まだ名もなき頃の
これまで数多の怪物を滅殺・封印してきた。
元々無頼あがりの身だ。武器を振るうような荒事は得意であったし、これで人々の不安が取り除かれ、心やすく暮らせるならば、神官としての職務にも適うのだろうとどこかで思っていた。封士と呼ばれるようになり、知らぬうちに傲っていたのかもしれぬ。
そんな折り、ある強力な怪物の封印を頼まれた。
太古の神より生み出されし異形のそれは、地上のその他多くの怪物とは違い、殺しても神の元に還り、更に強力になって復活するという。それ故に封印が望まれていた。
だが封印というのは場を整えた上で、相手を弱らせ、こちらの術の威力が相手を上回って可能となるもの。相手が強力であればあるほど難しい。やむを得ぬ場合は、殺すことで決着をつけるより他ない――。
結果として、その怪物を封印することは適わなかった。
殺さなければ殺されるという瀬戸際の戦いで、辛くも自分は生き残ることができた。だが。
(お前達はいつもそうだ! 自分らの生活、欲望、快適さのために奪い、傷つけ、壊し、殺す! 我が母が全てを生み出せし時よりずっと)
憎イ苦シイ恨メシイ許サナイ。断末魔のように放たれた思念に動けなくなった。その内容にではなく、その訴えを怪物が起こしたという事実に。
知能もなく、ただ人間を見れば、見境なく襲うよう本能づけられた異形の怪物。自分がそう思って殺し封じてきたものらが、心と言葉と思念を持つ「生き物」だということに、初めて思い至った。
そして今再び、その怪物『ティラの娘』の封印を頼まれた――だがもう、殺したくなかった。
* * *
……変わった男だった。
多くの者たちが、自分を見るなり、武器を手にし呪文を口にし、肉を骨を切り刻んできた。その痛みと恐怖と憤怒は、この身に巣くっている。襲わぬよう逃げぬよう、半死半生で、翼を折られ足を切られ、封じられた屈辱もまた然りだ。
だから封印が解け、この身が回復したときは、報復を求めたし、人を見れば襲った。先手を取らなければ再びこちらが殺される。そういうものだと思っていた。
なのに、この男は。
険しい山道を乗り越え、今日ものこのこやってきた。廃墟となった人間の町を見下ろす岩山には、道などあるようでない。この峻険な山道を登ってこられるのだから、傷はもういいのだろう。
肩には深く爪を食い込ませたはずだったし、足にも牙を突き立てたはずだった。今回は三週間来なかったことを考えると、それだけの深手を負わせられたことに満足をする。
もう半年近く、この男と小競り合いを続けている。
初戦は向こうが優勢だった。手早く術を唱え、力を弱め、場を整える一連の流れは見事なものだった。再び封じられるのかと憎く思ったそのとき、その男はふっと迷うような仕草をした。そして唐突に術をほどくと、背を向けて山を下りていった。
呆気にとられた。だが油断はできない。
用心しながら待つこと二週間。その男は再びやってきた。今度は向こうに重傷を負わせてやれたが、とどめを刺すには至らなかった、こちらも手痛い反撃を受けて動けなくなった。また傷が治るのを待たねばならなくなった。
あいつは何とか逃げ帰り――もう、来ないだろうと思った。
だが、また来た。
あとはその繰り返しだ。互いにやり合い、動けなくなったら帰って、快復したら再戦をする。おそらく今日もそうなるだろう。
だが予想に反して、男は武器ではなく、白い紙を取り出し座り込んだ。
本当に、何を考えているのか分からない男だった。
* * *
……勝手なことばかり言いおって。
まだ封印できぬのですか、それほど強力ならば退治も構いません、もう半年です住人も安心できません、と出がけに口々に神官たちに言われたことを思い出す。
『新たな封印の術を試しておる! 待っておれ』
というハッタリがきいたのは、結局自分に封じることができなければ、他の誰にもできないからだ。それに曲がりなりにもアルノートゥンの太守なので、自分の判断一つで、事の収め方を決められる。ここだけは、偉くなって良かったと思う部分だ。
ティラの娘は、奥から少しだけ身を乗り出している。
見たところ、まだ傷は完治していない。深く傷ついた右脚は引きずっているようだし、折られた爪も生えていない。今日は大丈夫じゃろう。
持ってきた紙を広げる。神官達も、相手が重傷を負っている様子を見せれば、安心するだろう。絵でも描いて見せてやろうと思ったのだ。
確かに状況が見えないまま月日だけが流れれば、人が不安になるのも事実だ。こうして先延ばしにし続けてきたが、時間もかけられない。
「争えば憎しみ、封じれば恨み、殺せば悲しみ……はてさて悩むの」
呟きながら、手早く絵筆を走らせる。
退治してきた怪物を描いたことなどなかったと気づいて苦い気持ちになる。わざわざ絵として残そうと思わなかった。
今初めて描こうとしている、目の前の存在を見る。
屈強な爪に空を覆うほどの巨大な翼。山の巌を思わせる黒々とした体躯に、朱く光るいくつもの眼。確かに非力な小さな存在である人間の眼には、恐ろしいものと映るかもしれない。
だが画家としての眼で見れば、そこにあるのは「存在」それだけだった。醜悪さも凶暴さもなく、あえて見いだそうとすれば、太古の神の嘆きを背負い生まれた生き物の強さと、悲哀があるだけだ。
見てしまえば、恐ろしいだけのものではないのだ。知らないから人は恐れる。話せないから消そうとする。
無心に筆を走らせていると頭上から声がふってきた。
「ソレハ……オレ、カ?」
* * *
自分の眼前で座り込んだ男は、一身に腕を動かしている。
唖然とする。自分を殺すかもしれない相手の前で何をやっているのか。いや、それとも殺さないと思っているのか。
牙を立てるべきか悩んだが、何故かそうしたくないという思いと、この不思議な男が何をしているのか気になった。そうっと首を伸ばし、真上から手元をのぞき込む。
周囲と全く同じ岩山が、白い紙の中に写し取られていた。鏡に映したような、見事な腕前だった。だとすれば、この中央に描かれているものは。
「ソレハ……オレ、カ?」
驚いて顔を上げた男を見下ろす。初めて、まともに目を合わせているような気がした。周囲の岩山と比べれば、あまりに小さな存在だった。自分が爪先でひっかいて、手のひらに乗せればそのまま握りつぶしてしまえそうなほどの。
そんな彼らには、自分がこんな風に映っているのか。
「おぬし言葉が……いや、そうだな。そうであろうな」
なぜか納得したように男は頷いた。それから、ふと紙の中とオレを見比べて呟く。
「人は見えねば不安に思う。見れば威容に脅威を抱く。だが、やはり紙越しではなく、実の姿を見て、対話せねば始まらぬのかもしれんな」
男は手もとの紙を見つめていたが、その男の手が動いた。紙の上のオレの足下に、もう一匹――十分の一ほどの小さなオレを書き足す。
一度目を閉じ、開いて、その男は言った。
「わしの名はイオンズという。麓の先の都市アルノートゥンを任されている者よ。突然じゃが、おぬし、わしと一緒に人間の街に来ぬか?」
意味が分からず黙っていると、イオンズは続けた。
「この紙に描いたような小さな姿であれば、人はおぬしを恐れずにすむかもしれぬ。おぬしが喋れるのであれば、人間達と会話をすることができるかもしれぬ」
「ソンナ事ヲ、シテ、ドウナル?」
「分からん。だが、わしはもう嫌になった。殺すのも封じるのも――悲しみも憎しみも恨みも。お前達もわしたちも、それらを溜め込み、次へと送る。だがそれは何一つ生み出さぬ」
イオンズの声は、ため息のように響いた。
「疲弊していくだけじゃ。わしらもおぬしらも、おぬしの母も。奪うことも奪われることも、殺すことも殺されることも、同じ紙の裏表。行き着く果ては、ともに虚無の地平よ。癒されることは決してない」
同じ紙の裏表。その言葉は欺瞞ではなく、不思議と我が事のようにも響いた。それだけの重みが、この男の言葉にはあった。だがそれが、先の提案とどう重なるのか分からなかった。
「小サナ姿……身ヲ封ジル、デハナク、オレヲ、無力ニシテ、飼ウ、ト?」
イオンズは笑って、首を振った。
「姿を小さくするのは、無用な争いや誤解を避けるためよ。おぬしは客人だ。力は封じぬから、嫌になれば、いつでも元の大きさに戻るといい」
まじまじとイオンズを凝視した。
「本気、ナノカ?」
「ハハハ。昔の血が騒ぎよる。これは賭のようなものだ。おぬしに、おぬしを追い回し、封じた人間たちの中で暮らしてみろと言うのだ。こちらも命を賭けなければ、公平ではなかろう」
イオンズは毅然として告げた。
「わしはわしの力の限りに置いて、人間におぬしを襲わせぬ。だからおぬしも約束して欲しい。闇雲に人間を襲わぬと。破られれば、わしはおぬしを封じる。命に代えても。また人間の誰かがおぬしを襲ったら、遠慮なくわしを殺すといい。決して恨みはせぬ」
今ひとつイオンズの言うことは良く分からなかった。だが、この男は自分の命と都市一つ、そしておそらくは同胞の人間の行為の責任と危険も、全て自分が背負うと言っているのだろう。
人間への恨みはある。母や兄弟たちを思えば、簡単にそれを捨てることはできない。
だがもし断れば、イオンズは自分を封じるだけだろう。イオンズがやらずとも他の誰かがやってきて、自分を殺すか封じるだろう。自分は母の元に還り、同じようにこの世に生を受け、同じように退治され。
何一つ、生み出さぬ――その男は言った。殺されるのも封じられるのも悲しむのも憎むのも恨むのも。
「イイダロウ。ソレデ、何ガ変ワルカ、分カラヌ、ガ」
「来てくれるか!」
イオンズの顔が喜色に輝く。本当に訳の分からない男だった。そこでイオンズはこちらを仰ぎ見た。
「ならば呼び名がないと不便だな。名はないのか?」
「名? ソレハ何ダ?」
* * *
――イズキヤルと名を付けた。
かつてアルノートゥンを統治していた神聖王国アレルシア七王のうちの女性の名だ。古の怪物ティラの娘の呼称にちなみ、そう名付けた。それともう一つ。
七王イズキヤルは、同胞シャロームの離反に合い、殺されたと聞く。シャロームのように裏切り、殺すことはするまい。誰にも言わぬが、そんな戒めも密かに込めている。
最初イズキヤルを連れて帰ってきたときは大騒ぎになった。だが自分の名に置いて、反対意見は封殺した。出がけに告げた『新たな封印の術を試しておる!』が効いたのかもしれない。本当は何一つ封印はしていないのだが、一世一代の大勝負には、こういうイカサマも必要だ。特に否定も肯定もしていないまま押し通している。
イズキヤルは、都市の子どもたち相手に楽しくはしゃぎ回っている。その姿を絵筆で描きながら、以前岩山のイズキヤルの前で、悩みつつ筆を走らせたことを思い出す。
(争えば憎しみ、封じれば恨み、殺せば悲しみ――生きることは試み、か)
彼女らをただ怪物とだけの認識でいた頃は、その絵は一枚もなかった。ティラの娘という存在を知り、それに独自の名前さえつけたならば。この先はその姿を、たくさんの試みを、描き残せるといい。
祈りながらイオンズは「イズキヤル」を描いている。
2018-07-02
この話を書くに辺り、イオンズの設定を調べなおしたんですが、元無頼の傭兵出、今はアルノートゥンの実質の指導者たる神官長、レオニックにならい封士と呼ばれ、宮廷画家並の腕前でイカサマ博打が得意……これ、たぶんどれが欠けてもイズキヤルを連れて帰れなかったのでは?と思いました。ちゃんと必要あっての設定だと思うとすごいなあ。