秘められた名
アーギルシャイアは、寝台の傍らに跪くような形で座り込み、腕を伸ばした。
指先を、眠っているロイの口元へかざす。規則正しい寝息を感じて、のろのろと腕をおろした。
傷は完全にふさがったようだ。深く眠れば体力もすぐに回復するだろう。もともと気力や体力といった面では、平均以上の能力の持ち主ではある。
視線を、眠っているロイの顔に向ける。
彼女の記憶にあるロイは、いつもこうして目を閉じている。
起きているときは常に仮面を被せている。
だから、素顔を見ることができるのは、眠っている時だけ。
虹色の山脈で、禁断の聖杯を奪うのに、一度大きな魔法を使った。
それから転移の術。
そして今は、ロイの傷を治すのに治癒の術。
死なない存在である魔人といっても、無敵でもなければ、無尽蔵に魔力があるわけでもない。器としての限界もある。魔人が乗り移れば、高い魔力と不老に近い時が与えられるが、それでも所詮は、もろい人間の身体だ。無理をすれば、当然負荷がかかる。
器が駄目になったら、また新しい身体を手に入れればいいだけの話だったが、自分が気に入るような身体が、そういつでも簡単に手に入るわけではない。
できるなら、あまり無理な魔法の連用は避けたかった。
それでも、これは今ここで、やっておかなければならないことだった。
アーギルシャイアは薄い仮面を手にとると、力を注ぎ込む。
溶けた雪を再び凍らせるように。解けた糸を再度結び直すように。
初めて出会ったときの、森の奥の神殿を思い出した。
これはもともと私の持ち物。それを勝手に封印をかけて、隠し通そうとした愚かな人間たち。
だから、遊んであげた。
そして手に入れた新しい玩具。とても遊びがいがありそうだから、なるべく、大切にしようと決めた。
――この仮面の本当の主は私。あなたは私の人形。私に絶対服従を誓うのよ――
仮面をロイの顔へと戻す。
吸い付くように、仮面は再び、彼の顔となった。
そして封印の最後の仕上げとして、その名を呼ぶ。
「あなたは、サイフォス。私の忠実な下僕、よ」
* * *
サイフォスは頭を振って、寝台から身を起こした。
目覚めて、まず最初に感じたことは、生きている、ということだった。
続いて、自分はどうしてここに居て、何が起こったのか、疑問に思った。
それから以前にも似た感覚を味わった気がすると、遠い波音を聞くような気持ちで考えた。
……死んだと思ったのに生きていて。何がどうなったのかを思い出そうとして……奇妙な空白を感じて。
そのあとに、自分の名前を、思い出した。いや、知ったのだ。
誰かに名を呼ばれて。
傍らに目をやると、床にぺたりと座りこんだまま、上半身を軽く寝台に寄りかからせて眠っている主人の姿が目に入った。血の気をまったく感じさせない、白い寝顔が美しい人。
付き添って、そのまま眠り込んでしまったような様子に、穏やかな気持ちになる。
そうだ。彼女が、自分の主人の――。
抜けるような白い肩がのぞいている。その肩を包むように腕を伸ばしかけ、名を呼ぼうとして、眠りに落ちる前の自分を思い出した。
――ねえ。セラが来たら、あなたは懐かしがっている振りをしてね(そうやって油断させて、殺して)
――アーギルシャイア様、それはどういう事ですか?(彼は私の知り合いなのですね?)
――あなた、いつから私に口を挟めるようになったの?(あなたは私の忠実な下僕でしょう?)
――(私は誰ですか?)
言いかけた言葉は、彼女の苛立った顔と、おびえているような目によって、封じられた。
そして、虹色の山脈に向かった。
山脈の中腹にさしかかると、三匹のゴブリンが話しているのが見えた。
道の向こうから、長い黒髪の剣士の姿を含んだ冒険者の一行がやってくる。
そう。彼に手紙を出して、ここに来るように仕向けたのは……私……いや、主人、だ?
――セラ、会いたかったぞ。
命じられたとおりに。舞台の台詞をなぞるように。
言葉を放てば、剣士はいきなり剣を抜いて斬りかかってきた。
その剣呑な瞳が、苛立ったような、どこか軽蔑するような色を浮かべていた。
――ロイは俺が唯一認めた男なのだ。別人格になっていても、もう少しましな台詞を吐いてほしかったものだな。
主人に伸ばしかけた腕が、細かく震えた。
よびかけようとした名が凍ったように喉の奥で止まる。
死んだと思ったのに生きていて。何がどうなったのかを思い出そうとして。奇妙な空白を。
一番最初。目覚めたら、ただただ白い闇だけがあって、間近に彼女の顔があった。
それ以外の、すべてを失っていた。
長い黒髪に白い寝顔。その目が開かれれば、瞳の色は、どこか黒ずんだ赤い色。
黒煙をあげて森を燃やす炎のような!
――あなたは、サイフォス(それ以外は、もう何もあなたには残されていないわ)
全てを奪ったのは、この女だ。
腕の震えが、戻りかけた記憶に対する怯えから、熱を帯びたものへと変わる。胃の底を焼く荒々しい嵐。奥歯をかみしめて、そのままの勢いで白い喉へと手をかけようとした。今ならきっとできる。記憶の戻りかけた今なら、力任せにこの首を絞めることだって!
だが、ほどけ始めた記憶は、奔流のような勢いで、時間を巻き戻す。
――抜け目ないのね、セラ。親友に対しても心を開かないなんて。
――姉を返してもらおう。
――イヤだと言ったら?
――お前の生命をもらってから、姉シェスターを取り戻す。
――でも、この美しい肉体を持った私を、あなたは斬れるのかしら?
激しく脈打つ身体が、知らないうちに汗ばんでいた。伸ばしかけた手を押しとどめ、拳を握り固めて……ロイは食いしばった歯の隙間から息を吐くと、そっと手を開き、彼女の喉ではなく、頬に触れた。
よほど疲れているのか、彼女は全く目覚める気配はなかった。
眠りに落ちたままの白い顔は、こうして見ていると、ただの人間の女のようで。
目覚めて、まず最初に感じたことは、生きている、ということだった。
そう感じたのは、死んだと思ったからだ。激しい打撃を受けた記憶があった。
けれど、今の身体はどこも痛まなかった。治癒の術を使われたのだろう。
その事実に唇をかみしめる。
生殺しのまま、まだ弄ぶつもりだったか――それとも?
苛立ちをぶつけるように、触れている頬から、そのまま指先をすべらせて、長い髪に指を絡める。耳朶の上をかきあげるように梳き流した。
さらりと指の間をすべり落ちていく、絹のような黒髪。
怒りを、殺意を押し流すように、何度も彼女の髪に指先を遊ばせて、愛撫を繰り返す。
記憶、意志に誇り、名前、居場所、家族に友人、自分という存在全てを奪われた。
そして奪った後に、丁寧にも、色んなものを植えられた。
記憶がなくても、時間を共有すれば、そこに新たな記憶が積もってしまう。
まるで白い雪が降り積もっていくように。
――あなたの腕は、とてもよく眠れるわ。サイフォス。
自分の全ての奪った敵。けれど親友の姉でもある女性。そして奪いながら、与えもした女。
何も知らないままでいれば、もっと簡単に殺せた。
眠ったままの黒髪を梳きながら、彼は低い声で囁いた。
「……卑怯者」
それから彼は、感情など仮面の内側に封じたように、淡々と彼女を抱き上げ、さっきまでの自分の代わりに今度は彼女を寝台へと寝かせた。
その姿は、表情を隠す仮面も手伝って、忠実な下僕の姿のように、外からは映った。
けれど彼が封じられた名前を取り戻した証として、彼は違う名で、そっと彼女を呼んだ。
「シェスター、か」
2008-01-20
- 鍵と鎖
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