白い足跡
凍り付いたような静けさが、周囲に満ちていた。
それと分からぬ細い音で洞窟を包み込んでいる潮の音が、今朝は遠く柔らかく聞こえる。注意深く耳を澄ましていなければ、か細い音色は、そのまま大気に溶け込んでしまうだろう。
いつもとちがう静謐な朝の気配に落ち着かないものを感じて、サイフォスは寝台から起きあがると部屋を出た。
洞窟はゆるやかな曲線を描いて、長く続いている。
点々と灯されている橙色の灯火が、行き交う生き物たちの鱗のような肌に落ちて、艶のある輪郭を与えていた。
魚とも人間ともつかない生き物は、サイフォスを見つけると、ぎょろりと目を動かして、彼の様子をうかがう。怯えているのか怪しんでいるのかは判別できなかったが、同じ主人に仕えている者――敵ではない、という認識はされているようだ。
その仕草や反応だけを見れば人間のようだが、幾度すれ違っても、同じような目を向け、同じ反応を繰り返して、それ以上にはいかないところが、やはり試作段階の生き物だった。
――あなたは私の可愛い人形。けれど、ただの人形でないところが貴重よ、サイフォス。
彼の主人は、そう言って、彼の首に白い腕を回した。
甘えるような、慈しむようなその声は、サイフォスの耳にすっかり馴染んでいる。声や言葉だけではない。自分に押しつけられた弾力に富む身体も、首筋に触れる冷たく滑らかな肌の感触も。
服従を強いる鋭い命令よりも、分からないままくりかえされ、気づけば刻まれている柔らかな暗示の方が、相手を強固に縛ることもある。
――ねえ、サイフォス?
くすくすと耳に残る忍び笑い。流れ落ちる漆黒の髪。
その幻を追うように、サイフォスは洞窟を歩いていく。太古の潮の満ち引きによってつくられた海辺の洞窟は、有機的なうねりと質感で中にいる者を包みこんでいる。生命を内に秘め、異形の存在を外界から隔て、守るように。
ここで彼女はこの世にはない生物を作る試みをくり返している。その彼女に、試作品として生み出されたばかりの中途半端な生き物たちと、あやふやな意識の自分が仕えている。
出入り口にたどり着いたところで、サイフォスは立ち止まり、賛嘆の吐息をもらした。
息はすぐさま白く凍った。外から差し込んできたのは、見慣れた岩礁と水平線の色ではなく、冷たくきらめく純白の光だった。
夜半に降り出した雪は、一晩止むことなく降り続き、周囲を一面の白で覆いつくしていた。
雪雲が去った空は、磨きあげられた鏡のように澄みきっている。
洞窟の外に続いている岩礁も、その先に広がっている浜辺も、今は白く埋められ、なだらかな一続きの丘のようになっていた。
物音を吸い込んで広がる雪の上に、アーギルシャイアは、ただ一点の黒い影となって、凛と背筋を伸ばして立っていた。
流れる黒髪が、震えるように小さく風に揺れる。
そのたびに、雪に溶け込んでしまいそうなほどの白い背中が、髪の間から瞬くようにのぞく。
しばらくサイフォスは、その背を見つめていた。
雪の上には、まだ足跡が一つもなかった。
足を踏みだすと、さくりと雪が崩れる音が下からあがった。アーギルシャイアが振り返った。
「おはようサイフォス。ずいぶん遅い目覚めね」
「……申し訳ありません」
「フフ、冗談よ」
どうやら機嫌がよいらしい。アーギルシャイアの真紅の唇は、笑みの形を刻んでいた。
最低限の布地で覆われただけの肌は、雪の光を浴びて、いっそう青白く透きとおっている。揺れる髪と黒い衣装が、硬質な影となっていた。青空の下、闇の色と雪の色を纏い、すらりとした腕と足を伸ばして立っている。
数歩雪の上を歩いて立ち止まり、自分を見つめているサイフォスに、アーギルシャイアは笑いかけた。
「また私の格好が寒そうだとでも言うつもり?」
「いえ……お綺麗だと」
口をついた言葉は、サイフォス自身も予期していないものだった。
アーギルシャイアは一瞬だけ目を瞠って、笑い声をもらした。やはり機嫌がよい。
白い顔も肢体も寒々しさはまるでなく、透きとおった氷のようにただ美しく控えている。くっきりと冴えきった雪の朝が、そのまま宿っているようだった。
主人の気性は、炎だということは、よく分かっているはずなのに。
「お世辞まで言えるようになったのね、サイフォス」
「世辞では……」
先をうながすように、アーギルシャイアは心持ち首をかしげ、続く言葉を待っている。
見透かされているようで、サイフォスは目をそらした。
途端に風が流れ、目を上げれば、埋み火を宿したような暗紅色の瞳とぶつかった。
魔人である彼女にとって、空間を跳びこえるなどたやすいことだ。雪の上に足跡を記すことなく、ほんのひと翔けでサイフォスの眼前へ、その腕の中に収まる位置へと移動している。
紅い瞳が蠱惑の光を宿して、彼を誘う。呟きを発することなく、微かに開かれた唇から吐息が漏れる。
拒むことなど、できるわけがない。
求めるように腕を伸ばして、その身体を抱きしめようとしたが、アーギルシャイアの身体がもたれかかってくるのが、一呼吸分早すぎた。
目測が狂い、受け止めるつもりで伸ばした腕よりも先に、足が滑った。
「きゃ」
軽い悲鳴があがり、雪片が宙を舞った。
真新しい雪に、人型の跡がつく。自分が下敷きになるような形で、かろうじて主人をだきとめるのには成功したが、倒れ込んだアーギルシャイアは上半身を起こしかけ、そのままの体勢で、サイフォスを見下ろした。
「……もしかして、わざとだったのかしら?」
「いえ、失礼いたしました」
生真面目なサイフォスの返答に、アーギルシャイアは一瞬つまらなそうな表情を浮かべたが、からかうように身を乗り出し、サイフォスの耳元に唇を寄せて囁いた。
「わざとだったら、私はあなたを本当に見直したのに。残念だわ」
それだけ告げて、さっさと身を離して起きあがった。
もはやサイフォスには見向きもせずに、黒いブーツに包まれた足を動かして、彼から離れていく。
のろのろとサイフォスは起きあがって、立ち去る彼女の背を眺めた。
誘いをかけて、けれど直前でそれを翻す傲岸で気まぐれなところも――駆け引きなのだろうか。
主人らしいといえば主人らしいが、どこまでが本当でどこまでが作り事なのか。
ひらめく刃のように、くっきりと色を変える彼女の面影は、なぜか強く残って離れなくなる。
アーギルシャイアの姿はずいぶんと遠くなっていた。新雪の上に、彼女の足跡が列をつくっている。
……日常的に馴染んでいた潮騒は、降りつもった雪に吸い込まれて、遠くに霞み。
新しく広がる空白に、彼女の足跡だけがつく。
Fin.
2006-11-22