雨の休暇・予感
現在バイアシオン大陸は雨期に入っている。
こうなってしまうと野外冒険は厳しいものとなり、冒険者業はしばらく休業状態となる。ギルドに持ち込まれる依頼の期限はいつもの二倍の猶予をもって設定されるが、受け手は激減して依頼だけが山積みとなっていく、そんな時期だ。
この時期は、冒険者たちの間では「雨の休暇」と呼ばれ、次の冒険のための準備期間や休養期間、あるいは一度メンバーがそれぞれの故郷へ帰るための、長期休暇のようになっていた。
ルシカたちも例外ではなく「今から二週間、猫屋敷呼び出しはしません。心おきなく遊んできて!」とルシカは仲間たちに告げていた。仲間もそれを休暇宣言だととらえて、それぞれ個別の用を済ませるべく、各地に散っていた。
特に戻る故郷もないルシカとセラは、何となく面倒くさくて、冒険拠点地としている自由都市リベルダムに残り、雨の休暇を過ごしている。
何もしない雨宿りのような時間。
ルシカにとっては、初めての長期休暇だった。故郷を失ってから、当たり前のように兄とアーギルシャイアの行方を追い続けてきた。駆られる思いのままに、休みらしい休みもないまま、走り続けてきたのだ。
そんなせっかくの休みなのだが。
*
……うっとうしい。
宿屋の二階にある談話室には他の宿泊客はいなかった。窓辺に立って外を眺めているセラはいっこうに口を開く気配はなく、降り続く雨音だけが静かな部屋に響いている。
周囲のことがまるで目に入ってないようなセラの様子が気になっていたルシカも、この沈黙に耐えきれなくなって、とうとう口を開いた。
「こんなに雨ばかりで息が詰まりそう。あたし、街へ出てみるけど……」
「わかった」
それだけかよ! こういう言葉は普通、一緒に行こうっていう意味でしょ!
ルシカの内心の声など聞こえないセラは、黙って窓の外を眺めたままだ。
ここ最近の空模様を反映するかのように、どうにも最近セラの雰囲気が暗い。セラにいつもの覇気がなく、一緒にいて居心地が悪いのだ。
普段のセラの態度は問題もあるが、ルシカは嫌いではなかった。強気な態度は、気力が充実して自信に溢れている状態だという証でもある。セラがそういう状態の時には、安心してルシカもぶつかっていけるのだ。
……もっともセラの不機嫌が最高値に近いときにそういうことをすると本気でキレられるが、ルシカはその手の勘は働く方で、一緒に過ごすうちに、なんとなく、やっていいときといけないときの区別はつくようになっていた。
それが、ここ最近のセラは、静かに何かを考えこんでいる。
こんなセラは扱いにくくて困ってしまう。どう接して良いかわからない。
セラを見ていると、不器用な人だと強く思う。態度のことを言っているのではない。こうやって時々自分の感情の処理だけで手一杯になってしまうところを見て、不器用だと。
だが我が身を振り返って思う。不器用なのは、自分も一緒だ。
もしかしたら、誰でも、そういうものかもしれない。
「それじゃあたし、出かけてくるね。闘技場でものぞいてくる」
そう言ってルシカは背を向けた。だが、セラは返事もしない。
気にし始めたらどんどん落ち込みそうなので、ルシカは何も考えず、宿の主人に声を掛けて、傘を借りると雨の街へと出かけていった。
*
本当は、理由なんて分かっている。
この居心地の悪さを、全部セラのせいにするわけにもいかなかった。セラが調子が出ないように、ルシカも調子が出ないのだ。おそらくはセラと同じ理由で。
――仮面の騎士・サイフォス――
闇の魔物を倒すとき、加勢を申し出てきた不思議な戦士。
見た瞬間、目を疑った。声をかけて問いただそうとして、でも何も言えずに呑み込んだ。素っ気ない態度、全くこちらのことを知らないような素振り。共に戦って、さらに混乱した。
身のこなしも太刀筋も使う技も、あまりにも覚えのあるものなのに、全然親しみが感じられなかった。
親しみどころか、むしろ――怖かった。
あなたは誰なの? と。
あたしは、もしかしたら、大切なものを、故郷とは違う形で失うのかもしれない。
*
「ルーシカ♪」
闘技場は超満員だった。雨の続きの日々に退屈して時間を持てあましているのは、みんな同じらしい。ひとまず時間だけでもつぶせればいいと思ったのだが、それすら無理で、諦めて宿に帰ろうかとギルド前の橋を渡りかけたところで、声をかけられた。
振り返れば、エステルが同じように傘を差して立っていた。
「エステル!」
「エヘヘ。見覚えのある後ろ姿だと思ったから、声をかけてみたんだ。こんな雨の中、何をしてるの?」
「暇を持てあまして、宿を抜けて来たところ。本当は闘技場にでも行こうかと思ったんだけど……」
「ああ。満員だったんでしょ。ボクもアテが外れたクチ。それじゃルシカって、今ヒマ?」
「もちろんヒマ!」
「じゃあさ。ボクとデートでもしない?」
「いいねえ。どこ行こう?」
傘を並べて騒ぎながら、二人は商店街の方へと向かっていった。
うろうろしたあげく、こういうときは甘い物を食べるのが一番と近くの飲食店に入り、甘味を注文して、お喋りに興じる。
こういう時間の使い方は久しぶりだと気づいて、ルシカは何となく可笑しくなった。
「あー。なんか休暇してるぞ! って感じがする」
「もうルシカってば、働き過ぎなんだよ。そう言えばセラはどうしたの? 一緒にいるんだよね。まあ、街中まで一緒に行動するようなタイプじゃないんだろうけど」
「一応誘ってみたんだけどね。雨と一緒に気分も停滞期みたいで、宿で留守番してる」
「……あのセラが気分停滞期……うわあ、なんか重そうだね。それでルシカまで気が滅入ってたの?」
瞬きして、ルシカはエステルを見つめた。
「あたし、そんな風に見えた?」
「う~ん。いつもの青空的な元気が足りなくなってる感じはするよ」
「そうか。うん、気をつけよう」
「何が原因なの? 雨が降ってるからってわけでもないでしょ」
「…………。いや、雨ってのは、けっこう大きいかも」
何かを追って走っている間はいいのだ。
こうして一時の雨に足を止めたときに、ふっと考えてしまうことがある。
雨が降っても、せいぜい一時の雨宿りができる場所があるだけ。戻る家はもうない。
長期の休暇をもらっても、一番の目的は、いつだって心から消えない。
大切な人を取り戻すために自分は旅をしているのだが、もしかすると、それは――。
「ねえ。エステルって、このあともヒマ?」
「え、うん、特に予定はないけど」
「何かパーッと遊びたくなっちゃった。付き合ってくれる?」
「珍しいね。どうしたの?」
「たまにはこういうのもいいかなあと思って。せっかくのお休みなんだし!」
*
エステルと酒場で騒ぎ、飲み過ぎてハイテンションになって潰れてしまったエステルを彼女の宿泊している宿屋に送り届けてきたので、ルシカが自分の宿に戻ったのは、深夜近くになってのことだった。
時刻が時刻なので、足音を忍ばせて部屋に戻る。
片側のベットには、すでにセラが横になっていた。自分も早く寝ようと思いながら、ルシカは空いているベットに向かったが、そのとき窓際に立てかけられている剣に目が止まった。
妖刀・月光。
恐ろしいほどの切れ味を秘めた実戦用の剣だが、月を象った意匠を宿した細身の優美な姿は、観賞用の飾り刀と呼ぶ方が相応しい気がする。こうして窓明かりに金の三日月のレリーフが鈍く浮かび上がっている姿を見れば、なおさらだ。
絶対にいけないことだと分かっていながら、誘われるままに、ルシカは月光に手を伸ばしていた。
手に取ると、予想していたよりも軽量だと感じた。刀身だけでなく、柄もかなり細身で、女性であるルシカの手にもしっくり馴染む。柄を握ったまま、右に引 き抜いた。するりと鞘から引き抜くときの音も立たない滑らかさと、蒼白く澄み切った刃の澄明さに、隅々まで手入れが行き渡っているのがよく分かる。
「勝手に触るな」
けっして大声ではないが、針のように突き刺さる鋭い声に、ルシカは振り返った。
セラが寝台に半身を起こして、ルシカを厳しく睨んでいた。
「ごめん」
謝りながらも、手は吸い付いたように月光から離れなかった。
剣を手放そうとする気配のないルシカに、セラは無言のまま寝台から降りて近づき、月光をルシカの手からもぎ取った。
指先が剣から離れた瞬間、何か別のものも手放してしまったような気がした。
聖剣・日光の片割れであり――相手の存在を感知する宝剣。
その月光をセラは大切にしている。そんな物に黙って触ったら怒鳴られる、あるいは冷たい視線を浴びせられてもおかしくないはずなのに、セラは静かに月光を鞘に収め、元の場所に返しただけだった。
屋根を打つ微かな雨音が、不意に訪れた沈黙に重なった。
セラの様子がおかしいのも、自分が弱気になっているのも、全部この雨のせいだ。いつまでも続く湿っぽい雨音は、気づかないうちに心にまで染みこむ。
セラが低い声で、そっと言った。
「あの仮面の騎士だが、俺の考えに間違いがなければ……」
思わず顔を上げたルシカに、セラは珍しく言葉を濁した。
「いや。間違いであれば、いいのだが」
セラはそこで話を止めて、再び寝台に戻ってルシカに背を向けてしまった。
ルシカも続きを問わなかった。
「……おやすみ、セラ」
小さく告げて、ルシカもベットに潜り込む。
早く雨があがるといい。
こんな些細な事柄で揺れてしまうような不安定な旅だから、足を止めてしまえば、不安に駆られて、調子が狂って進めなくなりそうになる。
この旅の続く先に微かな予感を覚えて――それでも旅をやめるという選択肢は、ルシカの中にはない。
2006-07-17