冬の日 

 しんと雪が降っている。
 密やかな気配に耳を澄ますように、アーギルシャイアは無言だった。
 横座りに近い形で、長椅子に身を寄りかからせ、落ち着いたまなざしを洞窟の入り口へと向けている。端正な横顔が、理知的な雰囲気をたたえていて美しかった。

 珍しい、とサイフォスは思う。
 いや、そうでもないかもしれない、と思い直す。
 時々主人は、こうやって物思いにふけることがある。触れたとたん火花が散るような尖った空気がなりを潜め、暗い淵に沈み込んでいるような物憂い気配を漂わせるのだ。
 主人がそうした姿を見せるときは、たいてい何日か隠れ家に閉じこもっていて、それでも動こうとはしないとき。
 他に誰の姿もなく、二人きりでいるとき。

 仮面の下の自分の視線に気づいているはずはない。
 だが、サイフォスの目を感じたかのように、アーギルシャイアは口を開いた。
「静かね」
「はい」
 答えた自分の声まで、いつもよりも硬くくっきりと響いた。
 アーギルシャイアが、白い喉を震わせて、わからぬほどの低い笑い声をたてた。
「こういう日は、とてもよく眠れそうね。うるさい物音が聞こえなくていいわ。悲鳴も嘆きも、凍っておとなしくなるの」
「……嘆き、ですか?」

 つられて尋ねてしまったのは、その言葉が、主人には似つかわしくないと思ったから――いや、今の主人には、よく似合う。
 気まぐれな主人の言動には慣れてきたつもりだったが、気まぐれという言葉では片づけられない、昼と夜のように自然でありながら明らかな変化を見せられると、自分はどうしたら良いのか分からなくなる。
 彼の主人は、時折そういう不可思議なうつろいを現す。
 彼女がどんな女性で、何を求めているのか分からなくなる。

 ――余計なことなど考えなくてもいい。ただ仕えていればいい。
 言い聞かせる声を感じながら、それに従いきれないのは、目の前の彼女が待っているように見えるからだ。
 普段とは違う顔を見せて、問いかけられるのを待ち望んでいるような。
 その証拠に、アーギルシャイアの口からは、すらすらと言葉が流れた。

「人間って、どうしようもない生き物でしょう? 無抵抗だと分かると、どんな非道なことでもやれる。その手を逃れることもできない、やめさせるだけの力も 持たない、行き場のない叫び声って、聞こえないでしょうけど、とってもうるさいのよ。飲み込んだ悲鳴は、ずっと内側で響き続けるの」

 余計なことを尋ねました、と、サイフォスは遮りかけて止めた。
 踏み込むべきではない話のように思えたが、サイフォスなどこの場に居ないかのように語る声は、雪のように静かで、耳を傾けることが許される気がした。
 音を吸い込むように、聞くことでいくらか埋められるのならば、そこに自分の居る価値が生まれる。
 だからサイフォスは黙って、アーギルシャイアの言葉に耳を傾ける。

「すべてを殺して、燃やして、灰に変えた後に降り積もる雪は、とても静かで綺麗でしょうね」

 憧れるようなその響きの中に、いつもの赤い色は見受けられなかった。
 主人には赤が似合う。炎と血の色を見ると満足そうに唇をつり上げ、興奮と高揚感で活き活きと瞳を輝かせる。癇の強い言動も、気まぐれで衝動的なところも、風に煽られ一際大きく揺れる炎を思わせる。

 ここにいる生き物たちは、主人の気性に怯えを感じているらしい。だがサイフォスは、あまりそういう感覚を抱いたことはなかった。主人が知ったら、鈍感だと笑うのかもしれないが、どことなく胸の真ん中にすっぽりと穴があいているようで、うまく実感としてつかめないのだ。
 ただ、自分に命令を下すときや、こうして静かに何かを語る時の声、こちらを見つめてくる赤い瞳、くすくすと笑い声とたてるときの赤い唇や、白い手で無造 作に払われる黒髪、触れてくる肌の感触や体温といった、目の前にある彼女の姿だけが、たった一つの拠り所として、あやふやな意識をつなぎ止める。

 自分は、彼女のための存在だ。
 彼女の命令する声や無事な姿が自分のすべて。

 それは間違っていない。絶対的なものだ。
 その一方で内側でうずくこの感覚は、それだけで語れない気もした。
 だが、それに名を付けることは、ひどく不遜な気がして、サイフォスは考えることを中断する。
 ――自分はただ主人のために動いていればいい。


 語った内容が冷たさを呼び込んだのか、アーギルシャイアがぽつりと言った。

「寒いわね」

 サイフォスは立ち上がり、主人へと近づく。
 アーギルシャイアが軽く笑みを浮かべた。
 誘われるように。あるいは自ら求めるように、サイフォスは腕をさしのべる。
 アーギルシャイアは拒まず、その腕をとって立ち上がるとサイフォスに身を預けた。感触を確かめるようにサイフォスの手が自分の背をすべり、抱きしめる腕に義理ではない力がこめられたことに満足して、アーギルシャイアは乾いた笑い声を上げた。

「利口になったじゃないの」

 先ほどの物憂さを払う、熱の混じった笑い声を耳元で聞いて、サイフォスも腕の中の身体だけを感じるように目を閉じる。

 こんな雪の日には、悲鳴も嘆きも凍っておとなしくなるの。

 すべてを殺して燃やせば、心安らかに眠れるというのなら。
 そのために自分は力を尽くそうと思う。けれど、彼女の願いが達成される日はまだ訪れない。
 だから今はこの腕が、せめてものぬくもりとなるように。
 ――あなたが、眠れるように。

 

2007-02-16

バイアシオンに雪は降らないかもしれないですが、炎のアーギルシャイアが見せる、白く冷たい墓標の記憶。その記憶に、記憶を失っているサイフォスが寄り添う。知っているから分かるのではなく、分からないから知っていく。あるから惹かれるのではなく、ないから求める。そういうささやかな関係から始まってほしい。