噂の人たち 

 冒険者は、町の中までは、群れて歩かん。
 確かにそう教えたのはセラだった。だが冒険に出かけるため町を出るときは、待ち合わせ場所を決めて、合流してから出かけるのが、パーティというものでもある。
 海に浮かぶ島から出るのだとすれば、移動手段は船。必然的に船出前に落ち合って、仲間と共に乗船となる。
 ――言い換えれば、全員そろわないと、船に乗れない。
 さらに船は出発を待ってくれない。乗り遅れたら、次の便を待つしかない。

 


 


 南国の島エルズに吹く風は、甘くやわらかく、町中を吹き抜けていった。
 セラの髪が風に揺れる。風向はよい。行く手には良く晴れた青空が広がっている。今のところ雲の立ちこめる気配はない。天候は上等。絶好の船出日和だ。
 ……船か……。
 海を渡ってやってきたのだから、帰るときだって海を渡らなければならないのは、当たり前だ。
 待ち合わせ場所である港に向かいながら、セラは内心でため息をついた。表には出さない。上辺は、いつもの冷静さを保っていて、変わりないように見える。
 だが見慣れた者が見れば、眉間のしわは一本多いし、唇は貝のように固く閉ざされているし、目つきは鋭いを通り越して、棘や針を放っている。一つ一つが、この上なく不機嫌だと宣言していた。
 無言のまま、セラは早足でエルズの町を抜ける。

 船旅を嫌うセラが、渋々、待ち合わせ場所である港にやってきたとき、待っていたのは、「友人の仇をとるために強くなりたい!」とついてきたコーンス族の 青年と、「後世に残る歌をつくる!」という理由で、いつの間にかパーティに居座っていた、リルビー族の詩人の、二人だけだった。
 ――青い髪が足りなかった時点で、すでに嫌な予感がしたのだ。





 乗船予定の船は、白い帆をたたみ、のんびりと出航を待つように、波に浮かんでいる。
 ボルダン族の男が、肩に荷を担いで、何度も船倉と波止場を往復する。
 樽が、麻袋が、次々と運び込まれてくる。行き先はリベルダム。船旅に必要な物資を、船に運び入れているのだ。
 空気は徐々に暖められ、海原は眠気をさそうかのように、穏やかな表情で広がっていた。
 出航は正午の予定だった。

 甲板で、船員たちが声を掛け合い、忙しそうに索具を操っている。
 レルラは二股に別れた赤い帽子の先を、くるくると風に遊ばせながら、にぎやかな船の様子を眺めていた。
 ときおりブツブツと口の中で何か呟いているのは、この場の様子をうたう、歌詞、あるいは旋律を考えているせいだろう。

 ナッジは落ち着かなげに視線をさまよわせ、辺りを見回していた。
 行きの船の中で、エルズは初めてだと語っていた。視線に物珍しさに浮き立つ好奇心と同時に、不安が見え隠れしている。彼の慎重さと気弱さがうかがえるが、旅慣れていなければ、期待だけではなく不安があっても仕方ないとは思う。
 あの娘の方が、どこかおかしかったのだ。

 苦虫を噛み潰した顔で、セラは船に背を向け、町中へ続く通りへ目をやった。
 それらしい人影がいっこうに現れない。
 通りに向けられている目は、眺めているというよりは、睨んでいる、といった方が近いものになっていた。
 それでなくても――船旅なのだ。八日間も!

 アラミルで降りて陸路をとればいいと思っていたが、探索依頼の配達先はリベルダムだ。船で直行した方が早いに決まっている。三対一で却下されることは目に見えていたから、セラは黙っていた。
 出発の日が近づくにつれて、どんどん不機嫌になっていく彼の心情を、仲間たちがどうとらえていたのか定かではない。
 だが、それとなく船出の話題をさけていたから、たぶん分かってはいたのだろう。
「じゃあ明日、正午前に港でね!」
 とだけ、リーダーであるルシカが告げたのが前日だった。今朝、そそくさと支度をして、宿を出た姿は見かけた。
 出発前に何をする予定なのかは、聞いていなかった。別に関係ないと思ったから、聞く必要などなかったのだ。

 降り注ぐ太陽の光がつくる影が、じりじり短くなっていく。積まれていた荷物の山が、気づけばずいぶんと小さくなっている。
 着々と準備が整い、出航時間が迫る。
 ……来ない!

 


 


 町を見つめるセラの背中が、どんどん尖っていくのが、端から見ていても、よく分かる。
 不機嫌なセラに恐れをなして、ナッジは声をかけられずにいたが、レルラはそんなことなどお構いなく、あっさりと事実を告げた。
「ねえ。そろそろ、やばいんじゃないかなあ」
 空になった荷台を引いていくボルダンの後ろ姿が、町の方へと消えていく。明らかに片づけに入っている。積まれた物資の最後の山が崩され、船倉へと納められようとしている。
 マイペースなレルラだったが、そのマイペースさと詩人としての観察力ゆえに、現実的な指摘をすることも多かった。
「出航、もうすぐだよね」

 誰もが心に思っていたことを口に出され、ぎっとセラがレルラを睨んだ。
 ここは花の溢れる南国なのに。これから絶好の青空の下の船旅なのに。
 この険悪さは何事だろうと、ナッジはおろおろするが、セラは苛立ちを別の方向に向けることにしたらしい。
 レルラを無視して、町へ向かって、怒声を放った。
「何をグズグズしているんだ! あのバカは!」
「で、でもルシカって、時間はちゃんと守る子だよ。何かあったんじゃ……」
 ナッジが口を挟むと、セラが今度はナッジを睨んだ。
 イライラの棘を受けて、ルシカ頼むから早く帰ってきて、とナッジは祈らずにはいられなかった。
 だが、間違ったことは言っていない。自分が言った言葉の正しさには、自信があった。

 その証拠に、セラは舌打ちをしつつも、町を見た。
「世話のかかる奴だ!」
 ナッジやレルラの反応も待たず、黒髪をなびかせ、セラが町へと駆けていく。あっという間に遠くなっていく背中に、声などかけられなかった。
 唐突なセラの態度には、最近ようやく慣れてきたところだった。パーティのリーダーが手本を見せてくれたのだ。『他人をまったく気にしない性格なだけで、悪意はないから』というコメント付きで。
 ……他人を気にしないのは、セラだけではなく、個性派揃いの仲間たちほとんど全員に当てはまるんじゃないか、と気もどこかでするのだが、それはルシカを見習って、あまり気にしてはいけないのだろう。

 我に返って、ナッジがレルラを振り返る。
「あ、僕も探しに行ってくる!」
「じゃあ行き違いになっても困るから、僕はここで待ってるよ」
 レルラの言葉に安心して、ナッジは町へ急ぐ。自分で言っておいて不安になったのだ。
 ルシカが時間に遅れるなんて、今まで一度もなかった。ルシカの身に何かあったのかも……いや、何かあったとしか思えない。
 最近通り名が付いて、少しずつルシカの名前と顔が、その筋の人間の間では知られるようになってきた。それが災いして、なにかトラブルに巻き込まれているのかもしれない!
『エルズで悪いことをする人はいないわ。だってどんなに上手に隠しても、エア様にはすべてお見通しなんですもの』
 子連れの母親から、にこやかに聞いた言葉は、すっかりナッジの頭から抜け落ちていた。

 親友のことが、トラウマだったりするのかもしれないが。
 のんびりとおとなしそうな性格に見えて、その実、意外と思いこみが激しく、時にはそのまま行動に移してしまうところが、ナッジの欠点だったりする。
 いい奴なんだけどなあ、とため息混じりに、『名前を知るもの』に呟かれていることなど、もちろんナッジは知らない。

 



 あーあ。二人とも行っちゃった。
 走り去っていくナッジの後ろ姿に、がんばってね、とレルラは心で声をかける。
 人間観察は、詩人にとって必要不可欠な要素であり財産だ。ルシカのことになると、いつもと様子が変わる二人は、眺めていて面白かった。

 ナッジは、最初の出会いが、危うく親友の仇に返り討ちにされかけたところを、ルシカに救ってもらったそうで、彼女にずいぶん過度な感謝と尊敬を抱いているらしい。
 ナッジの口からルシカのことを聞いていると、誰のことを話しているんだろうと、時々首を捻りたくなる。
 噂が面白いのは、それが真実かどうかというよりも、言っている方がそれをどうとらえ、言われている方が世間からどう見えるか、というところにある。
 個人レベルでも同様だ。ナッジのルシカ像は――双方の姿が別の角度から分かる気がして、レルラにとっては色々得をする発見だった。

 セラはセラで、ルシカ相手だと保護者面になるところが面白い。
 相手を子供だ子供だと言っているが、言っている方も、隠してはいるが、子供じみたところがあるじゃないかと、レルラはこっそり思っている。
 船が嫌いで不機嫌なんて、良い証拠だ。セラって船が苦手なんだよ、とイタズラを得意げに誇る子供の口調で、ルシカが教えてくれたのは、たしかアキュリースに向かう舟の上だった。
 舟の上で髪を風になびかせ、対岸を見つめているセラの表情は、硬く冷たく見えたが、今思えばあれは、苦手意識と不機嫌の絶妙なブレンドのなせる技だったらしい。
 ルシカといると、色々と飽きない。はやく彼女の歌を完成させたい。
 同時に、まだまだ先まで見ていたいとも思う。何が彼女の前に降り落ちてくるのか。

「そこのリルビー! 船に乗るのか? 早くしないと置いていっちまうぞ!」
 船の上から船員の一人が、レルラにむかって声をかけた。慌ててレルラが答える。
「ちょっと待って! 僕の仲間が来ないんだ。まだ出発しない……よね?」
「何を言っていやがる。出航は正午ってことになってるだろうが! お日さんはもう真上だぞ」
「完全に高くなるまで、もうちょっとだけ時間があるよ。ほら、だって僕の足下、まだ影があるよ。ここで一曲披露するからさ。あとほんのちょっとでいいから待って。ね、この通りだから!」

 ぺらぺらと舌を動かして、レルラが甲板に向かって叫び返す。
 内心で色々計算を巡らせつつ、ハープを取り出して見せた。
 レルラの声が聞こえたのか、船に乗っている乗客たちが興味を引かれたように、一人二人と集まり始めた。
 基本的に、レルラは楽天家で面白好きだ。トラブルすら楽しんでしまうところがある。不意の事故に対応するのも得意だ。だが、人を一人引き留めることはあっても、船を一隻引き留めるなんてことは、さすがのレルラもしたことがない。
 セラとナッジ、どっちがルシカを見つけてくるか、心の中で賭けていようかと思っていたが、そんな暇もないようだ。

「どんな歌がいい? それとも話の方がいい? ねえ、最近売り出し中の青い髪の冒険者の話なんてどう?」


* * *

 

 青い髪の少女は、一人きりでやってきた。
 綺麗な顔立ちの子だったが、目を引いた理由はそれだけではなかった。弾むような快活な足取り、屈託のない仕草、くるくるよく動く青い瞳、一つ一つが、ぱっと光をふりまいたような明るい印象を与えるのだ。
 冒険者という荒っぽい仕事に従事している者には見えなかったが、身に纏った白いボディアーマー、腰に下げた細身の剣は、彼女が冒険者であることを示して いる。ほっそりとした小柄な身体には、不釣り合いにも見えるそれらが、飾りではない証拠に、使い込まれ、きちんと手入れもされて、身に馴染んでいた。
 冒険者は冒険者でも、初心者というわけではなさそうだ。
 そこそこ経験を積んできた、中堅と言ったところだろうが、妙に若い。十五、六。いや体格と顔立ちから判断しただけだ。もうちょっと見積もって、十七、八。やはりこれでも十分若いか。

 ――青い髪と青い瞳。小柄な身体で――。
 まさかな。

 密かに観察されていることに気づいているのかいないのか、少女は何を気にするわけでもなく、真剣に目の前の棚の品を見つめている。あるいは足下に並べられている木箱の中に手を差し入れて、手にとっては、首をひねり、また返す。真剣に悩んでいるらしい。
 おいおい。冒険者なら、もうちょっと他の……。
 どうにも、よく分からない。よく分からないから、目が離せなくなる。

 と。何かが彼女の目を引いたようだ。棚の上にのせられていた瓶のラベルを見て、くもりのない笑顔を浮かべた。不穏な噂ばかり流れてくる薄暗い世の中だからこそ、こういう顔は貴重だ。
 彼女がこちらを振り返って言った。
「すいません。これと……あの、何か珍しくて綺麗な、おすすめの花の種とか野菜の種ってありますか?」
 普通、冒険者が買いに来るのは、傷薬とか滋養強壮作用のある薬草といったものなんだが。
 不思議に思いつつ、道具屋の主人はカウンターから出てきて、少女の隣に立った。



 エルズには、いたるところに花が溢れている。
 暖かな気候と穏やかな風が、花の生育に適しているのだろう。通りの両脇を埋めるように、花々が寄せ植えされた鉢が置かれ、通りの両脇に立ち並ぶ二階建ての建物の窓辺には、競い合うかのように花が咲き誇って、行き交う人々の目を楽しませる。
 ルシカのエルズの第一印象は、綺麗な町、だった。アキュリースも好きだが、エルズも素敵だった。
 初めて来たときは、町の風景に心を奪われて気が回らなかったが、次の機会には花の種を買って帰ろうと思っていた。
 オルファウスへのお土産にしようと思ったのだ。
 屋敷の庭の片隅にでも、植えてもらえたら。

 猫屋敷の裏手には、オルファウスの家庭菜園がある。
 自給自足生活をしている……わけではなくて、賢者の単なる趣味の産物なのだが、訪れるたびに出される極上の紅茶の原料となっているであろう茶葉や、まる まる太った瑞々しそうな野菜が植えられているのを見ると、わくわくしてくる。丹念に育てられた花々が美しく咲いているのを見ると、季節の色鮮やかさを思 う。

 土いじりは好きだった。暖かな日差しを浴びながら、土を掘り起こして、野菜の種を植えて、その芽が吹いて、育っていく様を見ながら、早く大きく育ってねと、毎日祈っていた。
 緑に包まれた猫屋敷は――ルシカに、森の奥にあった、失われた故郷を思い出させる。
 庭があるということは、帰る場所があるということ。
 お土産と称しつつ、これはたぶん故郷を偲ぶ行為だ。オルファウスはそれを分かって、笑って受け入れてくれるだろうと思った。



「花で育てやすいのは、これとこれとこれか。珍しいって言うなら、これかな。最近流行の品種改良の品で、あんまり寒いところでは駄目だが、蒼風花に似た花が秋口に咲くんだ」

 道具屋の主人の説明を聞きながら、猫屋敷のことを考えていたルシカは、ふと顔を上げた。
 エルズの町並みは綺麗だった。どこか洒落ていて洗練された雰囲気がある。貿易産業が盛んだということもあり、舶来品や芸術品が、それとなく生活に取り入れられている。
 カウンターの後ろにある、飴色の小さな時計も、そんな品の一つだろうと思っていた。
 針の指す時刻は、船出までまだ余裕のあることを告げていた――それが正しく動いているなら。

 ……針、お店に入ったときと同じ位置……。

 一瞬頭の中が空白になり、次の瞬間、それが意味することがわかって凍り付いたルシカに、店主が怪訝な顔する。
「あああああ、あの、あの時計って……!?」
 ルシカの指さした先を追って、店主が慌てて謝った。
「すまない、あれはただの飾りなんだ!」
「うそ――っ」
 薄暗い店内で集中して品を選んでいたので、時間の感覚がなかった。慌ててルシカは窓辺へと駆け寄った。
 外は明るいを通り越して、眩しいくらいだ。間違いなく、お昼時だ。

 見つけたのはそれだけではなかった。
 まぶしい昼の街を走っている見覚えのある黒い影と、ルシカの目が、ねらい澄ましたかのように、窓越しにぶつかった。
 ……やばいっ!
 顔を引っ込め、ついでに身をかがめてしまったのは、条件反射だ。
 訴えるような眼差しで道具屋の主人を見上げると、店主は半分だけ事情を察して言った。
「じゃ、これでいいな」
 手早く種を袋に包んでくれたが、その動作が終わらないうちに、道具屋の入り口の戸が勢いよく開けられ、怒鳴り声が響く。
「貴様! こんなところで何をやっている!!」
 目で訴えたのは、かくまってくれ、という意味だったのが、当然そんなものが通じるはずもなかった。

 相手の剣幕に冷や汗をかきつつ、ルシカが早口で答える。
「お、オルファウスさんにお土産を」
「ふざけるな! あんな奴に土産など必要ない!」
 ずかずかと店内に入り込んできたセラは、野良猫を捕まえるかのように、ルシカの襟首に手をかける。ひきずられながら、ルシカが必死に言う。
「ま、待って。待って、セラ。まだお金払ってない……」
「いらんと言っている!」
「セラ! ルシカも! 良かった、無事だったんだね!」
 もう一つ飛び込んできた声に、ルシカが目を上げると、ナッジが息を切らしつつも、安心したという顔で立っていた。
「無事って、あたし、買い物していただけ……」
「買い物?」
「お土産……は、花の種……」
「馬鹿か。冒険者がそんなもの買ってどうする。何の役にも立たないだろう!」
「セラ、駄目だよ。そういうこと正直に言っちゃ! ここお店だよ。お店の人も目の前にいるんだよ!」
 ナッジ、そういうフォローは、口に出しちゃ駄目!
 思わずルシカは心の中で叫び返したが、あまりの騒々しさのせいか、店主の様子もおかしかった。ぽかんと口を開けて、ルシカ一同を見ている。

「黒髪長髪で腹出しの剣士……馬鹿正直なコーンス……」

 店主の呟きに、ぴくりとセラの頬が引きつり、え、とナッジが小さく呟く。
 失礼なことを言った仕返しをされているのかしら、とルシカは考えてしまったが、店主は今度は大声で、ルシカに向かって叫んだ。

「じゃあやっぱり、あんたが噂の『聡き風のルシカ』なんだな!」



 すごくすごく気になる……。
 港に向かって走りながら、ルシカは先ほどの道具屋の主人の様子を思い返す。
『いやあ~。そうかもしれないとは思ってたんだが、今ひとつ確信が持てなくてなあ。あんたの噂は聞いているよ。最近売り出し中の腕の良い冒険者だってな!』
 それにしてもと、店主は、くくくっと小さく笑いをこらえた。噂ってのは当てにならないと思っていたがそうでもないんだな、と呟いて。
 ……お代はいらない早く船に乗んな、と送り出してくれたんだから、悪い噂じゃないんだろうけど。
 店主の聞いている噂というのが、とても気になって仕方がない。

 港にたどり着くと、人だかりができていた。
「何あれ?」
「レルラ?」
 人に埋もれて分からなかったが、ぴょんと飛び上がって身軽に宙返りをした時に見えた、赤い帽子には見覚えがあった。人垣を割って近づくと、レルラが叫んだ。
「遅いよルシカ!」
 人垣がざわめいて、ルシカに視線が集まる。何事だろうとルシカは周囲を見回したが、レルラは気にせず、甲板に向かって叫んだ。
「ありがとうございました! ルシカ、早く乗って。出航時間過ぎてるんだから!」
 急かされるまま、レルラに続いて、ルシカが板を渡って船に乗り込む。レルラの周囲に出来ていた人垣も崩れて、半分くらいはぞろぞろとルシカの後に続いて船に乗り込み、半分くらいは街の方へと帰って行った。
 そして甲板に足を踏み入れた途端、ルシカはなぜか拍手で迎えられた――。





「感謝してよね。無理を言って、出航を待ってもらってたんだから」
 レルラは胸を張ったが、ルシカを含めた残りのメンバーは、どうにも納得できないものを感じていた。好奇の視線と、気さくにかけられる声と、遠慮なくぶつけられる質問に、ルシカは戸惑い、ナッジは困惑し、セラは不機嫌になっていた。
「起こしに来るな」
 そう告げてセラは、船室に降りていった。寝込む……のではなくて、船室で人目を避けるつもりなのだろう。八日間も? と冗談のつもりで言ったルシカは、 誰のせいでこんなことになったんだ! と八つ当たりを受ける羽目になった。ナッジは助けてくれず、レルラはまあ仕方ないよね、と済ました顔で立っていた。

「僕、ちょっと不思議だったんだ。コーンスの角を狙った冒険者に襲われたあの事件、知っているのって、その場にいた人たちくらいなのに……」
「噂の出所って」

 甲板に並んで潮風を受けながら、ルシカとナッジはレルラを見た。レルラは樽の上に腰掛けて、子供を相手に、何か面白い話を語り聞かせているところだった。
 エルズは大陸から離れている。噂が入ってくる機会は少ないのかもしれない。いや、千里を見通す風の巫女エアが居るのだから、情報は常に最新のものが提供されているのかもしれないが。
 冒険者ルシカの噂が、どんな形で広まっているのか、どんな楽しみをエルズの住人に与えたのかは――次回の上陸の時に確かめたいところだった。

 そのときはレルラは置いていこう、とルシカは思っていた。

 

Fin.

2006-12-03

うちのセラは船が嫌いという設定です。レルラはちゃっかり者で常にネタ探しをしています。ナッジは天然で正直者です。ルシカ初のエルズ船旅の模様は『冒険開始』をご覧下さい。