赤い軌跡
王城前通りには、皇后キャスリオンと新御子を一目見ようと、朝から人々が群れ集った。
エスリン、ルグと子を授かったあと、皇帝バロルと皇后キャスリオンの間に久しく子はなかった。それが今年、第三子エリュマルクが生まれ、帝都エンシャントでは、新御子の誕生を祝う祝賀祭が、都をあげて開かれた。
質実剛健。そんな言葉を体現しているディンガル政府にしては、珍しく華やいだ催しだったが、これは皇后の提案だったという。
……こうしたお祭りも、時には人の心の潤いとして、必要なものなのよ。
キャスリオンは、夫であるバロルに、そう言ったのだそうだ。
きらびやかに飾り付けられた軍馬が列をなして練り歩く。中央の輿には、腕に幼子を抱いたキャスリオンの姿があった。家屋の軒先には華飾りが揺れ、紙吹雪が窓辺から盛大に振りまかれ、祝いの声は歓声となって、通りを包み込んだ。
先の繁栄を約束するような絵。
だが、ここに皇帝バロルの姿はなかった。
山積みの政務に追われていたせいもあったし、その性格と容貌から人前に出ることをあまり好まない孤独な英雄は、ひっそりと王城内で留守番をしていたのだった。
パレードが終わり、隊列が乱れもなく、しずしずと王城に戻ってくる。
先に子供を女官に託し、王城内の中央広場で輿から降りようとしたキャスリオンは、自分の手を引いた相手が将軍アンギルダンだと分かると、微笑んだ。
わざとらしく畏まって、アンギルダンは皇后に祝辞を述べた。
「おめでとうございます。皇后陛下」
「ありがとう。あなたに改めて言われると、なんだか照れるわね」
キャスリオンの笑みは、不思議といつまでも若々しく、明るい声も変わらなかった。
親しみが滲むやりとりは、かつては戦友だったという関係からくるものだ。
アンギルダンがキャスリオンと初めて会ったのは、バロルがまだヌアド帝配下の将軍として、ディンガル統一のために戦っていた時のことだ。そのとき彼女は、仮面の女騎士として、顔も名前も身分も、すべてを隠して、バロルの元に参じたのだ。
仮にもヌアド帝の姫御子だ。今となっては、その大胆さに呆れもするし、それほどバロルの側にいたかったのかと情熱に敬服もするが……最初に彼女に対して抱いたのは、強い不信感だった。何せ、すべてが秘密に包まれていた女性だったのだから。
彼女をバロルに引き合わせたのが、あのゾフォルだったせいもある。
アンギルダンとゾフォルは、当時から全くそりが合わなかった。アンギルダンが右と言えば、ゾフォルは左と言う。攻めると言えば、守ると言う。夕食に遊牧民の腕を披露して肉をとってこようと言えば、自慢の釣り竿で魚を釣ってみせようと言う。そんな二人だった。
だが次第に彼女の実力が本物であることがわかってからは――彼女のバロルに対する忠誠心が本物と分かってからは――アンギルダンも文句はなくなった。
剣の腕も良かったが、目を見張ったのは、その知恵、軍略の巧みさだった。
表情が分からなかった分、彼女がバロルに策を提案するときの、明るくよく通る声と、冷静で明晰な語り口調が、強くアンギルダンの耳に残っている。
同じ内容であっても、ゾフォルのように嫌味にも冷たくも聞こえなかったところが、彼女の不思議なところだった。聞いている分には、鈴を転がすような明る く柔らかな声なのだ。だが冷静な判断を下し、時に冷厳とさえ思える指示をきっぱりと出す時には、妨げることを許さない凛とした鋼の強さがあった。
今にして思えば、それは王族の持つ気品と誇りの宿っていた声だった。
――昔と変わらぬそんな彼女の声が、独り言のような呟きを漏らした。
「エンシャントも、ずいぶん立派になったわ。まさに大都市の賑わいね」
「……何か、気になることでも?」
喜びのようでいて、どこか影のある響きに、アンギルダンが問いかける。
キャスリオンはすばやく笑った。
「そうじゃないのよ……ただ、そうね。色んな物が思う以上に早く完成していく気がして。私としては、もう少しゆっくりと事を進めても良いと思うのだけど」
キャスリオンが、すぐ隣に立つアンギルダンをまぶしそうに見つめる。
「あの人も、あなたのように、大らかな気持ちで生きてくれると、ずいぶん助かるのだけど」
「バロルは昔から生真面目すぎるところがありました。もっと遊ぶべきだと色々連れ出してみたのですが、どうもうまくいかなかった」
アンギルダンの冗談に、キャスリオンはくすりと笑った。
今でこそ君主と臣下という立場だが、アンギルダンとバロルは、親友の間柄だった。
当時ディンガル辺境の地で遊牧の民として生きていたアンギルダンの元に、家出をしたバロルが転がり込んできた。以来寝食を共にする生活が続き、その縁がどう転がったのか、気づいたらディンガル統一のための戦列に肩を並べて臨むことになっていた。
人生に転機というのものがあるのだとしたら。
バロルにとってもアンギルダンにとっても、互いが互いに会った事だったのかもしれない。
以来、アンギルダンの人生は、まだ面白く転がり続けている。
今ではなんと遊牧民族の出としては異例の、ディンガル帝国将軍という立場に収まっているのだ。
アンギルダン自身は、それを楽しんでいるし、悪くないと思っている。いや、十分すぎるほどだ。自分に自信はあったし、名誉を人並みには望んでいたが、将軍の座なんてたいそうな物を狙っていたわけではなかったのだ。
だから、バロルの性急さを、不安にも思った。
理想が高く、情熱的で、信念一徹。バロルのそこが親友として大きな誇りである事は確かだったが、側で見ていて思うのだ。
そんなに生き急がなくても良いのではと。
ディンガルを統一し、紆余曲折の末、皇帝として即位したバロルが真っ先に行ったのが、帝都ケルクから聖都エンシャントへの遷都だった。
内乱の絶えないディンガルを統一して、平和な国を作ること。血筋や家柄を問わず、どんな者にも等しく機会が与えられ、能力のある者には道の拓ける社会を作ること。
そのためにバロルは既存のものを廃して、新たな場所で新たな政治を始めることを望んだ。遷都は、バロルの信念の宣言であり、理想へ続く階段でもあった。
だが、急ぎすぎる足は、周囲の風景を霞ませる。
時としてバロルは、周りのことが目に入らなくなる部分があった。
人より能力があり、未来を夢見て動く分、かえって身近なことが分からなくなる。清廉で潔癖な故に、怠惰や堕落が分からない。才能と孤独を、両方抱え込んでいるような部分が。
そういう点では、アンギルダンとバロルは正反対だった。
むしろゾフォルの方が、バロルと似ていたように思う。バロルがゾフォルを配下に引き入れたのは、そんな同族意識がどこかに働いたせいかもしれなかった。
色んなものを弛めたら、見えてくるものも、数多くあるだろうに。
キャスリオンとアンギルダンはそう思っていた。
いや……バロルがそういう性格だからこそ、自分やキャスリオンのような者が側にいる必要があるのだ。
それは、かつて共に戦った女――『バロルの五星』として活躍し、バロルが帝位につくと同時に自分たちの元を離れたサラシェラの忠告であり、祝いの言葉だった。
――バロルと末永く幸せに。またバロルが夜も寝ないで働いてたら、ちゃんと止めるのよ。
――アンギルダン、あんたもキャスを手伝ってやって。でも、羽目を外しすぎるんじゃないわよ。
バロルは帝位につき、キャスリオンは皇后となり、アンギルダンは将軍、ゾフォルは宰相の地位を得た。
バロルの五星は、争乱の末に、それぞれに相応しい地位に配されたが、その中でたった一人、授けられようとするものすべてを辞退して、自由人として生きる道を選んだのがサラシェラだった。
手放すには惜しい人材だった。キャスリオンもアンギルダンも、是非ディンガルに留まって、新しい国造りの手助けをして欲しいと頼み込んだが、彼女は笑ってかぶりをふった。
――あたしは、もうちょっと気ままに生きていたいのよ。あたしが居なくなってもしっかりやるのよ。あんたたち。
サラシェラは、軽薄なようでいて、お節介焼きで世話好きの女だった。情に篤くて、孤独を秘めているところがあった。おしゃべりだったが、自分のことはあまり語りたがらなかった。
彼女と付き合ったこともあるアンギルダンには、サラシェラが自分たちの元を去った理由が、おぼろげながら分かるような気がしていた。
――種族の差のない、本当に誰もが自分自身のままで生きられる国が出来たら、素敵よね。
あの人だったら、それを作ってくれるかもしれない。いつか寝台の中で、憧れ混じりに呟いていた彼女の髪は、月のような銀色で、瞳の色は紅玉よりも赤かった。
たぶん本当にそういう国が出来たそのときに、彼女は何事もなかったかのような顔で、あのときと同じ姿のままで、ひょっこり顔を出す。そんなつもりでいたのだろう。
流れるように歩いていても、誰もが自分の道を信じて、自分で流れを選んで、進んでいく。
生きていくというのは、そういうことなのだが。
女官に渡していた幼子が、むずがって声を上げた。
慌ててキャスリオンが飛んでいく。その後ろ姿は母親のそれだった。
子供を胸に抱いてあやしながら、キャスリオンは、にこりと笑ってアンギルダンに向き直り、軽く子供を見せるような仕草を取った。
* * *
ディンガル城門前の通りを西へ入ると、周囲の景観は一転する。
かつては繁栄を極めた旧王城前大通りも、今ではすっかり寂れて薄汚れ、半ば崩壊した建物が立ち並ぶスラムと化している。
ここを抜けた先には、ディンガル政府庁跡がある。
邪眼帝として恐れられた魔王バロルの居城でもあったため、一般には、廃城と呼ばれている。
今は閉鎖されて、立ち入り禁止となっていた。もっとも立ち入り禁止と掲げなくても、ディンガル帝都内に置いては……いや大陸内でも一、二を争うほどの危険区域となっている場所だ。好んで立ち寄る者など居なかった。
バロルのもたらした闇は恐ろしく濃く、死した今であってもそれを完全に消し去ることはできなかった。闇の力は、この都の一郭に巣くったままとなっている。
たった、半世紀のことだというのにな。
なんとも言えない感情を抱いて、アンギルダンは、薄汚れた通りに一人たたずんでいた。
この通りが華やかなりし頃――バロル治世時代を初期の初期から知る彼にとって、荒んだ町並みは、どこか寂しく苦いものを心中に生じさせた。
そんな自分に気づき、アンギルダンは苦笑する。
どうも最近歳をとったと自覚する。酒を飲みながら、誰にともなく昔話を語るようになった自分に気づくと、なるほど年を取るとこうなるのだな、と酒場を出た後で思うのだ。
エリュマルクのもとを去った時には、いよいよディンガルとの縁もこれまで、もうこの都に足を踏み入れることはあるまいと、そう思っていたのだが。
本当に人生は、どう転がるか分からない。
陽気で剛毅なアンギルダンにしては、珍しい表情が浮かんでいた。
だが、何かを祈るように軽く目を閉じ、瞳が開かれた時には、もうそれは消えていた。
通りを後にする悠然とした足取りは力強く、今もなお現役の軍人であることを伺わせる。
身に纏っている真っ赤な鎧が、くすんだ町並みの中で鮮やかな存在感を放つ。顔に刻まれた皺や、品よく整えられた白髪は年齢を示していたが、背は平均よりも頭一つ分ゆうに高く、腕にも肩にも厚みがある。
そんな彼の目にも背にも迷いは見えず、その足は今日も酒場へと向かう。
2008-04-11
ネメア帝時代も波瀾万丈ですが、バロル時代も負けず劣らずドラマがあったんだろうなあ。