秘められた名(おまけ) 

 まずは記憶。それから意志。住処を奪って、衣装を変えて、顔を閉ざして。
 存在のしるべとなるものを、ひとつずつ、注意深くとりのぞいて、変えていく。
 誰かを手に入れるというのは、そういうこと。
 一番最後は名前。
 あなたの剣とあなた自身の名前を、つけなおした。

「あなたは、サイフォス。私の忠実な下僕、よ」

 私がその名を呼べば、あなたは「はい」と従順に、穏やかに答えてくれる。
 私がその名を呼ぶ限り、あなたは私の、忠実な下僕。
 私はあなたの支配者。あなたの主人。
 だから――あなたは、違う名で私を呼ばないで。

 


 


 それまでの居場所から逃げ出して。服を着替えて。化粧を施して。
 何かが……私の身体を使って、私を作り替えていくの。
 怖いような気もしたけれど、楽しい気持ちもあった。新しい自分は、全然自分とは違う。だってこれは――自分じゃない。

 今の私は、水の繭の中にいるみたいだった。
 暖かくて柔らかくて形のない。上下左右の区別も、時間の区別も、内と外の区別も、昼と夜の区別もない。
 宙に浮いているような浮遊感があって、それでいて何か重たい圧力もかかっているように感じられて。
 とても深い深い水底に沈んでいるような。水の中をたゆたうような。
 水は時々浅くなったり、明るくなったりして、たまに外の様子も感じられる。
 声や風景が見えて。そして。
 燃える緑の森が見えた。人が見せ物のようになぶり殺される光景が。
 その瞬間、私が悲鳴を上げた。
 やめてやめてやめて、そんなことをしたかったわけじゃない!

 ――嘘ね。やりたいことをやって、楽しいことを始めましょうよ?
 ――あなただって似たような目に遭わされたでしょう?

 からかうような声に、私は抵抗が出来なくなる。
 新しい自分は、全然自分とは違う。けれど、自分がずっと心の片隅ではやりたかったようなことをやっているような気がして。
 それでいて自分だとは信じたくない。信じられないような、非道なことを次々とやってのける。
 認めてしまったら、自分で自分を殺すしかなくなるような。
 私の手は、足下は、もう血で赤くて戻れない……違うわ、あれは私じゃない。水の繭で私は眠っているだけ……何も知らない。何もしていない。本当に?

 ――あなたの腕は、よく眠れるわ。サイフォス。

 水の向こうから声が聞こえる。
 日だまりのような腕と光。安心しきって、彼に甘えている女が一人。

 ――私は、あなたの忠実な下僕です。アーギルシャイア様。

 彼はそう答えて、名を呼んだ。不意に水がさざめいた。違う。それは私の名前じゃない。でも、じゃあ私は? 水は境目を見失わせる。たゆたうような水の繭の中で、次第に色んなものが曖昧に溶け合って分からなくなっていく。
 自分がどこに居るのか、自分の名前も思い出せなくなる。
 どこまでが私で、どこからが私じゃない私なのか。
 ――――。
 あなたが、もし、私すら見失っている私の名を呼んでくれたなら。

 



* * *



「シェスター、か」
 ロイが何気なく呟くと、それが聞こえたかのように、アーギルシャイアの閉じたままの睫毛が、微かに震えた。
 よく見なければ分からない、小さく光った睫毛を滲ませる水滴。
 彼女は表情を動かすことなく静かに眠っているが。

 ……涙?

 浮かんだそれに動揺を覚えながら、ロイは指先で、そっとその睫毛に触れる。
 その途端、もう水は消えて見えなくなった。
 目が覚めたような、裏切られたような、取り残されたような――半ばサイフォスに戻りかけるような錯覚に陥りながら、ロイはその場に立ちつくして、眠る女を見下ろす。
 今触れて消えたもの。それがいったい何だったのか。
 全てのことが、急に分からなくなった。

 身体についた名と心についた名。どちらで呼ばれて、どちらが応えるのか。
 素顔を置き忘れたままで呼び合う声は、魂の底に届くにはまだ遠い。

いつの間に兄と姉は恋仲になったのか? = 別人になっていても、それでも交わしあっていたものは確かにあって、それを育てていった結果の愛情……だったらいいなと夢見てます。

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