日蝕
「お兄ちゃんはね……」
ルシカは、ロイの話をするとき、嬉しそうな顔になる。
大切な宝物を語る口調で、記憶にあるロイの姿をこまかに話す。記憶力の良い娘だ。どうでもよいような些細な事柄を、忘れもせずに覚えている。
『知っている。それはもう聞いた』
そう言って遮ることもあったが、一度聞いた話だと分かっていて、耳を傾けることもあった。ロイを知っているから、聞けば色々あいつのことが思い出されて面白かった。
ルシカを見ていると、ロイを思い出す。
ロイも妹のことを話すときは、そういう顔をしていた。
嬉しいことは嬉しいと素直に表に出すところや、わざわざ足を止めて面倒を引き受けるお人好しなところ、疑いを抱くよりも前に、まず相手の話を信用して聞いてみるところ。外見はあまり似ていなかったが、何気ない部分で共通点を見つけると、やはり兄妹なんだなと思った。
仲の良い兄妹だったのだろう。
自分にも姉がいたから、ロイと旅をしていたその間――素直に認めたくはないが――妹思いのロイの姿には、共感が働いた。ロイと気があった理由の一つはそれだったのだと思う。
姉が消え、あの女が現れ、今度はルシカと共に旅をすることになり、ルシカの口からロイの話を聞きながら。
以前と同じように共感できなくなっていることに気がついた。
――しつこいわ、セラ。もういい加減、大人になって――。
あれは姉の姿をしているだけの別人だ。姉ではない。
優しい姉の声は耳に残っている。綺麗な姉の姿を思い出すこともできる。だが、それらを明るく語ることはできない。あの女の影が邪魔をする。
そう言い聞かせながら、薄れかけた思い出は、セラの確信を揺らす。
ルシカと違って、自分は昔のことをそれほど鮮明に覚えてはいられない。姉とじっくり言葉を交わしたのは、もう何年も前のことになってしまった。
シェスターは、俺のことを語るとき、ロイやルシカのような顔をしてくれていたろうか。
*
「サイフォスの意味ですか? 『日蝕』です」
いけ好かない森の賢者は、あっさり言った。
「日蝕……」
失われた神聖語。その意味を知るものは、ある程度限られている。
古代の魔法に通じる魔術士、学者、もしくは聖職者。あるいはエルフや魔人といった長寿の者。
それさえ聞けば用はない。急ぎ足でセラはその場を立ち去ろうとしたが、オルファウスは続けた。
「日蝕の原理は、ご存じですか?」
無視して通り過ぎてもよかったのに、どうせ知らないだろうと言いたげなオルファウスの口調に、セラは振り返らぬまま、答えてしまった。
「雲もないのに、太陽が黒く欠けて翳ることだろう」
「それは現象でしょう。私が言っているのは、どうしてそんな事が起こるのか、ということですよ」
オルファウスは淡々と、セラの背に聞かせるように続けた。
「太陽が黒く欠けるように見えるのは、月が太陽を隠すからなんですよ。月の周期と太陽の周期の関係で、何十年かに一度、そういう瞬間が訪れるんです」
セラはオルファウスを睨んだ。
オルファウスの目は、セラの腰に下げられている月光に向けられていた。
……この賢者の初対面の印象は最悪だった。もともと相性が良くない相手なのだ。
「俺は、そんなことまで聞いていない」
屋敷を出ると、外で待っていたルシカが、顔を上げてセラを見た。
その視線を受けたが、何も告げず、セラは先に立って歩いていく。
ルシカが口を開きかけたのが目に入ったが、セラが睨むと、諦めたように視線を足下に落として、黙って後についてきた。ルシカのこういうところは、面倒がなくて良かった。
オルファウスが一方的に教えた情報に、セラはかなり不機嫌になっていた。
……何が言いたい。
そう思いながら、後に付いてくる少女のことを思った。
ルシカは以前のようにはロイの事を話さなくなった――サイフォスと、会ってから。
薄々感づいているのだ。いつまでも、このまま放っておくことはできない。
それがどんな事実であろうとも、厳然としてそこにある。それだけのことでしかないのだ。
だから。
*
「確かめたかっただけだ。こんな風にな」
セラの予想通り、月光が、サイフォスの持つライジングサンと、共振する。
この月光に反応する剣はただ一つ。それを持っている相手も、世界でただ一人。
『お兄ちゃんはね……』
明るい口調で語られる思い出話は、語る方にも、聞く方にも悪い物ではなかった。
いつか叶うと信じているうちは。
サイフォスが現れてから、無邪気に懐かしそうに語っていたルシカの話に、影がかかるようになった。本人も話しているうちに気づくのか、楽しそうに語っていたはずの口調が、終わりには行き場のない、あやふやなものへと変わっている。
それは――自分がシェスターに対して抱く感覚と、少し似ているようで。
『間違いであれば、いいのだが』
以前ルシカに告げた言葉は、嘘ではなかった。違っていて欲しかった。別人であって欲しかった。セラもどこかでルシカと同様に思っていた。
だが、真実を照らし出す月の剣。その主であれば、いつまでも目をそらし続けることもできなかった。それはセラの信念に反する。
だからこそ、月光をふるう手を止めない。
信念を貫くように月光をかざして、けれど背後のルシカを見ることができなかった。
暴き立ててしまえば、もう目をそらすことはできなくなる。
不安は確信へ。もう一度会いたいという願いは、想像とは違った形で。
日の光のような思い出に翳りがさす――月が、太陽を翳らす。
己が己であるために、歩みを止めることができないのは確かだったが。
こんな風に正体を暴き立て、事実を突きつける真似は、できることなら、したくなかった。
2006-11-09