺せたら、預言は崩れるというのに。
一目見て殺せなくなった。だからせめてもの抵抗としてバロルに不死の術をかけた。
それすら、あなたはうち破った。
――――そう。すべては、預言書に記されていたとおりに。
自分の恋心も敗北も。その先にある死という結末さえも。
イズの吐息の訴えを、ネメアは身じろぐこともなく、否定するでもなく聞いていた。
水のような涼やかな声音を崩すことなく、凛とした瞳でイズは告げた。
「わたくしにとって、エリュマルク帝などどうでも良いことです。自分の行く末もまた同様に。預言書には先々のことが記されています。わたくしの身に起こる些末なことだけでなく、この先の世界の傾斜とその果てにある終局までも、くっきりと」
「すべては運命だったと?」
ようやく口を開いたネメアの低く短い問いかけに、イズはなだめるような淡い笑みを返した。
「ネメア様。運命とは何でしょうか?
わたくしは運命に負けたのではなく、わたくし自身の心に負けたのかもしれません。けれど、その二つの違いが、何だというのです?
わたくしは抗うことをやめたおかげで、自由にもなれたのですよ」
運命に抗い戦い続けることが、その束縛から逃れることなのでしょうか。
時に運命に行く手を委ね、心をあずけることで、手に入るものもある――。
ネメアの顔には何も浮かばなかったが、イズの言葉が小さなさざ波を立てているのは確かだった。
だが英雄はそれを最後まで認めないだろう。そんな彼は愛しくも憎くも、哀れにも、思える。
未来にあきらめをおいたなら、一時でも愛しい男の側にありたいと願う心に従うことはたやすかった。
だからこそ、宿る痛みもまたあったが。
「ただ一つのわたくしの心残りは、わたくしに科された罪状が真実ではないことです。
そして、あなたは、それを事実にはしてくださらない」
――抱いてくだされば、わたくしは心おきなく黄泉路へとゆけますのに。
エリュマルクの小さな嫉妬では、この身を貶めることも辱めることもできないと、言外にイズは言ってのけ、ネメアを誘うように告げた。
しかしイズの望みを耳にしながら、ネメアは決して手を伸ばそうとはしなかった。
そんなネメアの姿に、イズは水のような透明なほほえみを崩さなかった。
最初からわかっていたことだ。焦がれても、結ばれることは決してない。
わかっていたことだったが……だったら違う形でいいから、自分という存在を相手に刻みたいと思うのは、悪あがきなのだろうか、それともこれが。
愛を交わすことができないならば、せめて私を忘れないように、爪を立て、心の底に残る傷を。
イズはふと目を上げ、刃のような瞳でネメアを見つめた。
凛として、どこまでも誇り高く、世界中から嫉妬を受けかねないような超然とした瞳だった。
死を呼ぶ獅子と、闇を覗く目を持つ大神官。その瞳と光輝は、正反対のようでいてとてもよく似ているのに、最後まで同じ色で重なることはなかった。
女が本能で分かることが、男には永遠に分からない。
イズは、ゆっくりと表情をとく。
それは、微笑と言うには、あまりにも冷たく無慈悲なものであったが、だからこそ、壮絶なまでに美しかった。
「無実の者を死に追いやっても、他者の望みを踏みにじっても、独り昂然と頭をあげて突き進む。
無数の屍にも動じぬあなたの意志は、研ぎ澄まされ、高潔なものであるのでしょう。
けれど、その姿は破壊神ウルグと変わりなく人々の目には映るでしょう。
運命に抗いながら、運命通りに巻き込まれる哀れなお方――あなたの道は、そういう道です。
レオニックの預言書には、そう記されております」
心に秘めた想いを、美しい呪いとして、イズは言葉を紡いだ。
それは彼女の遺言でもあり、最後の預言でもあり、愛し方を知らない冥界への門を司る大神官としての生き様を誇るものでもあり、最上の愛の言葉だった。
イズは背筋を伸ばし、優雅に腰を折って一礼した。
「ごきげんよう、ネメア様。わたくしは一足先に逝って、あなたをずっと待っております」
* * *
美の女神リアルーン。
絵筆を超える美しさゆえに、彼女の姿は絵画にとどめおかれることはほとんどなく、その姿は詩人の言葉の中に多く語り継がれている。
リアルーンについての逸話は数多い。絶世の美女でありながら、誰も愛することができなかった彼女は、孤独な永遠の処女とも、心を持たぬ人形とも呼ばれている。
天空神の手すら冷たく拒み、誰のものにもならない無慈悲な花。
その一方で、愛を傾けた対象があったとも伝えられている。
破壊神ウルグを愛していた、とも、戦神ソリアスに焦がれていた、とも。
* * *
ディンガル城下町外れの墓地に、時折一人の男が姿を現す。
豪奢な金の髪をなびかせた彼は、墓所に相応しく寡黙で荘厳な足取りで、墓所中央に位置する皇族の墓標の前へと向かう。
地上のリアルーンと讃えられ、悲劇の皇后としての姿を刻んだ彼女は、罪人として処刑されたものの、その亡骸は皇族として相応しい扱いを受け、丁重に埋葬された。
その墓を見舞う彼の手には、ごくごく稀に花が携えられていることもあるが、大半は手ぶらのままだ。彼の訪問が、死者の眠りを慰めるためのものではないからかもしれない。
見舞うのではなく、己の姿を見せるために。
いままだこうして現世にある己の姿を、冷たい石の下で眠る彼女に見せるために。
まだそちらに向かうことはないと伝えるために。
リアルーンは、天の高みで冷たく輝く、決して手に入らぬ花。
摘まれ得ぬ花を、手折ることのできた英雄が現れた時点で、すべては定まってしまったのかもしれないが、彼はそれを運命とは決して呼ばない。
2007-02-06