揺り籠 

「ねえサイフォス。私のために、ティラの娘を殺してきて」
「アーギルシャイア様のご命令とあれば」
 戯れ混じりのアーギルシャイアの命令に、サイフォスは膝をつき、従順な姿勢を保って答える。くすくすとアーギルシャイアは笑った。
「ティラの娘は凶暴だけど、きっと大丈夫ね。……あなたは強いもの」
 その言葉の意味をはかるようにサイフォスは一瞬沈黙し、頭を垂れたまま応じた。
「ご期待に添えられるよう、力を尽くします」

 ずいぶん達者な物言いをするようになったじゃないの。
 彼をここに連れてきてから、ずいぶん時が経つ。いつの間にかサイフォスは、アーギルシャイアの言動に対して、かなり柔軟な反応を示すようになっていた。
 記憶の空白を、『サイフォスとして』新しく埋め直した結果なのだろう。
 返ってくるのは律儀で生真面目な反応で、たまにそれがアーギルシャイアには面白くなかったりもするのだが、それは元の人物がもつ性質によるものなのだから、仕方がないと言えば仕方がない。

 ミイスのはずれの森で、ロイを見かけたときのことを思い出す。
 サイフォスの態度は、ロイに対して抱いた印象通りのものだった。けれど記憶のないロイは、サイフォスとして、アーギルシャイアの命令を素直に聞く。
 忘却の仮面とは、そういうものだ。

 ――時が来たら。
 サイフォスを、セラのもとに向かわせようと思っていた。

 ねえサイフォス。私のために、セラを殺してきて。

 人間なんて玩具にしかすぎない。玩具なら玩具らしく、私を楽しませて。
 サイフォスをぶつけて、セラがどういう反応をするか、それを見てみたかった。セラはきっとサイフォスの正体に気づく。悩んで苦しんで、剣を向けることをためらう。
 だが、サイフォスは主人の命令には忠実だ。……全力でセラを殺してくれる。
 親友同士が殺し合う。それはとても愉快な見せ物となるだろう。
 結果なんてどうでも良かった。サイフォスだって道具の一つにしかすぎない。もし万が一、セラと相打ちになったら、違う者に取りかえればいいだけ――。

 知らず知らずのうちに、サイフォスを凝視していたようだ。
 サイフォスは出かける支度を始めていたが、主人の視線に気づき、伺いを立ててきた。
「何か、ほかにご用がございますか?」
 丁寧で穏やかな声音。緊張がとけてきたサイフォスは、こういう声音で話す。相手を気遣うような話し方。

「……何でもないわ。サイフォス、気をつけて」
 なぜ誤魔化そうという気になったのか。

 アーギルシャイアの言葉の裏にあるものをサイフォスが知るはずもない。
 だから彼は穏やかに言った。
「お気遣い、ありがとうございます」
 仮面の下で、はにかむような柔らかな笑顔を浮かべた。……その気配を感じた。



* * *

 



 サイフォスが出て行った後の部屋には、がらんとした静けさが残された。
 沈黙など、いつものことだ。
 サイフォスは饒舌ではなかった。アーギルシャイアが話しかけると、受け答えはするが、それ以外は大抵口をつぐんでいる。
 けれどそれは窮屈ではなかった。眠りに落ちる直前のような、包み込まれる穏やかさに似ていた。時間と空間を共有しているから生まれる、空気だけで互いを感じ取れる安心感。
 ……サイフォスが居ないと、ここは雪に降り込められたように、寒く感じる。

 アーギルシャイアは不機嫌になって、側の長椅子に寝転がる。
 まただ。なぜそんな風に感じるのか分からない。
 しどけなく身体を崩し、挑発的に膝を心持ち高く上げて脚を組んでみる。それからゆっくりとサイフォスを――サイフォス以前の、彼のことを考える。

 ロイは玩具にするには最高の男だった。
 善良で温厚、不自由など何一つなく育ったような健やかさと誠実さ。
 聖職者だったのなら、曲がったこと汚れることを、厭うはずだ。だからこそ、そのすべてをひっくり返して、崩してやりたかった。自分の手で全く違う男に作り替えてみたかった。ロイにとって自分が仇というのも良かった。自分を憎んでいる相手を屈服させ、完全に支配することほど、楽しいことはない。

 矛盾するようだが、たまに、彼に教えてやりたくなる。
 かつての頼りになる聖職者は地に堕ちて、記憶も意志も奪われて、故郷を滅ぼした女の下で、唯々諾々と主人に傅くだけの人形として扱われているという事実を。
 教えてやったら、彼は何を思うだろう。心が焼け付くほどの憎しみと怒りを覚えて、けれどそれは自分自身にも跳ね返って自己嫌悪に陥って、すべてに絶望して、そして……。

 普段なら愉快なはずの想像が、心に引っかかる何かがあって、アーギルシャイアは無意識のうちに顔をしかめていた。
 サイフォスが居ると安心するのに、たまに彼を煩わしく思う。
 いや違う。邪魔に思うのは、サイフォスではなくて、ロイだ。こんな風に堂々巡りに陥りかけると、苛立ちにも似たものがわき上がって、その衝動に任せて、彼に爪を立てて、傷を付けて、苛んでやりたくなる。
 そうやって確かめたくなる。何を? 確かめないと、不安になる。

 今から行って、サイフォスを追いかけようかしら?

 頭の片隅で考えて、静かに否定する。そんなことをしてどうするの。
 サイフォスなら大丈夫だ。あの武器――『ライジングサン』――は、闇属性の魔物には絶大な威力を発揮する。ティラの娘退治には相応しい。アーギルシャイアに触れられることを頑なに拒む忌々しい武器だったが、それならそれで利用してやる。
 寝ころんだまま、アーギルシャイアはサイフォスが出て行った洞窟の入り口へと目を向けた。
 こうしてサイフォスを見送って、彼の帰りを待つことは慣れなくて落ち着かない。
 きっと、このよく分からない気持ちは慣れていないからだ。

「早く帰ってきてよ」
 そう呟いて、アーギルシャイアは目を閉じた。


 
 かたりと小さな物音がして、アーギルシャイアは目を覚ました。
 顔を動かすと、ちょうどサイフォスがこちらに顔を向けたところだった。柔らかな口調で彼は告げた。

「お休みになっていたのですね。起こしてしまい、申し訳ありません。今戻りました」
「遅いわサイフォス!」
 いきなりアーギルシャイアに怒鳴られて、サイフォスが絶句する。律儀に彼はもう一度繰り返した。
「申し訳ありません」
「待ちくたびれたわ」

 起きあがろうとしたが、不自然な格好で眠っていたせいか、身体が強ばっている。ぎくしゃくと上半身を起こして座り直した彼女を見て、サイフォスが近づいて膝を折り、主人の顔をじっと仰ぎ見た。
 困惑の滲んだ声音で問いかける。

「お身体の具合が悪いのですか?」
「何を言っているの?」
「表情が曇っておられます。動作も何だか……その」

 いきなり怒鳴りつけた割には、覇気がないと言いたいらしい。
 賢いのだか鈍いのだか分からないわね。
 別にそうじゃないわ、と手を振って彼を退けようとして考え直す。いつもと違っていたのは事実だ。

「そうね。ちょっと調子が悪いみたい」
「寝台までお運びいたしましょう」
 サイフォスがわずかに声に緊張を滲ませ、慣れた動きでアーギルシャイアを抱き上げた。彼の首に腕を回すと、先ほどまでの荒れた気持ちが嘘のように収まった。
「やっぱりいいわ」
 サイフォスが訝しげに動きをとめた。仮面に隠れて表情は分からないが、さぞかし困っているだろう。
「そうですか……では」
 彼女を降ろそうとしたサイフォスに、素早くアーギルシャイアが言った。
「このままでいいわ。眠るなら寝台じゃなくて、あなたの腕が良いの、サイフォス」

 そのままの姿勢で下僕は固まった。機嫌が直ったのか損ねたままなのか、本気で悩んでいるらしく、アーギルシャイアを抱き上げたまま、もう一度言った。
「遅くなって申し訳ありませんでした。手こずったわけではなかったのです……たまたま一緒になった冒険者たちの手を借りることができたので、労せず済みました」
「あらそう。どうだっていいわ」

 あっさり片づけると、サイフォスは口をつぐんだ。
 実際今は、ティラの娘のことなど、どうでも良いことに思えた。
 主人の気まぐれな言動には慣れてきたのか、これ以上機嫌を損ねたくないと思ったのか、もう勘弁して欲しいと思ったのか、彼にしては最大限に気を回して告げた。

「……アーギルシャイア様がお眠りになるまで付き添います。それならどうですか」
「そうね、だったら良いわ。側にいるのよサイフォス」

 サイフォスは、ようやく見えてきたものがあったのか、どこか苦笑めいた気配を漂わせて、はい、と小さく答えた。

 

2007-05-27

アーギルシャイアは、命令しておいて、やっぱりいいとか言いそう。気まぐれでワガママで甘えたがりな女王なので、サイフォス>ティラの娘になったりします。
ちなみにこのツケは、後で利子を付けて払う羽目になります。