しずかな日記 

 就寝時刻の宿泊室に、さらさらとペンの流れる音がひびく。
 その音を聞きながら、セラは傍らを見る。
 サイドテーブルの前に椅子を引き寄せ、ルシカは一心に、綴り紐でとじられたノートにペンを走らせていた。口を結んで、手元に集中している姿は、育ちの良さと躾の良さの、両方を感じさせる。
 忘れそうになるが、一応、神官家の娘なのだ。
 基本の考え方や行動は善人のそれだし、頭の回転は速いし、魔法の覚えもよい。
 ただ、知的とか敬虔とかいう言葉には、そぐわなかった。

 昼間のことを思い出す。
 覚えたばかりのスペルを、どうしてもルシカは披露したかったらしい。ファドルをかけられたリトルバンパイアは、くるくると辺りをあやしく飛び回った。酔っぱらいの言動がわからなくなるように、どこに飛んでいくのか予測がつかない。
 見切ったつもりでふるった月光の剣先を、するりと避ける。
 片づくはずの戦闘が、かえって長引いた。ようやく仕留めて、一声怒鳴った。
『バカか貴様! 使う場所を考えろ!』
『だってせっかく覚えたんだし、どんな風になるのか、試してみたかったんだもん!』
 言われた方は、全然こたえていないようで、その声に反省の色は見えなかった。

 ランプに照らされている白い横顔は、昼間の騒々しさが嘘のように、滑稽なほど真剣で、少しだけ大人びて見える。
 そんなルシカの横顔をうかがいながら、セラは思う。
 ……恐ろしく記憶力がよいくせに、なぜ日記などつける必要がある?



「そろそろ消せ。寝る」
 灯りに手を伸ばそうとすると、ルシカが顔をあげ、唇を尖らせた。
「あとちょっと!」
 息を吐いて、セラはベッドに転がり、両手を頭の後ろに回した。
「日記などつけて何が楽しい」
「楽しいって……う~ん、日記って、そういう感覚でつけるものじゃない気がするけど?」
「過ぎたことなど、何にもならん」

 セラの言葉に、ルシカはすぐには答えなかった。
 ふと言葉を止めただけの、軽い沈黙が訪れる。

「お兄ちゃんに会ったときに、語れるものがあったほうがいいでしょ?」
 セラはわずかに眉根を寄せた。
「そんなもの、口で済むことだろう」
「忘れちゃうことだって、たくさんあるよ。そしたら勿体ないよ」
「忘れるのは、それだけのものでしかなかったということだ」

 そこまでの道のりなどどうでもいい。
 取り戻せさえすれば――それだけで。
 そんな声が聞こえているはずもない。淡々とした声でルシカが続ける。

「あたしが、ちゃんと話せればいいけど」
 それだけ回る舌を持っているくせに何を言う。
 実際セラは口に出しかけたが、続いたルシカの言葉の方が先に響いた。
「文字に残しておけば安心でしょ……あたしに、何かあったときでも」
 セラは視線を険しくして、頭の後ろに手を組んだまま、顔を真横に向ける。
 ルシカは手元に目を戻し、日記の続きを書いていた。書きながら、軽く言う。
「書いておけば安心ってわけでもないけどね。書いた物が燃えてしまうことだってあるし」

 ――昼間の騒々しさが嘘のように。
 時々この娘は、尖った暗い目をする。
 怒りとも憎しみとも悲しみともつかない、夜の果てを覗いているような目。

「くだらん。はやく寝ろ」
「もう書き終わったよ。ありがと、セラ」
 セラが背を向けると、わずかに遅れて、部屋の灯りが落ちた。
 ふっと辺りに闇が満ちる。



 ロイは筆まめな奴で、宿に泊まると、いつも手紙を書いていた。
 あまりその様子を気にしたことはなかった。自分も同様に、姉に送る手紙を書いていたからだ。
 もうその必要もなくなっていた。だから今は、日記をつけるルシカの姿を、とらえどころなく見ているだけだ。

 日記は、過去のために、書くのだと思っていたが。
 姉を捜す手助けを求めて、ロイの元を訪れたはずだ。どうしてこんなことになっているのか苛立ちを感じるが、だからといって途中放棄するわけにも行かない。
 闇に目をこらして、明日の行方を思う。
 ロイを見つければ――もう少し、何かが変わるのかもしれない。

2006-12-21

ミイス主と一緒にいることって、セラにとっては心理的に辛かったんじゃないかと思います。姉のしたこと、ロイの行方、その両方をいっぺんに思い出させる妹の存在は、重かったろうなあと。