忘却の川 

 気づけば見知らぬ川辺に立っていた。
 霧に閉ざされて視界は薄暗く、どこか重たげに流れ去っていく川音だけが、あたりに響いている。陰鬱な濁りを見せた水面はひっそりと静まりかえっていて、水鳥の姿も魚の姿も見つけることができない。
 生き物の気配がぱったりと途絶えた静寂の中に、ただ水の音だけが響く。

 流れる先へと目をやって足がすくんだ。あちらには、いきたくない。
 川上へ目をやる。のぼれば帰れるかもしれない。そう思いながら足が動かなかった。
 対岸へ目をやる。向こう側へ渡りたくとも橋がなかった。
 ――大きく、重く、止まることなく、流れている川。
 川音に混じって、かすかに自分を呼ぶ声が聞こえたような気がした。誰が呼んでいるのか、なんと呼んでいるのか、それは水音にかき消されて聞きとれなかったけれど。


* * *


 この研究所に来たばかりの頃のサイフォスは、慣れない場所に緊張しているのか、ぎこちなさが目立った。ほの暗く、海辺から流れ込んでくる湿り気を帯びた風が淀むこの洞窟は、「彼」が住んでいたあの村とは、たしかに趣を異にする。
 しばらくすると慣れてきたのか、動作が自然なものになり、ここを自分の居場所としてくつろいでいるように見えた。サイフォスがサイフォスとしての自我と性格を作り上げていく様子を見るのは、意外と楽しかった。
 そのサイフォスが最近、なんとなく物思いにふけっているように見える。気づくと彼の作業の手が止まっていて、それこそ人形のように沈思している。
 今も、また。

「どうしたの、サイフォス」
 声をかけたとたん、人形は息を吹き返した。
「……あ、ああ。申し訳ありません、アーギルシャイア様」
 そう言って作業を再開する。だが、サイフォスの気がそれていると分かった瞬間の、糸がほどけているような状態は、アーギルシャイアの心をひどく波立たせる。
 サイフォスの自律した行動をみているのは楽しい。けれど自分の束縛と支配がとけているように見えるのは気に入らない。

 「もういいわ。こっちにきて」
 呼びつけると、サイフォスは命令に従い、椅子に悠然と腰掛けているアーギルシャイアの傍らにやってきて膝をついた。
「お気に障りましたか」
「少しね」
「申し訳ありません」
「謝罪をするなら、次回から気をつけることね」
「…………」

 主人の気を損ねたことを気に病んでいるのか、気をつけろと言われて困っているのか、サイフォスは沈黙した。
 こういうとき仮面は不便だと思う。自分の前に立ちはだかる壁のように、サイフォスとの間を遮る。彼の、その下に浮かんでいる表情をみれば、もう少し何かわかるのかもしれないのに。

 ……表情など気にして、どうするというの?

 アーギルシャイアは形のよい唇をかすかにゆがめた。
 自嘲のようにも憤りのように見えるそれを敏感に察したサイフォスは、恭順をしめすように、もう一段低く頭を垂れた。
 そんなサイフォスの態度に、アーギルシャイアはやや口調を和らげ、たずねた。

「あなた、このごろ少しおかしいわね。何があったの?」
「別に何も」
「なにか、気になるようなことでもあったのかしら」

 口にした瞬間、周囲にぴりりと火花が走った気がした。
 サイフォスも同じものを感じたのか、決意を固めたように顔を上げ、告げた。

「夢を、見るのです」

 どう反応すればよいのか分からなかった。アーギルシャイアは重ねて問いかける。

「……どんな夢?」
「川の夢を」
 アーギルシャイアは笑った。何を重大なことかと思えば、そんな。
「ここは海に近いし、水の生き物が多いもの。だからそんな夢を見るのよ」
「そうでしょうか」

  アーギルシャイアの言葉にというよりは、自分自身に疑問を持っているような、どこかあやぶむような声でサイフォスはつぶやいた。
 その姿は、子供のようでもあった。自我の確立していない幼い生き物。

「せっかくだから、もうすこし詳しく教えて。サイフォス」
「私にもよく分からないのです。見知らぬ川の岸辺に立っている夢です。川上にも川下にも行けずに、その場に立ちつくしています。橋もなく、対岸がどう なっているのかもわかりません。
 どこか遠くで呼び声が聞こえるような気もするのですが、川の音に遮られて聞きとれないのです」

 無表情になって、アーギルシャイアは唇を結んだ。

「どうか、なさいましたか?」
「くだらない夢ね」
 素っ気なく言って、アーギルシャイアは立ち上がる。
「ただの夢よ。忘れなさい」
「…………。はい」

 主人の命令に、サイフォスは異論を挟むことなく、素直に返事をする。
 サイフォスが自分の命令に絶対服従であることは疑っていない。だが、サイフォス自身がいくらそう思っていても、サイフォスの裏にいる「彼」はどうだろう。
 ――おそらく、声にならない声で、抗い続けるのだろう。


* * *


 潮騒を背景に、夜風が吹き渡る。
 巻き上げられる黒髪をいらいらと片手で束ねながら、アーギルシャイアは眼前の海を見つめる。月のない闇夜の海原は、一面の荒野にも似て寒々と広がる。
 彼女にとっては、なじみある光景だった。
 アーギルシャイアにとって、魂の起点は、ただ悲しみと憎しみの渦巻く、うち捨てられた墓所の印象しかない。陵辱された精霊たちの亡骸から自分は生まれた。怨嗟と憎しみの満ちるそんなところへ還るくらいなら、きれいさっぱり業火で清めて、自分も含めて消滅させてしまった方がずっとマシだ。

 そういう潔さを人間はもたない。
 往生際が悪く、執念深く、己の生にしがみつく。
 サイフォスの裏の彼も。そして、自分の中にいる、この女も。

 一時期は悲鳴のような声が聞こえてくる気もした。それはすぐにかすれて、今ではほとんど聞こえない。消えてしまったのかと思ったら、そういうわけでもないようだった。ほんの時折、月に虹がかかるように、かすかな意識の余韻が自分の内側から響いてくる。

 サイフォスの話を聞いたときに、ふっとかすめた情景。
 忘却の川。生と死の境界線として流れるその川は、すべての記憶を流して、次なる生へと向かうための禊ぎと再生の川なのだそうだ。
 そんな川の存在など、魔人であるアーギルシャイアが知るはずもない。
 だが、内側の女が、それを教える。そういう観念が、人のこころのどこかには刻まれているのだと。
 サイフォス以前の彼は、おそらくその川の岸辺にいるのだろう。あちらにも行けず、こちらにも出られず、そこをさまよっているのに違いない。

 とっとと川を渡って消えてしまえばいいのよ。

 渡れない、とサイフォスは言った。そう。サイフォスがここにいるかぎり、彼は川を渡れないのだ。サイフォスが生きて、動いている限りは。
 本当に人というものは……!

 記憶を消すだけでは、その人間を完全に、支配することはできない。
 身体を乗っ取るだけでは、元の主の存在を、完全に消し去ることはできない。
 器たる身体が、ただの器ではおわらないことの不可思議。こころというものの不合理。たましいというものの神秘。
 そんなものが何の役に立つというの。
 だが、そういうものがあるからこそ、悲しみが憎しみを生み、虚無が願いを生むようなことが起こり、その輪の一環から自分のような存在が生み出されることも起こるのだ。
 それを認めたくないアーギルシャイアは、くるりときびすを返して、暗い口を開けている自分の居城へと戻っていった。



 眠っているサイフォスの元へ忍び寄る。
 どこか寝苦しさを感じているような様子を見て、アーギルシャイアは落胆と不安を覚える。きっとまた、夢を見ている。
 うめき声が仮面の内側から聞こえた。
 絶対に起きないという確信のもとに、アーギルシャイアは手を伸ばして、そっと仮面をはずした。

 眉をしかめた男の顔が現れる。アーギルシャイアは手を伸ばして、彼に触れる。その額に、頬に、自分の冷たい手を押し当てる。
 少しだけ彼の呼吸が静まった――そんな気がする。
 眠っている顔に目をとめる。一番最初に見たとき、悪くないと思った。そう思ったから自分の下僕にした。役に立たなければ、違うものと取り替えようと思った。彼は予想を裏切って、とても愛しい人形になってくれた。
 だが、今は、はっきりと思う。
 あなたなんか大嫌い。全てをなくして――いつまでも、サイフォスのままでいて。


* * *


 ああ、またここに来ている。
 川縁に立ち、流れる川を無心に眺める。
 何か大切なものを、この川に落としてしまったような。
 取り戻そうとあがく彼の耳に、声が聞こえた。
 自分を呼ぶ声。水音に紛れて聞き取れないはずの声が、今は明確な音となって耳に届いた。
 ――サイフォス。

「まだ、あの夢を見るの?」
 日がたち、思い出したように問いかけてきた主の声に、サイフォスは答える。
「……いいえ」
「そう」

 その声に、何が秘められているのかは、はかりかねた。
 だが伸ばされてきた主人の手が、そっと自分の髪をかき上げ、耳朶に触れたときの冷たい心地よさに、サイフォスは仮面の内側で瞳を閉じる。
 川の夢は時折見る。だが、前ほど、はっきりとはしていない。
 もっとおぼろに遠くなっている。

 

2006-09-16

生と死の境界、生まれ変わるための忘却と再生の川は、人類共通にありそうだということにしておいてください。サイフォスの間、ロイはどこに居たのか、アーギルシャイアの中のシェスターは? と考えたとき、忘却の河の岸辺という答えが浮かんだので書いてみました。