雪のてのひら
世界に乱世が訪れるとき、竜王は目覚める。
今朝、竜王の咆吼が世界に響き渡った。世界が終焉に傾き始めている合図だ。
それを裏付けるかのように、神器を守る隠れ里であるこの村が炎に包まれている。
炎の中で微笑んだのは、長い黒髪の美女。
彼女は、魔人アーギルシャイアと名乗って、村に火を放ち、父を殺し、化け物を呼び出した。
「ルシカ、ここを離れるんだ。村人を避難させてくれ」
ロイの言葉に、ルシカはかぶりを振ったが、その足は震えていた。無理もない、こんな化け物を目の前にしたら。
懸命に恐怖をこらえて戦おうとする妹の姿を見て、ロイは覚悟を決めた。
「魔物はかならず私が倒す。お前は村人を頼む。大丈夫だ。私が嘘をついたことがあったか?」
ルシカが唇を噛みしめた。正直なこの妹はすぐ顔に出る。
蒼い瞳が、嘘つき、と言っていた。
嘘をついているつもりはない。
魔物はかならず自分が倒す。それは自分の命と引き替えになるかもしれないが。
「行け!」
返事をきかずに、声をかけて、強引に妹の背中を押す。
一瞬ルシカの足が止まって、それから何かを心に決めたように、後ろを振り返らずに駆けだして、神殿前の橋を渡っていく。
その姿を、最後まで見送ったわけではなかった。
すぐさまロイは意識を切り替えて、目の前の化け物に向き合った。
右手の中の、聖剣日光を握り直す。
倒せるだろうか。もし、駄目なら……。
神殿に目を向ける。神殿の奥に安置されている神器のことが脳裏をかすめた。
痛む身体を引きずり、半ばよろけながら、ロイは塔の階段を上っていった。
魔物の爪がえぐった傷から、血が流れ続けている。大量というわけではなかったが、浅い傷でもないせいで、傷口を押さえている手が真っ赤に染まっていた。
村全体を覆う結界。神殿を覆う結界。神殿の最上部を覆う結界。神器を収めた聖櫃を覆う結界。
何重にも施された結界のおかげか、外の化け物の咆吼も気配も、断ち切られたように届いてこない。同時に、人の気配も、見事に消失していた。生命ある者の気配が失われ、静まりかえった神殿の中に、階段を一段一段上っていく自分の足音だけが響く。
最上階に辿り着き、小さな箱の前まで歩み寄って、ロイは逡巡する。
この封印を解いたら、闇の神器は表の世界に出ることになる。これを隠しておくために、この村は作られたというのに。
だが、今は他に方法がなかった。
小さく呪文を唱え、封印を解除する。
箱を開けると、神器が白い布に包まれて収められていた。
中を見るのは、ロイも初めてだった。
震える手で、神器を包む布を解いていく。自分の血が布を汚した。
やがて現れたのは、意外に軽く薄い品だった。
『忘却の仮面』
手にした仮面は、闇の神器という響きから連想される禍々しさより、今の神殿の状態のように人の命も時も何もかもが止まっている寒々しい沈黙を漂わせていた。仮面に彫られたぽっかりと虚ろな表情は、見ようによっては泣いているようにも見える。
歌うような口調で、この仮面の持ち主は告げた。
『私は私が管理するはずの大切なものをもらいに来たの。神殿でたずねてみたけど、誰も何も教えてくれないの。ひどい話よね。だから、みんな殺しちゃった』
くすくすと、笑い声をたてながら。
いつか、こんな日が訪れるかもしれないと思っていたはずだった。ここは闇の神器の封印を守るための村。破壊神復活の兆しが現れるとき、そのしもべである魔人が、神器を狙ってやってくる。
この神器の持ち主である魔人が、あんな女だとは思いもしなかったが。魔人という言葉から人外の者を――もっと異形めいた姿を想像していたのだ。
美しく整った姿形だけ見れば、人間の女のようにしか見えなかった。しかし人ではない証拠に、その気配は闇の者が持つ黒い負の属性を帯びていて、吐き出された言葉はあまりにも人とかけ離れた、酷薄で残虐なものだった。
ふとロイは違和感を覚えて、眉をひそめる。
何かを、思い出しかけた。
だが、朧気に横切ったものの正体を掴む前に、振動が神殿を揺るがした。化け物が暴れている様子がはっきりと伝わってきた。神器の封印を解いたせいで、結界が一気にその効力を失ったのだ。
考えている時間はなかった。一刻を争う事態なのだ。それに早く片をつけなければ、おそらくルシカが……戻ってくる。
全てを振り切るようにして、ロイは手にした仮面をつけた。
仮面をつけた途端、さっきまで身体を貫いていた痛みが消えた。傷が失せたわけではない。痛みを感じなくなっただけだ。その意味を考えず、今は都合がよいとだけ思って、階段を一段一段下りていく。上ってきたときと違って、足元がふらつくこともなかった。
その代わりに、意識が。
一歩階段を下るごとに、目眩にも似た感覚に襲われる。
何かが頭の奥を浸食していき、その分だけ何かが抜け落ちていく。
記憶と引き替えに、神の力を――。
間に合ってくれと思いながら足を早める。いつの間にか駆け足になっていた。
何を失っても構わない。ただ、あの化け物を。あの女を。
熱風で翻った長い黒髪。炎に照らし出された白い肌。愉悦を刻んだ赤い唇。生き生きと輝いていた赤い瞳。
なんで、あんな女を、最初、親友と見間違ったんだ……?
抜け落ちていく記憶が、ほんの一瞬の火花を散らした。
そうだ。セラだ。セラを思い出して、そして。
……姉がいるんだ、と。
無愛想で冷静沈着で自信家で、それでいて時折淋しそうな表情を浮かべる親友が、世界で一番大切にしている相手。自分にとってのルシカのような。いや、もしかすると、それ以上に大切に思っている姉がいるのだと。
まさか。
階段が終わって、開け放たれた扉から外の光が仮面の内側にまで差しこんだ。
外へ出る。天まで届くかと思われるほどの巨大な体躯をした、醜悪な化け物が立ちふさがっていた。
ああそうだ。自分の目的は、この化け物を倒すこと。
右手の聖剣を握りしめ、彼はそれだけを思った。
それ以外のことは、一切失われていた。
*
冷たい手のひらが、額に押し当てられている。
うっすらと目を開ければ、黒い髪の女性が自分の顔をのぞき込んでいた。
「…………?」
何もとらえることができず、彼はただ無心にその女性の顔を見つめ返す。
美しい人だった。透き徹るように白く整った顔の中で、愁いを帯びた瞳が虚空に開かれた窓のように黒々とした光を放っている。
どうやら自分は寝かされているらしい。真上から、そっと彼女が白い手を自分の額に当てている。
額にのせられた手のひらは、冷たくて心地よくて、どこか懐かしいような感じがした。
騒ぎ出そうとする心を、沈黙で満たして鎮めてくれる。
身体を包み込む癒しの光に、すべてを委ね、安心して彼はまどろむように目を閉じた。
伝わってくる手のひらの感触は、清らかな雪のように、全てを失った彼の心に染みこんだ。
Fin.
2006-08-13